【五】公判:断絶された空
法廷の空気は、いつも独特の湿り気と冷たさを孕んでいる。
だが、今日この日に開かれた公判の空気は、それらとは明らかに一線を画していた。傍聴席を埋め尽くす人間の発する奇妙な熱気と、裁判官たちが纏う、どうしようもない困惑。
弁護士の九条は、仕立ての良いスーツの襟を軽く正し、弁護人席から証言台の前に佇む被告人――トラック運転手だった佐藤の背中を見つめた。
佐藤の背中は、この数ヶ月で驚くほど小さくなっているような気がした。深夜の配送業務で生計を立てていた男の、かつての頑強さは微塵もない。ただ、自分の体が覚えている骨と肉をすり潰した感触と、目の前の現実が一致しないという、あの夜から続く底なしの困惑に、今もなお魂を削られ続けているようだった。
そして傍聴席からは、じっとりとした殺意に近い熱気が伝わってくる。その中心にいるのは、行方不明となった少年の母親だ。やつれ果て、狂気と怨嗟を宿した目で、被告人席の佐藤を睨みつけている。
九条は軽く襟元を正す。彼の仕事は、目の前の泥まみれの感情に寄り添うことではない。厳格なる法というルールの下で、クライアントの不利益を最小限に抑えることだけだ。
「――弁護人、論告に対する弁論を」
裁判長に促され、九条は静かに立ち上がった。
手元にある資料には、科学捜査の限界を示す、あの「消失」の二文字が踊る鑑定書が挟まれている。
「検察側は、被告人による過失運転致死、すなわち被害者である佐藤蓮君の『死亡』を前提とした求刑を行っています。……しかし、本件において、被害者が死亡したという客観的な証拠は、ただの一つも存在しません」
九条の声が、静まり返った法廷に響く。
「確かに、現場には被告人のトラックの凹みがあり、少年の遺留品が残されていた。ドライブレコーダーには、衝突の瞬間らしき映像も記録されている。だが、死体がない。血痕もない。法医学的な死の証明が全くなされていないのです。
百歩譲って、衝突があったとしても、被害者は軽傷のまま自らの足で現場から逃走し、別の理由で失踪した可能性を否定できない。あるいは、あの不可解な映像自体が、最新のデジタル技術、あるいは未知のウイルスによる極めて精巧なディープフェイク(虚偽)である可能性すら、科学的に完全に排除することは不可能なのです」
傍聴席から、ひう、と空気が漏れるような悲鳴が聞こえた。母親が、自身の爪が肉に食い込むほど拳を握りしめているのが見える。
だが、九条の主張は法論理として、完璧に正当だった。
死体なき殺人、死体なき致死。
どれほど「死んだはずだ」という状況証拠が揃っていようとも、生身の肉体という物証がない以上、近代司法は”人を死なせた罪”を適用することを拒絶する。それが疑わしきは被告人の利益にという、法治国家の絶対的な大原則だからだ。
「よって弁護側は、過失運転致死については無罪。適用されるべきは、被害者に怪我を負わせた可能性に留まる『過失運転傷害罪』が妥当であると考えます」
九条は一礼し、席に戻った。
隣に座る被告人の佐藤は、終始うつむいたまま、ただガタガタと自分の膝頭を震わせている。彼の両手と右足の裏には、今もあの時の感触が残っているのだろう。だが、法はその主観的な感覚など裁かない。
長い、あまりにも長い審議のあと、ついに裁判長が主文を読み上げるために起立した。
法廷内のすべての人間が、息を呑んでその唇を見つめる。
「主文。被告人を、過失運転傷害の罪で禁錮1年6ヶ月に処する」
裁判長が淡々と判決理由を読み上げていく。
「……しかし、被害者の死亡が証明されていないこと、被告人に前科がなく、深い反省の意を示していることを鑑み、本刑の執行を3年間猶予する」
過失傷害。そして執行猶予。
佐藤は刑務所に入らなくていい。今日、このまま家に帰ることができる。
それは、法の条文に照らし合わせれば、これ以上ないほどに「正確で、妥当な」判決だった。人が死んだかどうかわからない以上、怪我をさせた罪でしか裁けない。
だがそれは、一人の息子を奪われた母親にとっては、この世界で最も不条理で、冷酷で無慈悲な判決だった。
「……っ、申し訳、ありませんでした……っ」
証言台の前に立った佐藤が、床に額がつくほどに深く頭を下げた。涙と鼻水が濡れた床に滴り落ちる。
だが、その加害者の魂の謝罪は、傍聴席から放たれた、人間とは思えないような獣の咆哮によって、跡形もなく掻き消された。
「お前が殺したんだ!!! 蓮を返せっ!!! どこに隠したのよぉぉぉ!!! 返せぇぇ!!!!」
母親が、傍聴席の柵を叩き壊さんばかりの勢いで身を乗り出し、髪を振り乱して絶叫していた。
「執行猶予って何よ!? 蓮は、蓮はどこにもいないのに!! なんでお前が普通に生きてるのよ!! ああぁぁぁあーーーっっっ!!!」
涙と、怒りと、誰にも理解されない孤独でぐしゃぐしゃになった顔。それは人としての尊厳を完全に失った、ただの絶望の塊だった。刑務官たちが三人掛かりで、狂い暴れる彼女の身体を無理やり取り押さえ、法廷の外へと引きずっていく。
彼女の叫び声は、遠ざかりながらも、冷たいコンクリートの廊下にいつまでも不気味に反響し続けていた。
九条は、静かに手元の書類をアタッシュケースに収める。
ふと見ると、判決を言い渡された佐藤が、刑務官に促されるまま、ゆっくりと証言台を離れ、法廷の奥にある控え室へと歩き出していた。
その佐藤の背中は、ひどく小さく、丸まっていた。
法的には「傷害罪」で許された男。しかし、彼はこれから死ぬまで、自身に残る確実に骨を砕いた感触と、日本中から『息子を異世界に奪われた電波な母親』として消費され、発狂したあの女性の叫び声を、背負って生きていかなければならない。
佐藤の背中が、重い防音扉の向こう側へと、静かに消えていく。
静寂を取り戻した法廷の窓の外には、ただ、あの夜と同じ、どんよりとした灰色の空が、どこまでも冷たく広がっているだけだった。
ただ息子を失った母の、獣のような咆哮だけが、いつまでも響き渡っていた。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




