第二十六章 余白から始まる訂正
私は、見つけただけです。
その文字は、正式な記録欄の外にあった。
ニナ・ラスク隔離聴取記録。
その余白の端。
行から少し外れた場所に、小さく、けれど消えないように書かれている。
何度見ても、胸の奥が痛んだ。
本文には、こうある。
本人は関与を否定。
束番号一三五について記憶なし。
第三棚未整理箱から当該罪状記録を発見したと供述。
整っている。
読みやすい。
扱いやすい。
でも、ニナの声はそこにはなかった。
私は、見つけただけです。
余白にあるその一文の方が、ずっと彼女の声に近かった。
「会わせてください」
僕は言った。
声は、自分でも分かるくらい硬かった。
セリア・フォールは、記録室の机の向こうで顔を上げる。
「できません」
予想通りの答えだった。
「謝りたいんです」
「でしょうね」
短い返答。
冷たい、というより、逃げ道を先に閉じる声だった。
「ですが、今会えば謝罪で終わります」
「終わらせるつもりは」
「あなたのつもりの話ではありません」
セリアは聴取記録を指さした。
「彼女はあなたを信じていました。そのあなたが謝れば、彼女は自分の傷より、あなたの苦しさを軽くしようとするかもしれない」
言葉が喉で止まった。
「必要なのは、謝ることではありません。ニナ・ラスクの証言を正式記録へ戻すことです」
僕は余白の文字を見た。
謝れば、少し楽になる。
謝らなければ、苦しいままだ。
でも、これは僕の苦しさの話ではない。
ニナの言葉が、本文から押し出されている。
それを戻す。
それが先だ。
バルト主任が低く唸った。
「訂正記録を作るなら、根拠を揃えろ」
彼は腕を組んでいた。
眉間にはいつもの深い皺。
ただ、今日は怒鳴る前の顔ではなかった。
疲れている。
悔しがっている。
「感情で書けば、また別の記録に負ける」
「はい」
僕は手帳を開いた。
ニナの以前の証言。
紙の向きが逆だった。
端が少し湿っていた。
文字は滲んでいなかった。
触った時、ほかの紙より冷たかった。
甘い匂いがした。
待合室のリナの匂い袋を思い出した。
僕は一つずつ書き出す。
そのどれもが、当時は小さな違和感だった。
でも今は違う。
存在しない束番号一三五。
偽装束の可能性。
処理者欄の筆跡は、ニナ本人の癖と違う。
“ク”の払いが違う。線の止め方も違う。
ニナは、最初に発見した。
だが、処理したとは限らない。
「一三五番について」
セリアが言う。
「現時点での扱いは?」
「毒本体を運ぶ束ではなく、罪状記録を正規搬入物に見せるための偽装束だった可能性が高い」
僕は答えた。
「ニナの名前は、毒殺の実行経路ではなく、記録改竄の経路に使われた可能性があります」
「記録してください。事実と仮説を分けて」
「はい」
僕は新しい紙を出した。
訂正記録。
その言葉だけで、手が少し重くなる。
バルト主任が机の端を指で叩いた。
「言っておくが、補助記録という扱い自体が悪いわけじゃない」
主任の声には棘があった。
「現場の発見証言、搬入時の気づき、子供の感覚、そういうものを全部そのまま主記録に入れれば、記録は読めなくなる。整理するために補助記録がある」
「分かっています」
セリアが答える。
「分かっているならいい」
「ですが、今回は補助扱いによって証言の重みが落ちました」
主任は黙った。
セリアは続ける。
「発見者の証言が、処理者欄の名前に負けた。制度の目的は整理でも、運用の結果として声が軽く扱われた」
主任の拳が握られる。
「……そこは、認める」
低い声だった。
「保管所がニナの証言を補助扱いにした。その結果、あいつの言葉より、処理欄の名前が先に見られた」
彼は僕を見た。
「だが、制度を全否定するな。記録を整理しなければ、弱い証言はもっと早く消える。字の強いやつ、声の大きいやつ、金のあるやつに潰される」
「はい」
僕は頷いた。
主任は制度を守りたい。
その気持ちは、本物だ。
でも、守るための棚に入れた声が、棚の奥で見えなくなっている。
その両方を、書かなければならない。
「訂正記録の目的は、制度を壊すことではありません」
僕は言った。
「補助記録に置かれたニナさんの証言を、主要証言として扱い直すことです」
主任はしばらく僕を見ていた。
「……書け」
短い言葉だった。
許しではない。
でも、許可だった。
僕はペンを持つ。
何から書くべきか。
ニナが泣きそうな顔で言った言葉。
私は見つけただけです。
あれをそのまま冒頭に置きたいと思った。
でも、それだけでは感情記録になる。
必要なのは、彼女の言葉を正式記録へ戻すこと。
余白から、本文へ。
僕は一行目を書き始めた。
訂正記録案。
マルク・レイン罪状記録発見経緯に関する再評価。
ペン先が紙を削る音がした。
セリアは何も言わない。
バルト主任も黙っている。
僕は次の行へ進む。
本件発見時、見習い職員ニナ・ラスクは、当該罪状記録について以下の具体的証言を行った。
紙の向きが他束と逆であったこと。
紙端が湿っていたこと。
触感が他の搬入紙より冷たかったこと。
甘い匂いを感じ、被害者リナ・ベル所持の匂い袋を想起したこと。
さらに。
存在しない束番号一三五は、当該罪状記録を正規搬入物に見せるための偽装束であった可能性がある。
同束処理者欄の筆跡は、ニナ・ラスク本人の通常筆跡と一致しない点がある。
ここまで書いて、手が止まった。
次の一文が必要だった。
ニナの証言を、補助ではなく主に戻すための一文。
以前、僕が言えなかったこと。
以前、余白に残っていた声。
僕は息を吸った。
そして、書いた。
「本件発見者ニナ・ラスクの証言は、補助記録ではなく主要証言として扱うべきである」
書いた瞬間、胸の奥が重くなった。
楽になったわけではない。
謝れたわけでもない。
ニナが許してくれたわけでもない。
ただ、彼女の声が余白から本文へ、最初の一歩を踏み出した。




