3
「この世界の時間は、お前の元いた世界とは少しずれている。そうだな……八年ほど違っているかな」
それはだいぶ大きな差なんじゃないのか。
「下手したら小学生が高校生になるよ?」
「世界全体のスケールから見れば、八年など誤差としてすら認識されない程度の些末な違いだ」
「私の人生から見たら三分の一ぐらいに当たるんだけど」
私の反論は、例によって神通力で封じられた。今度はベッドの上ではなくて床に立っている状態だったので、危うくキッチンとの間を仕切る引き戸に突っ込むところだった。
「とにかく、この世界のお前に当たる人間は十七歳だった。その存在と入れ替わったのだから、お前も十七歳だ。若返ったぞ、よかったな」
むちゃくちゃを言う。
「……この見た目年齢で十七歳を名乗るのはちょっと勇気がいるんだけど……」
十七歳の人物と入れ替わってしまったのだから、私も十七歳ということにしなければならない。
百億歩くらい譲って、それは仕方ないとしよう。でも、設定上の年齢と見た目が合致するかどうかは別の問題だ。
でも私の訴えに、女の子は首を傾げた。
「そうか? その顔なら特に問題はないと思うが」
その言葉を聞いて、ふとある可能性が思い浮かんだ。
この世界に来てから、私は自分の顔を見ていない。
基本的に不愉快なものしか映らないから鏡は嫌いだ。鏡だけでなく、ショーウインドウやコンビニの冷蔵庫の扉の金属部分、果ては電源オフ状態のスマホ画面まで、顔が映りそうなものは極力見ないようにして生きてきた。
それがすっかり習慣化されてしまっているようで、この部屋で目覚めて以降、自分の顔を見た記憶はない。
ということはもしかすると、自分では気づいていないだけで、私の顔は今までとは全く違うものになっているのかもしれない。そう、たとえば、転げ回りすぎて目を回したのかベッドに伸びているこの美少女すら、うっとりと見とれるくらいの美しい顔に。
そう考えると全ての辻褄が合う気がして、私としては本当に珍しいことに、鏡を求めて風呂場に行く。
ちなみに、風呂場には色とりどりの液体が入った瓶がずらりと並べられて、実験室みたいになっていた。この中からシャンプーやボディソープを探さなければならないのだとしたら泣く。
結論から言えば、風呂場の鏡に映ったのは見慣れたブスだった。
「……全然変わってないじゃん」
すごすごと風呂場から退散して部屋に戻った私は、八つ当たり気味に呟いた。女の子はくりっとした目を不思議そうに瞬かせる。
「何がだ?」
「私の顔だよ! これで十七歳って、やっぱり無理あるでしょ!」
美人になっているかもしれないなんて期待したのを知られるのは恥ずかしすぎるので、見た目年齢にだけ触れることにする。
「いや、それは十七歳の頃のお前の顔だぞ」
「……え?」
「こちらの世界に来るとき、この世界のお前の年齢に合わせて外見上の年齢も変わったはずだ。今のお前の顔は、十七歳の頃の顔になっているはずだぞ」
女の子の表情も声も真面目で、おちょくっている感じではなかった。
私は半信半疑でもう一度風呂場に向かった。そこで鏡に映った自分の顔をしげしげと観察する。
十七歳の頃の自分の顔なんて思い出せない。でも、見覚えのある最近の自分の顔とそう変わっていないような気がする。
――そうか、私、昔から年齢不詳系ブスだったんだ。
唐突にそう気がついて、私は絶望のあまりその場にくずおれたのだった。
ローテーブルを挟んで幼馴染みと向かい合い、朝食を食べ始める。
毎度のことだけど、幼馴染みはちゃっかり自分の分まで同じものを用意していた。ただ、資金は私の親持ち、かつ食材の買い出しは幼馴染みがやっているので、文句を言う権利は私にはない。
この世界にいた私の両親は、それぞれ海外赴任しているため、私は高校に入学するタイミングで一人暮らしを始めたらしい。
ちなみにこの世界の教育システムは、少なくとも日本に限って言えば、私がいた世界とだいたい同じらしかった。更に言うと、日本はこの世界でも日本と呼ばれていたし、地図を見せてもらった限り、形も位置も見慣れた日本と一致していた。
あの女の子が言っていた、私のいた世界に一番近い平行世界がここだったというのは伊達じゃない。
幼馴染みから私が一人暮らしをしていたことを聞かされたとき、この世界の私の両親はずいぶん放任主義だなと思った。元の世界の両親もそれほど過保護な方ではなかったけれど、それでも私が実家を出たのは高校を卒業してからだ。
でも、こちらの世界の両親も、子供を完全にほったらかしというわけではなかったらしい。
「おじさんとおばさんには、うちの子をくれぐれもよろしくって言われてるからね。毎朝起こしに来て、ご飯作ってあげてたの」
そう胸を張った幼馴染みに、両親は私の面倒を見てくれるよう頼んでいたらしい。
幼馴染みはこの世界の私と同い年だったそうなので、面倒を見るという表現はちょっとどうかと思うけど。ついでに、くれぐれもよろしくと言われたからといって、毎朝起こしに来て朝食の準備までするのもどうかと思うけど。
「だって隣の部屋まで借りてくれたんだもん。私だってそれぐらいのことしなくちゃ」
一応「ちょっとやりすぎじゃないっすか」というのをめちゃくちゃ遠回しに言ってはみた。そうしたら、そんな衝撃の発言が返ってきたのだ。
なんと、この世界の両親は、私だけでなく幼馴染みにもアパートの一室を借りていたという。それも、同じアパートの隣同士の部屋を。そして二人分の食費を幼馴染に送って、私にまともな食事を摂らせるよう計らっていたという。
放任主義どころか、むしろ超過保護なんじゃないかという気がしてきた。
高校生にして一人暮らし、しかもアパートの隣の部屋には同じく一人暮らしの幼馴染みの美少女。気の迷いで死のうとしたら、男子高校生の夢を煮詰めたような環境に置かれたけれど、残念ながら私は女で、かつブスだった。
ふと視線を感じて、オレンジジュースのコップを口に運びながら目を上げると、幼馴染みが大きな目で私を凝視していた。窓から差し込む朝の光を受けて、その瞳は大粒の宝石みたいにきらきら輝いている。
うーん、今日も頭に来るほど美少女だ。下半身が下着だけの間抜けな格好のままでも問題にならないくらい。
「……今日もやっぱり美人だねー」
「ぶふぉっ」
心を読まれたかと思って、激しくむせた。オレンジジュースが鼻から出そうになる。
「うわ、大丈夫?」
渡された箱ティッシュを数枚引き抜いて鼻を押さえる。心配そうに私を見る幼馴染みの姿が、鼻水と一緒に出た涙でちょっと滲んだ。
「……綺麗な目してるだろ、節穴なんだぜ……」
「え?」
「……何でもない」
多少ぼやけてもやっぱり綺麗なその瞳に、つい呟いてしまった。でも幼馴染みの目だけが節穴なわけではない。
この世界の美人の基準は、私がいた世界と逆になっているみたいだった。つまり、幼馴染みはこの世界では決して美少女ではない。逆に私は、この世界の人々から見ると絶世の美少女ということになる。
二十五年かけて培われてきた美的感覚がいきなりコペルニクス的転回を迎えて、この世界に来て一週間が経つ今でもどうしていいか分からない。
幼馴染みはちょっと怪訝そうな顔をしたけど、壁にかかった時計を見てはっとした顔になった。
ちなみにその時計は「真実の口」の上に長針と短針がついたみたいな見た目をしている。この部屋にあるもの全てに言えることだけど、どこで売ってるんだ。
「あ、ほら、早く食べないと! 学校遅れるよ!」
「……行きたくない」
「またそんなこと言ってー」
幼馴染みは頬を軽く膨らませてみせた。可愛い。可愛いけど、だからといって学校に行きたくなるわけじゃない。
朝食を摂る手を止めて、食べ終わらないから行けないアピールをしてみる。
幼馴染みはそんな私をじとっとした目で見つめて、重々しく口を開いた。
「欠席なんかしたら大騒ぎになるよ? クラス中、いや学年中、下手したら学校中の生徒がうちまで押し寄せてくるかも」
「急いで食べて行きます」
この一週間で実情を嫌というほど見た後なので、その言葉はあながち大袈裟だとも思えなくて、私は素直にトーストを口に詰め込んだ。