悩みの本質
「ここなら神域の深度も浅いし、海も見える。本当は漁の場なんだけど」
「海……というより、ほとんど崖じゃないですか」
イルカさんたっての希望で海を目指していたはずの俺達は、何故か島の東側にある崖の上へと辿り着いた。
先日落っこちた西の崖よりは、多少緩やかといった印象だが、観光に訪れる類の場所でない。
肝心の海は遥か遠い上に、例の如く景色は一定距離を離れた先から霞んでしまっている。
こちら側には海に建つ鳥居という目印がない分、遠近感も碌に掴めず、遠くを見ようとするほど感覚は朦朧としてくる。
間近に海を見るなら、崖の端に伸びる――長年人が行き交った末に出来たであろう、天然物の小道を使って下へ降りる必要がありそうだが、彼女はここで満足だという。
「私達にとっての海はここからの物よ。そう易々と、南の浜辺に出る訳にはいかないもの」
そう口にするが、イルカジョウの顔はどこか晴れない。
諦めたような、つまらなそうな……嘲るような表情を海に向けていた。
それを横目に海を俯瞰したユメビシは、あるはずの水平線があまりにも遠い存在だと痛感する。
……自分は何も知らない。
彼女のことはもちろん、瞑之島のことも、ここで暮らす人達のことも。
引き受けてしまった当主代理のことだって、知らないことだらけだ。
だからこそ……この一週間、罪悪感に苛まれていた。
知らないことをじゃない、自ら知ろうとする気力が湧かないことに対して。
傘ザクラでの暮らしが心地良いほどに、誰かに優しさを向けられる度に、自分の中で押し込めていた感情が溢れ出す。
――他人に踏み込みたくない、関わりたくない。
どうしても幼少期の経験以降つきまとう、人間不信。
昔ほど悪態をつかずに、取り繕うことは出来ている……と思いたいが、根本的な部分は残念ながら変わってない。
しかし最近では、自分のこれまでの生涯を合わせても足りないほど、多くの人々と関わりを持たざるを得ない暮らしを送っている。
そんな偽りの当主として、内心では必死に取り繕っている自分を客観的に見た時。
胸の中で、冷たい芯のようなものが刺さるの感じる。
……本当の自分がどちらなのか、分からなくなってしまう。
それでも……ほとんど成り行きとはいえ、結局は自分で選んだことだ。
故に今も、せめてもの贖罪と言わんばかりに、こうして自分が最も忌避する言動をとる。
「本当に見たい物は、別にあったんじゃないですか」
「んー? おかしな子。そんな風に見えたなら、そこに連れて行って頂戴よ」
「……見当違いでも、怒らないで下さいね」
「ふふっ、心配しないで。思っていたよりも、ここの寒さが堪えたから、何処だっていいの……それに私が歩くわけじゃないから」
そんなことを楽しげに言い放ち、イルカさんは俺の首に腕を回す。
余計なことを言うべきではなかった……と後悔しながら、軽く彼女を抱え直し歩き始める。
こうして来た道を逆行する形で、滞在時間わずか五分足らずの崖に別れを告げたのだった。
***
「今回は全く迷わなかったのね? 十分に遠回りではあったけど」
「一度通った道をそのまま戻ることは出来るんです。応用があまり効かないだけで」
意外そうな声色は、彼女にとっては純粋な称賛によるものだ。
どうやら、すっかり方向音痴として認識されていた様なので、念の為訂正を入れておく。
敷地内に足を踏み入れて早々、下ろしてちょうだい、とイルカは積み上がった瓦礫を指差す。
……そう、ここは二人が初めて出会ったあの廃墟だった。
ようやく物理的な肩の荷が降りたユメビシは、一つ大きな伸びを。
イルカはやはり廃墟の窓辺に視線を向けていた。
ただその瞳は、彼女がしたがったお茶や海を見に行った時の、どれよりも楽しげで。
もしかしたら自分が通りかかったことで、彼女の望んだひと時を邪魔してしまったのではないか……その予感だけを根拠に、ユメビシは戻って来たのだ。
「ユメビシは今日、どうしてここを通りかかったの」
虚空に溶けるような、その問いかけに。
同じ場所を見つめながら答えを探してみるも、それらしいものは見当らない。
「……特に意味は」
「意味なんてないでしょうね、聞きたいのは経緯よ。君、迷子ちゃんだから、あるべき場所に帰してあげようと思っただけ」
「俺は別に、迷子じゃないですよ」
「それは嘘。心の座りが悪そうなんだもの。そんなんじゃ、帰る場所どころか自分を見失って当然よ」
「……どうして、それを」
ここで初めて、彼女と視線が交わる。
見定めるように目を細め、にっこりと歪ませた口元からは異様に長い舌が覗き見えた。
――失念していたが、彼女もまた瞑之島の住人……それも恐らくヨミト達側なのだと、改めて思い知らされた瞬間である。
「あら図星だった? 私はね、鼻が効くのよ。別に説明するための言葉じゃなくていいわ。偶然にも私の耳に届いた、君の独り言と思うことにするから」
「あぁ〜〜もう分かりました。そうですよ、お察しの通り、ずっと考え事をしていて……」
こうして、彼女に会話の主導権を握られてしまった俺による、独り言大会が幕を上げた。
正気に戻れば羞恥の波に攫われそうなので、半ばヤケクソである。
前提として、これまでの自身に起きたこと、部分的に欠けた記憶があること、季楼庵当主代理に至る経緯。
そして昨日の貝事件から発端した……今一番悩まされている、恐らく少女が俺に見せたと思われる悪夢。
それが原因で、まんまと不安にかられている、と。
不思議と口に出すことで、頭の中が整理されていく感覚があった。
だからこそ夢と現実の区別がつかないなんて、改めて口にすると滑稽な話だと自分でも思う。
しかし彼女は笑うことなく、最後まで聞き届けると、なんでもないことのように結論を述べた。
「それは無意識に、答えを遠ざけているのかしら。ユメビシの感じてる不安は、『夢と現実の区別がつかないこと』じゃなくて『全部現実の事だったらどうしよう』でしょ?」
彼女による鋭利な指摘に対して、ぐうの音も出なかった。
結局自分は、その可能性に背を向けたかったのだ。
……向き合うと、決めたはずなのに。
「まあそれだけ重ねて起こる不可思議なことが、全て偶然と思う方が楽観的よ。必ず何かの因果や、誰かの思惑があると捉えていいわ。だから仮に夢だとしても、全て現実に起きたこと、または今後起きる事と仮定して動いた方が、後に来る後悔は少ないかもね」
――何かの因果や、誰かの思惑。
思惑に関しては、実際にヨミトの件がある為、嫌な説得力があった。
「それを差し引いて、今後『夢』に心惑わされたくないなら。あぁ――自分自身を見失いたくない、だったかしら? その為にはこの世との繋がり、縛られる枷を作るべきね」
「枷、ですか」
「あら? 何も難しくないわ。季楼庵当主代理という巡り合わせを、君自身が利用すればいいだけだもの」
「はい……?」
イルカは今度こそ捕食者の様な大きな笑みを浮かべ、淡々と述べたのだった。




