終 雲の上の世界
最終話です。
しっとりと雪の積もった静かな森には、雪が草鞋と蹄を吸い込む音だけがきゅっきゅと響いていた。
滅多に雪の降らない明月ノ国に珍しく雪が降り、国境にまではべるこの森も、いつもより数段上の静けさを醸し出す。
ほとんどの人間は知らないことだが、奥まったところではひっそりと雪姫が咲いていた。
白い息を吐き、愛馬の手綱を引きながら、夜光はあたりを見回して歩いていた。
森に雪が積もった風景などなかなか見られるものではない。
ふと、手にした称華の花束とこの雪と、どちらが白いかなどと考えてみる。
しかしそんなことを考えているうちに思考は別の方向へと流れてしまった。
称華を見ると、どうしてもこれまでのことを思い出さずにいられなくなるのだ。
(もう二年、か……)
『あの日』から二年の月日が経っていた。
この二年間で夜光を取り巻く環境は変わった。
何より大きな出来事として起こったのが、水深国の独立と葉華国の"花鳥風月"台頭だった。
堯郷殿が中心となって動いたらしい葉華国の観光業は一度軌道に乗ると他国が唖然とするほど上手くいき、葉華国は名実共に"花鳥風月"の筆頭にふさわしい国へと成長した。
水深国の方は独立して一年ほどはさすがに苦しい状況に置かれていたが、空臨国の第四皇子と鈴風様の縁談がまとまってからは風向きもよくなり、今では右肩上がりの成長を続けている。
鈴風は、こうなることを薄々分かっていたのではないかと夜光は考えている。
水深国の王に呼び戻されて、明月ノ国を去る前日、鈴風は夜光に会いに来た。
いつもと同じ、鈴風の世間話に夜光がうなずくだけの穏やかな時が過ぎて。
しかしその最後に、夜光が今まで見たことの無いような悲しそうな笑顔で一言「ありがとう」という言葉を鈴風は残した。
そして翌日には、寂しそうな素振りひとつ見せずいつものごとくひらりと馬に乗って、明月ノ国を後にした鈴風であった。
そして忘れもしない『あの日』。
『あの日』、如月を刺した人物を如月は終に話さないままだった。
巷では、葉華国を愛するあまり国を裏切ったように見えた如月が許せない者の仕業だとか、実は鈴風の裏工作だとか、もっともらしい噂が流れはしたが、真相は如月の胸の中にしまわれたままだった。
もしかしたら彼女自身も下手人の動機までは分かっていなかったのかもしれない。
そして今日。
『あの日』からちょうど二年目のこの日。
夜光は控えめの称華の花束を片手に月の泉に向かっている。
雪が降るほど冷え込んでいるのだ、月の泉は凍っているかもしれない。
そんなことを考えながら、ようやく到着した月の泉で夜光は言葉を失った。
一面に広がる、銀世界。
凍った泉の上に雪が積もって。
太陽の光を反射して雪自身が宝石のように――否、それよりはるかに美しくきらめく、そこには幻想的な風景が広がっていた。
そんな光景の中。
それでも色あせることなくもっとも輝いているのが――
「あ、殿っ!」
――夜光を見て笑う如月の弾けるような笑顔だった。
重態だった。
どんなに夜光が呼びかけても目を覚まさなかった。
辰実が呼んできた医師によってすぐに処置がなされ、それでも予断を許さない状態が続いた。
食事もろくにとらないまま、夜光は如月の元を離れようとしなかった。
ひたすらその手を握って、如月が目を覚ますことを願い続けた。
そんな五日目の夜、ふと如月の意識が戻り、驚いたように夜光を見た。
「殿……? なん、で……」
目の前の光景が信じられず、しばらく何も言えなかった夜光がようやく応じた言葉は。
「……ずっと側にいろと言ったのはお前だろう」
こみあげてくるものをこらえて言う夜光はぶっきらぼうで。
それでもそれを聞いて、如月は幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう」
その笑顔を見ていると目の裏が熱く熱く。
こらえきれなくなった夜光の目から涙がこぼれる。
そんな夜光に如月は首をかしげてたずねた。
「殿? どうして泣いて……」
「っ……泣いてなどいない」
「え、でも」
「泣いていないと言っているんだ」
「う、うん」
有無を言わせぬ夜光の声に戸惑いながらもうなずいて、それでも少ししたらまた如月は微笑む。
それにつられるように夜光も涙を抑えながら微笑んだ。
(我ながらあの時はくだらない意地を張ったものだ)
隣で空を見上げる如月はもうすっかり元通りで。
その笑顔をこれからずっと守っていくのだという誇りと幸せが胸に湧き上がってくる。
そう、あれから二年経った今日この日は、大切な日。
如月はと言うと、夜光の傍らでそれまでのようにじっと空を見上げていたが、やがて良いものを見つけて、夜光の袖を引っ張った。
「殿! ねぇ殿、見て!」
「なんだ?」
如月が空の一角を指さす。
「あれ! あの雲すっごく綺麗だよ!」
如月の指す方向にはどことなく暗い色の雲が一つ。
でも夜光なら分かってくれるから。
如月はにこにこして夜光の方を見た。
「ね? 綺麗でしょ!」
そして夜光はちゃんと分かっていたから。
如月の頭にそっと手を置いて言った。
「あぁ、綺麗だな」
如月が言っているのは夜光たちには少ししか見えない、雲の上側の部分のこと。
暗い色の雲だからこそ、輝く上側の部分が引き立って、白く、美しく見える。
「如月」
それから少しして、ふと思いついたように夜光は如月の頭から手を下ろした。
「なぁに?」
如月も空を見るのをやめて夜光に向き直る。
「お前は……今でも雲の上の世界に行きたいのか?」
「え?」
聞かれたことの意味が分からず問い返した如月に、夜光はいつもの静かな視線を送り続ける。
少し考えて、質問の真意を理解した如月は、迷わず一つうなずいた。
「行きたいよ。だってあそこはずーっと昔からの私の憧れの場所だもの」
「……そう」
「でもね」
どこか寂しそうな夜光の言葉を遮って。
「でも、今は、ここがいい」
「……どうしてだ?」
少しの期待を込めて夜光が問う。
問われた如月はゆっくりと月の泉を見回して。
「だって殿。今はここが雲の上の世界みたいにすごくきらきらしてて綺麗だもの!」
そんな如月の言葉に夜光は静かに笑った。
いかにも如月らしい答えではないか。今はもう、この答えが聞ければそれで満足だ。
眩しそうに銀世界を眺めていた如月はやがて夜光に視線を戻す。
「それにね……」
そっと夜光に近づくと、その腕にぴたりとくっついて。
その温かみを感じながら、如月は静かに言った。
「ここには殿がいるから。だから私はここがいい」
驚いて如月を見下ろした夜光に、如月はふわりと微笑みかける。
「ね、殿。これからはずっと一緒だもの。殿の隣以外に、行きたいところなんてないよ」
それは、夜光が何よりも欲しかった言葉。
言葉にできないほど愛しい感情が溢れてきて。
夜光は如月を掻き抱いた。
どれだけ如月のことを自分が想っているのか、今になって初めて思い知る。
もう二度と離したくない。心からそう思った。
一瞬驚いた如月もやがて夜光の背に手を回す。
伝わってくるぬくもりがすごく心地良い。
「お前は雲の上より俺の隣を選んでくれるんだな」
「うん」
「なら俺がいる場所もいつでもお前の隣だ」
「うんっ」
互いに顔を見合わせて。
交わす口づけはとても優しかった。
離れると、それまで何ともなかった鼓動がいきなり高鳴りだして。
如月は夜光の腕の中で顔を真っ赤に染める。
そんな如月の様子に、夜光は笑ってその頭をくしゃくしゃと撫でた。
余計顔が赤くなるのを感じた如月は必死で声を出す。
「じ、時間! 殿、時間無いよ!」
「あぁ、そうだな。遅くなると兄上に怒られる」
ぽんぽん、と如月の頭を軽くたたいて如月を離すと、夜光は泉の側に立っていた愛馬を引いてきた。
そしてひょいっと如月を持ち上げる。
「ふぇ!?」
驚く如月に構わず、彼女を鞍の前の方に乗せると、夜光は自分もその後ろにまたがった。
「さて、行くか」
「う、うん」
夜光が馬を走らせ始める。
まだ心臓は鳴りっぱなしだけど。
とても近くに夜光を感じることがすごくすごく幸せだから。
この幸せが続くように、奈津にもこれからお願いして見守ってもらおう。
揺れる馬上でふと見上げた空にさっきまでの雲はもう無くて。
澄んだ青空が高く高く、どこまでも、広がっていた。
(完)
まずはここまで読んでくださり、ありがとうございましたっ。
如月と紡いできたこのお話、途中挫折しかけた時期もありますが、それでも頑張ることが出来たのは、何があっても力強く生きる如月と、そして読んでくださったみなさんのおかげです。
日に日に増えていくお気に入り登録の件数を見ることが何よりの力となりました!
そしていつも感想をくださった大切な友人にこの場を借りてお礼を言わせていただきます、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
一日一投稿と決めてからはとにかく空いた時間は四六時中このお話のことばかり考えていました。
夜光の想いと如月の想いが最後にはきちんと叶えることが出来て私自身もほっとしております。
これからの夜光と如月、、もしかしたらサイドストーリーとしてちらちらっと書かせていただくかもしれません。
なんにせよデレデレのラブラブな生活を二人が送ってくれることを私も期待してやみませんが笑
長々と失礼いたしました。
最後に本当にありがとうございました!
よろしければ今後の為にも、感想・評価等していただけるととても嬉しいです。
お気軽によろしくお願いいたします。