第1話:戦場に笑う忌憑き悪魔
――撤退、撤退ぃィッ‼
人々の阿鼻叫喚が交錯し、戦場は混沌に沈んでいた。
土埃が視界を覆い、喉に焼けつく痛みを残していく。同時に、むせ返るような鉄臭さが鼻を刺す。
折り重なった死体の中で、ゼノはただ一人、浅く息をしていた。指先に力を込めようとしても、身体はもう言うことを聞かなかった。
次第に、目の前の景色が歪み、遠ざかっていく。
――ああ、死ぬんだな。
そう悟ったところで、意識は闇に落ちた。 *
数か月前・城下町 王国セイントベルク
――忌憑きだ、忌憑きがいるぞ。
――目を合わせるな。殺されてしまうぞ。
人々が口々にささやき、視線だけをこちらへ投げてくる。
ただ城へと歩を進めているだけで、ゼノは『化け物』として見られていた。
――忌憑き。
その魂を契約悪魔と分かち、強大な武力で悪人を裁く者――。
だが今や、その役割を知る者はほとんど残っていない。
『悪魔の力を振るう化け物』――という噂だけが独り歩きし、恐怖の対象となっている。
けれど、ゼノには悪魔の力などない。
正確には、その気配をまったく感じられないのだ。
だから特別に強いわけではないし、人並みに痛みも感じる。
“忌憑きの血を引く”という一点だけが、ゼノを『化け物』に変えている。
城門をくぐり、石畳を踏む足を止める。
「戻りました」
ゼノは、騎士団長ローウェンに声をかけた。
磨き上げられた銀の甲冑が、太陽を受けてきらりと光る。ローウェンは兜を外し、額の汗をぬぐった。
額からこめかみにかけて刻まれた皺と厳つい顔立ちが、その男の厳格さを物語っている。頬を走るいくつもの古傷は、長年戦場に立ってきたことを物語っていた。
「ゼノ――お前に伝えねばならないことがある」
唐突に、そう言った。
心なしか、兜を持つ手に力が入っているように見えた。
小さな金属音が、静寂に混じる。
ゼノは静かに訊ねた。両者とも口では冷静さを保ったまま、奇妙な時間が流れる。
「実はな、先ほど伝令があったのだ。領土問題をめぐる交渉が決裂――ゆえに戦の準備をせよ、とな」
ローウェンの言葉に、ゼノはただ顔を伏せた。
――ヴェルハ帝国。昔は各国から敗戦国と罵られていたが、皇帝が変わってからというもの、武力政権で成り上がったという。
隣国ヴェルハ帝国との領地争いは、以前からくすぶり続けていた。
正式な開戦こそ宣言されていないものの、国境では数日前から小競り合いが続いている。
それが今になって、大きな衝突に変わろうとしていた。
「……お前の不安もわかる。忌憑きであるにもかかわらず、力を発揮しない……いや、できないのか?」
ゼノは無言で頷いた。
ローウェンは一度息をつき、憂いの瞳を宿す。
「不安も多いだろう。だが王は、戦には忌憑きが必須であるとお考えだ。納得はいかぬだろうが、お前にはクライン小隊長の指揮下で動いてほしい」
ゼノにとって、騎士団長だけが心のよりどころだった。赤子から育ててくれた恩人の意向を無下にはできないし、何より王命とあらば仕方のないことだった。
「わかり、ました」
感情のこもっていない瞳でローウェンを映した。
そのまま軽く一礼を済まして、逃げるように踵を返す。
「……お前は何も悪くない」
背中越しに低い声が、少しの間ゼノの足を止めた。
ゼノは軽く拳を作って、再び小さく頷いた。
そのとき、廊下の奥で靴音が鳴った。
金色の髪を揺らし、人影は角の向こうへと消えていった。
「今のは……」
ローウェンが眉を寄せた。
だが、それ以上は何も言わなかった。
ゼノは沈黙のまま、自室の方へと静かに歩き出した。
*
――翌日。
ゼノは小隊長クラインに呼び出された。
自室に置かれた鎧を着込む。胸当てと籠手、それに脛当てだけの、どこにでもある簡素な量産品だ。関節や足首にはどうしても隙間が生まれる。
それでも金属の重みを感じると、自分も国を護る一員なんだと、実感が湧いた。
訓練場に足を踏み入れる。人の形を模した藁の人形が四方に置かれ、奥には弓術訓練用の的が壁に並んで掛けられていた。
ゼノの姿を捉えると、周囲の兵士がざわめきだつ。
訓練場中央、腕を組んでニタニタと含み笑いを浮かべる男がいた。
小隊長クラインだ。若くしてその実力が認められ、ことあるごとに、その肩書きを口にしていた。
短い金髪の下には、傷一つない整った顔があった。口の端を吊り上げ、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
クラインの腕が、ゼノの首に絡みついた。
「やあやあ、呪われた忌憑きくんじゃあないか」
ゼノは何も返さなかった。
その反応にクラインはわずかに眉を動かしたが、言葉を続けた。
「今日呼んだのは他でもない。ぜひ、忌憑きくんと手合わせをしたいと思ってね」
心の中で、嘘だとつぶやいた。
クラインの言葉の圧に、ただ肩をすくめて黙り込む。
周囲も合わせて空気を含んだ笑いを上げた。
ゼノは数回、深呼吸で心を落ち着かせる。
「お願いします」
感情が乗っていない言葉で、そう返した。
やがてクラインが距離をとって模擬刀を手に取る。対してゼノも、震える手で模擬刀を握りしめた。
重い鎧が肩にのしかかり、足が地面に縫いとめられているように感じる。
すでに腰が引けていた。恐怖ばかりが先に立ち、集中力を削ぎ落とす。
「いくぜ!」
ダッ。地面を蹴り上げて、瞬くうちに目と鼻の先に迫った。
ゼノは咄嗟に刃を受け止める。両者の模擬刀が軋む。腕を伝って、衝撃が痛みに変わった。
「うおらぁッ!」
防戦一方だった。怒涛の剣さばきに、攻撃のチャンスが窺えない。
カンッ、カン――模擬刀が打ち合い、ゼノの手のひらに汗がにじむ。鎧の中はすでに蒸し風呂のようで、息をするだけで苦しかった。
クラインはわざとらしく体への攻撃を避けて、模擬刀を執拗に狙い続けているようだった。
呼吸が荒くなる。じんじんと麻痺する感覚。
ハッ――息が途切れた瞬間、世界との接続が切れたように腕が軽くなった。
カラン、ゼノの模擬刀が地面を滑る。へなりと崩れ落ち、喉元に模擬刀が突きつけられる。
「……わざとか?」
見下ろすクラインの声には、苛立ちが混じっていた。
「噂じゃ“悪魔の力を振るう化け物”だそうだが――。
その“悪魔の力”とやらがなきゃ何ひとつできない愚図なのか?」
「……っ」
ゼノは言い返せない自分に、嫌気が差した。
腰を落としたまま動かないゼノを囲んで、周囲の笑い声が大きくなった。
それに合わせて、クラインが両手を上げて応える。
「きっと、こりゃ犬死だな。その方が、悪魔ごと葬れてむしろいいんだろうけどなッ! ははは!」
ドッと、兵士たちの笑い声がさらに大きくなった。
目の前がくらりとして、軽く額を抑える。ゼノには黙りこくることしかできなかった。
「……ま、戦場ではうまく使ってやるよ。せいぜい、足手まといにならないようにな」
嘲る声を身に浴びて、自らの非力さを嘆いた。
少なくとも、自分が非力だという一点だけは否定できなかった。
何度、訓練に励んでも。
何度、模擬戦をしても。
一向に強くはなれなかった。忌憑きという鎖だけがゼノを縛り上げる。
だからこそ――全てを諦めた。諦めざるを得なかった。
*
――しばらく経って、やがてヴェルハ帝国との戦が始まった。
争いは苛烈を極めた。
敵味方の死体が山のように積み上がり、赤黒い血が地面を染め上げる。
阿鼻叫喚の声が飛び交い、戦場は地獄そのものだった。
熱気が戦場を蒸し上げた。血と汗の臭いが入り交じり、不快感を煽る。
――撤退、撤退ぃィッ‼
人々の悲鳴と怒号が渦を巻き、戦場はさらに混沌と化した。
折り重なる死体を踏み越え、敵兵が迫る。
無数の軍靴が重なり、大地そのものが震えているようだった。
帝国の力は衰えることなく、セイントベルクを追いつめる。
周囲の兵士は撤退命令を聞いて、みな逃げ惑っていた。
ゼノも慌てて指示に従う。クラインの指揮のもと、兵士たちは次々と戦場を離脱した。
……瞬間だった。
脛当てと靴のわずかな隙間に、鋭い痛みが走る。突然の痛みにうずくまり、顔を歪ませる。
気づけば弓矢が深々と突き刺さっていた。
砂埃の向こうに、こちらへ手を伸ばすクラインの姿がうっすらと見えた。何かを叫んでいる。
だが、その声は怒号に掻き消された。
次の瞬間には人波に呑まれ、クラインの背が遠ざかっていく。
気づけば敵に囲まれて――槍がゼノの腹部を貫いた。
口元から、血が溢れた。息ができないほど苦しい。
腹部から全身へ、煮えたぎるような痛みが駆け巡る。槍に腹部を抉られ、そのまま地面に打ち捨てられる。
指先すらもぴくりと動かない。
あんなに煮えたぎった体が、冷たく変わる。わずかに持ち上げた手が、力なく地面へ落ちる。指先は氷のように青白くなっていた。
――ああ、死ぬんだな。
そう実感した。何も残せない人生ならば、消えた方がよかった。全てを諦観した眼差しで、ゆっくりと――闇に沈んでいった。
「ふふっ」
突如として、笑い声が聞こえた。
それはゼノにとって、子守歌のように心地の良い声だった。
「死んじゃった、死んじゃった♪」
口元に手を当てて、声高らかに言った。
開くことさえ許されない、重たい瞼を上げて薄ら目に“それ”を見る。
ぼんやりとしていて全貌はつかめないが、とても戦場には似つかわしくない恰好をしている。
「助けてほしい?」
その声音には、どこか人をからかうような響きが混じっていた。ゼノはふわふわとした思考の中で、頷くことさえできない。
「ふふっ……忌憑きとして覚醒するチャンスよぉ? この世の悪を全て裁きたいとは思わない?」
その言葉に、ゼノの瞳は覚醒した。不思議と瞼が重たくなく、彼女の姿が目に映る。
布地の少ない、露出の激しい衣装を身にまとっていた。くねくね動くハートの尻尾と、頭部に生えた角が、彼女を人間ではない何かと認識させる。
彼女の言葉に、ゼノの胸の奥で、くすぶっていた何かが弾けた。
蔑んだ目。背中に浴びせられた囁き。『化け物』と呼ぶ声。
ずっと胸の奥へ押し込めてきたものが、一斉にせり上がった。
「裁き――?」
「あたしがその忌憑き悪魔♪ あなたのパパさんも喜ぶわよ? 忌憑きとして覚醒した、ってね」
悪魔がトーンを落とした。
ゼノにとって記憶のない両親のことを、彼女は“知っている”――。
「どうするのぉ?」
間延びした甘い声が、ゼノの心を動かした。
「力が……欲しい――」
ゆっくりと手を伸ばした。
すると彼女も、赤く染まった消えかけの手を取った。
「あはっ……。あたしは悪魔ベルゼフィーネ。今ここに、忌憑きとして魂を分かつわあ~」
ベルゼフィーネが手の甲に口づけを落とす。
ゆらゆらと。世界が歪んでいく。
だんだんと、体が軽くなっていく。
血液が体を巡りはじめる。もう、痛みすら感じられなかった。
――そうして、ゼノの世界が晴れた気がした。




