最終話 5年後の君に会いに
1900年4月某日のことだった。
俺は変わらない日常を送っていた。
銃職人として勤務し、銃を製造する。
工房ではもう熟練者の域に入っていた。
この生活も悪くないと思う。
たまに掃除屋としての仕事も舞い込む。
この業界も移り変わりが激しい。
どうにか生き残る内に、俺の評判は上がっているとか。
今ではロンドン在住の掃除屋の中ではトップ3に入ると聞いた。
情報源は目の前の女だ。
つまりキャロル・ウォーカー。
「しかしあれだね、ニック。ご指名が絶えないとは名誉なことじゃないか。君としては不本意かもしれないけれどね」
「よく分かってるな。俺としてはそろそろ足を洗いたいんだが」
いつものパブで俺とキャロルは会っていた。
季節が春めいてきたせいだろう。
周囲の酔客も陽気に騒ぐ奴が多い。
春独特の浮足立つような感覚はちょっと苦手だ。
花粉症でもあるし。
今もほら。
「っ、くしっ。失礼」
「おお、どうした、ニック。誰か君の噂でもしているのかな」
「ただのくしゃみだ」
花粉症とは言わなかった。
19世紀にはまだその言葉は一般的ではないからだ。
こういう点が地味に不便だったりする。
キャロルは「お大事に」と皮肉っぽく微笑んだ。
「そこでだ。いいものを見せてあげよう。きっと風邪も吹っ飛ぶから」
手元の新聞を開き、俺に突きつけてきた。
俺は「何だよ、いきなり」と言いながらその記事に目を通した。
芸能欄だ。
一枚の写真と共に短い記事が載っている。
写真には若い女性が写っていた。
画像の粗い白黒写真でもすぐに分かった。
見出しにさっと目を通す。
『人気劇団ロンドンブリッジの春の公演。題目は椿姫。公演場所はハーマジェスティーズシアター。
注目の若手女優、サラ・フォーデンが初主演』
そうか。
良かったな、サラ。
君の夢が叶う時が来たんだ。
5年前、俺はサラを何とか逃がすことが出来た。
追手を全て始末さえすればどうにかなった。
サラの身柄はキャロルに預けた。
あの後聞くと、サラは泥だらけで彼女の事務所に辿り着いたらしい。
夜道を必死で走ったのだろう。
よくやったと思う。
俺が直接彼女に会うのははばかられた。
人を殺める仕事をしているとあの時言ってしまったからだ。
だからあとはキャロルに頼むしかなかった。
彼女の伝手でサラに仕事を紹介してもらった。
おかげで俺はキャロルに頭が上がらなくなったが。
それでも別に構わなかった。
たまにキャロルからサラの様子は聞いていた。
それで十分だった。
ある劇団の見習いとなったと聞いた時、良かったと心から思った。
彼女が夢へのレールを歩み始めたのが分かったから。
それが3年ほど前になる。
そしてついに、夢が現実となる時がきた。
回想を打ち切る。
黒ビールを喉に流し込んだ。
胸にじわりと滲む何かがあった。
「前祝いだね」とキャロルも嬉しそうだった。
「ああ」と答えると、彼女はポケットから何か取り出した。
一枚のチケットだった。
「これは私からのプレゼントだ。ニック、行ってきなよ。初主演だよ?」
「……オペラなんか行ったこともないぜ。俺には似合わない」
「おやおや、私の好意を無駄にする気かい。このチケット手に入れるの苦労したんだけどなー」
「分かった、悪かった。素直に行きたいと言うべきだったな」
苦笑し頭を掻く。
ここは変な意地を張っても仕方がない。
「よろしい」と言ってキャロルがチケットを渡してくれた。
確認すると公演初日の日付が印字されていた。
3日後か。
予定空けておかないとな。
† † †
ハーマジェスティーズシアターはウェストエンドの一角にある。
数ある劇場の中でも格式高い劇場だ。
この辺りにはピカデリーサーカスやナショナルギャラリーもある。
地域全体が美や文化を愛でる空気を醸し出していた。
何となく気後れしながら、俺はシアターに着いた。
係の人にチケットを渡し、指定された席に座る。
二階席だが舞台を見るには問題ない。
さりげなく周囲を観察する。
一流の風格が内装一つ一つから伺えた。
"ここでサラが歌うのか"
不思議な感覚だった。
けれど悪い気はしなかった。
待つことしばし、やがてオペラの幕が上がった。
主演ということもあり、サラの出番は早かった。
俺は自然と目を惹かれた。
舞台衣装に身を包み、その表情は溌剌としている。
他の誰にも見劣りしていない。
彼女が主演になったのも納得だ。
"努力したんだろうな"
俺にはオペラの知識は無い。
だが所作の一つ一つから分かるものはある。
よほど役に入り込まねば、あの演技は出来ないだろう。
観客に見せることを考え、魅せることを徹底している。
オペラの筋にも引き込まれた。
劇場全体が一つの物語の舞台と化したかのようだった。
演じる側と観る側に分かれ、それでいて一体となっていた。
その中心にサラがいる。
観客全ての視線を集めていた。
演技に歌が加わった。
彼女が何より望んでいた機会だ。
音響効果を計算された空間に、サラの歌声が響く。
天性の華やかさは彼女の声の特徴だ。
5年か。
俺があの日、イーストエンドの路上でサラの歌声を聞いてから5年か。
分かる。
磨き上げてきたのが分かる。
君がこの歌声を必死に磨き上げてきたのが伝わってくる。
自分の夢を叶えるためというのもあるだろう。
だけどそれだけではないはずだ。
訴えたいもの。
伝えたいもの。
聴いてくれる人の心に届けたいものがあるから。
サラ、君の歌はこれほどまでに。
あの日、ロンドンの空に響いたものが。
今、確かに俺の胸に届いていた。
† † †
劇の終盤、主役の椿姫がハンカチを使うシーンがあった。
そのハンカチを見て驚いた。
俺があの時サラに渡したものに見えたんだ。
まさか捨てていなかったとは。
「返しますから」という言葉を忘れていなかったのか。
いや、そうとは限らないか。
たまたま似たようなデザインのハンカチなのかもしれない。
"もしこの先サラに会うことがあれば聞いてみようか"
楽屋に花束でも持っていけば、きっと教えてくれるだろうさ。
それがいつかは分からないけれどね。




