文学少女×チャラ男
四月の朝は透明度が高い。夜の冷気がまだ薄く残り、校門脇の若葉が光を通して揺れている。
その中を、朝倉カナデは歩いてくる。
セミロングの髪はハーフアップに後ろで軽くまとめられていて、崩れはない。歩調も一定。視線を受けることを前提にした姿勢で、無駄な揺れがない。
通り過ぎる生徒の視線が一瞬だけ引っかかる。本人は気にしない。気にする必要がない位置に、最初から立っている。
制服はきっちりしているが、どこか“整えられすぎている”。
可愛く見せるためではなく、混ざるための最適化。そういう類の手入れだった。
校門をくぐったところで、足が止まる。
数歩先。人の流れの中で、そこだけ座標がずれている。
ありえない組み合わせの二人。
「で、名前もう決めたのか?」と男子が言い、声だけが妙に軽い。
隣の女子は小さく何か返す。聞き取れない。ただ肩がわずかに縮こまる。
(……どういう取り合わせ? く◯寿司でも合わせないコンビネーションね)
しかし、苺の乗ったエビの握りを思い出し、首を振って否定する。
(……いや。でも、ちょっと意外ね)
一方は、耳元のピアスと緩いネクタイ。歩き方まで軽い。
もう一方は、分厚い眼鏡と隙のない制服。歩幅が半歩遅れている。
カナデの脳内にある『学内恋愛分布図』の、最も遠い極同士が並んで歩いている。まるで、本来交わらない線が無理やり引き寄せられたみたいに。
(くっつく理由がない)
そう結論しかけて、わずかに視線を落とす。
二人の靴。スカートの裾。
「……ん?」
一瞬だけ引っかかる。
だが、それ以上は追わない。
カナデはそのまま視線を外し、再び歩き出した。
――まだ、データが足りない。
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教室。朝の光が窓から斜めに差し込み、机の列を切り分けている。空気に浮いた埃が、その境界をゆっくりなぞっていた。
椅子を引く音。鞄を置く鈍い音。ざわめきが重なって、いつもの朝が形になる。
「ねえカナデ! 見た!?」と天堂ユウナが距離を詰めてくる。「あの二人!」
声が一段高い。興奮で呼吸が浅い。
「須田さんと長峰くん! 一緒に登校してたでしょ。ちょっと衝撃なんだけど!」
視線がまっすぐ刺さる。完全に“物語を拾った側”の顔。
「須田っちと誰だっけ……長峰?」と佐倉ルイが欠伸を噛み殺しながら言う。「あー、あのチャラい方か。……いや、ありえなくね?」
机に肘をついたまま、視線だけがこちらを向いている。関心はある。
「ルイ、言い過ぎ」と三原アズサが静かに挟む。「……でも、接点はなさそうだね」
柔らかい声。けれど判断は早い。
教室のあちこちで同じ単語が反復されている。
――須田、長峰、一緒、意外。
「カナデは?」とユウナが身を乗り出す。「絶対なんかあるでしょ、これ」
カナデは窓の外に視線を向ける。校庭では朝練の掛け声が一定の間隔で跳ねていた。
「……まだデータ不足」
それだけ言う。
短い沈黙。ユウナが「えー」と不満を漏らす。
その直後、チャイムが鳴る。空気が切り替わる音。
会話はそのまま、流れに飲まれた。
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昼休み。チャイムと同時に廊下が膨らむ。足音と笑い声が混ざり、流れが一方向に揃っていく。
カナデはその隙間を抜け、同じクラスの瀬川カズマの背中を捕える。
「カズマくん、長峰って男子のこと、教えて」
「は?」と振り返る。「なんでだよ」
眉が寄る。手には紙パックの牛乳。ストローを弄びながら。
「……ユウトか。見た目よりは普通だぞ。別に悪いやつじゃねえ」
「で、なんで?」壁に肩を預ける。
「今朝、須田さんと一緒に登校してたでしょ」
「……ああ」表情がわずかに緩む。
「接点が見当たらないの。理由を知りたいわ」
視線が合う。カズマは少しだけ目を細める。
周囲の音が遠のく。人の流れだけが横を抜けていく。
「分かった。その代わり――」言いかけて、カズマはストローを強く噛んだ。
わずかに音が鳴る。
「ん?」とカナデが首を傾げる。
カズマは一瞬だけ目を合わせる。
すぐに逸らした。
喉が動く。
「……あとで聞いとくから、次も、俺に頼めよ」それだけ言って、背を向ける。
歩き出す速度がわずかに速い。人混みに紛れるまで振り返らない。
残されたカナデは一瞬だけその背中を見る。
(条件提示:意図不明)
分類だけして、切る。
次の思考に移る。
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昼休み。窓際に机を寄せる。四人分の弁当が小さな円を作る。
外では木の葉が擦れる。教室のざわめきは一段だけ緩い。
「そう言えばさ」とユウナが身を乗り出す。「須田さんに朝のこと聞いてきたんだけど」
「うん」
カナデは箸を止めない。視線は弁当箱のまま。
「『べ、別に偶然会っただけで、なんでも、ないよ』だって。めっちゃ照れててさ」
声色まで真似る。再現精度が高い。
ルイが吹き出す。「いやそれ絶対なんかあるやつじゃん」
アズサも小さく笑う。「否定が雑だね」
そのとき。
入口の方でカズマがこちらを探す。目が合うと、指先で呼ぶ。
「カナデ、ちょっといいか」
椅子を引く音。床を軽く擦る。
近づくと、カズマは少し身をかがめる。
「ユウトに聞いた」と低い声で言う。「『たまたま通りすがったら居て、話してただけ』だと」
一拍。
「……それだけ。よく分かんねえ」
肩をすくめる。言葉は軽いが、どこか濁る。
「そう」
「これでいいのか?」
「うん。ありがと」
「……おう」
短い。
カナデはそのまま席に戻る。背後で人の声が戻ってくる。
弁当。笑い声。紙の擦れる音。
朝の光景が再生される。
『名前もう決めたのか?』
声の方向。立ち位置。周囲の視線の流れ。
(二人の靴の汚れ)
(制服に付着していた毛)
舗装路では付かない種類。
情報が並ぶ。まだ結ばない。
「……偶然と、たまたま、ねえ」
小さく落とす。
「ん? カナデ?」とユウナが覗き込む。「なんか分かった?」
視線が集まる。
カナデは一度だけ瞬きをする。
並んだ情報に、仮の線を引く。
「まあ、憶測だけれど――」
そう前置きすると、カナデの描くストーリーが展開された――
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ある日の放課後。
西に傾いた日差しが、公園のベンチや遊具の影を長く引き伸ばしていた。ブランコが風に揺れて、かすかに軋む音を立てている。人の気配はまばらで、どこか時間が緩んだような静けさがあった。
須田サアヤが公園で小説を読んでいた。
膝の上に文庫本を置き、背筋を伸ばしてページをめくる。紙の擦れる小さな音だけが、彼女の周囲に規則的に積み重なっていく。
どこかで子猫が鳴いていた。
か細く、途切れがちな声。風に乗って、遠くから届いているようにも、すぐ近くで響いているようにも聞こえる。
メガネをクイッと上げて、周囲をちらりと見る。
夕陽に照らされた砂場、誰もいない滑り台、その影の奥。
何も居ないように見える。
気の所為だと思い、再び活字を追う。
文字の列に意識を沈めていくと、現実の音は少しずつ遠のいていく。
夢中になっていると、声が近くでする。
さっきよりもはっきりと、すぐそばで。
気づけば鳴き声は、足元に寄ってきていた。
子猫が見上げてくる。まだ生まれて間もない、ふらふらとした足取り。毛並みはところどころ乱れていて、目も完全には開ききっていない。小さな体が呼吸のたびに上下している。
少し躊躇った。
サアヤは、動物は嫌いではなかった。
でも昔飼っていたハムスターが死んだ時。
掌に乗るほど小さな体が、もう二度と動かなくなったあの感触。
そのショックで動物と触れ合うのを避けるようになっていた。
単にハムスターの寿命が短かっただけだ。
ニ年半も共にできたのだから、そのハムスターは天寿を全うしたと言ってもいい。
頭ではそう理解しているのに、胸の奥に残った感覚だけが、うまく消えてくれない。
鳴き声がこちらを呼んでいる。
小さな命が、自分を頼るように。
栞を挟んで小説を横に置く。
ため息をひとつついた後、子猫を見た。
お腹が空いているのだろうか?
そう言えば、昼に飲まなかった、小さな牛乳パックがあったはず。
バッグから取り出すと、ストローを刺し、手のひらに数滴零す。白い液体が指の間にじんわりと広がる。
ベンチから降りて、しゃがみこむ。地面の冷たさがスカート越しに伝わってくる。
そっと手を差し出す。
子猫は一瞬ためらったあと、恐る恐る近づき、すぐに夢中で舐め始めた。
鳴きながら飲む声が可愛くて、自然に頬が緩む。
ザラザラと、手のひらを撫でる舌の感触。少しくすぐったい。
小さな舌の動きが、思ったよりも力強くて、くすぐったさの奥に微かな温もりが残る。
何度か牛乳パックから手のひらに垂らし、を繰り返すと、
子猫の興味はサアヤの履いている靴の紐に移る。揺れる先端を前足で追い、よろけながらじゃれつく。
どうやら満足したようだ。
サアヤはホッとすると、しばらく子猫の背中を撫でてやる。
指先に伝わる細い骨格と、まだ頼りない体温。
そしてゆっくりと立ち上がった。
後ずさるようにして距離を取り、
「バイバイ」と小さく手を振って公園から離れた。
振り返らないようにしながらも、背中にあの鳴き声が残っている気がした。
次の日、また公園に向かう。
今日も牛乳は残してある。バッグの中で、軽く揺れる感触が気になった。
少しだけ、微笑みながら牛乳を取り出し、公園に足を踏み入れる。
昨日と同じ時間、同じ光の角度。
そこには先客がいた。
同じ学年の男子だった。
名前は知らない。見た目はチャラい感じで、あまり近づきたくないタイプの男子。ラフに着崩した制服が、夕方の光を受けて少しだけ目立っている。
すぐに公園を立ち去ろうとした。
しかし。
男子がしゃがみこんでいる、その足元に昨日の子猫。
ただ撫でているだけだが、その手つきは驚くほど優しい。指先で壊れ物を扱うみたいに、そっと背中をなぞっている。
男子がふとこちらに気づいた。
「やべ」
「……あ」
男子は少し照れたように視線を避ける。
サアヤも反射的に視線を落とす。
子猫の鳴き声だけが、間を埋めるように響く。
「なあ、それ」
男子が声をかける。
顔を上げると、サアヤの右手を指さしている。
握っていた牛乳パックの角が、光を反射して白く光っていた。
「この子にあげるんだろ?」
「……う、うん」
少し恥ずかしい。
彼を見て帰るつもりだったのに、手に持っている牛乳のことを忘れていた。
「俺にやらせてよ」
そう言うと、男子はサアヤの手から牛乳をひったくる。
勢いよくストローを差し込み、そのまま自分の手のひらに溢れるほど出して、迷いなく子猫に差し出す。
しばらく、その様子を眺めていた。
子猫の鳴き声に、男子の表情がふっと緩む。
さっきまでの軽薄そうな印象が、そこだけ少しだけ剥がれて見えた。
「あああ、めっちゃ可愛いな。家に連れて帰りてえわ」
「……うん」
気づけば、頷き返していた。
自分の声が出たことに、少しだけ驚く。
男子は特に気に留めた様子もなく、子猫を見たまま、
「俺、長峰ユウト。お前は?」とサアヤに名前を訊いてきた。
特に断る理由もなかったので、答える。
「須田サアヤ」
「そっか。覚えたわ」
あっさりとした言い方。けれど、どこか本当に覚えたような響きがあった。
子猫が満足したのか、ユウトの手に戯れはじめる。
その小さな動きを、二人でただ見ていた。
不思議と緊張はしなかった。
さっきまで感じていた距離感が、いつの間にか少しだけ緩んでいる。
「……なあ」
突然呼びかけられる。
少し心臓が跳ねた。
「ん」
絞り出せたのは、それだけ。
「お前んち、猫飼える?」
あまりにも拍子抜けする質問。
「……多分、大丈夫。今は、何も飼っていないし」
喉の奥が乾いていて、うまく声が出ない。
普段喋ることが少ないので、言葉を一つずつ思い出すように並べる。
「まじで? じゃあ、この子、お前んちで飼ってくれよ」
ユウトのほうが連れて帰りたそうだったので、思わず聞き返す。
「……いいけど、いいの?」
「俺んち犬がいんだよ。だから、連れて帰りてえけど、無理なんだよなあ」
「そっか」
それは仕方ないね、と声に出さずに思った。
「んじゃ、このあと、お前んち、ついてっていいか?」
ユウトがサラッと言う。なんでもないみたいに。
まるで「コンビニ寄る?」くらいの軽さで。
サアヤは一瞬頷きそうになって、後から理解が追いつく。
「……え、なんて?」
「いやさ、この子と離れるのが寂しいって言うか、お前んちまで、触ってたいし」
「う、うん」
返事をしたあと、自分が何に同意したのか、少し遅れて自覚する。
「じゃ、決まり!」
ユウトはそう言うと、子猫を抱き上げて、
「良かったなーお前」とお腹に頬を押し付けている。子猫がくすぐったそうに身をよじる。
(……なんなの、この状況)
夕暮れの公園に、子猫の鳴き声と、かすかな笑い声が溶けていった。
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「――というわけ」カナデがノートを閉じる。「長峰ユウトが公園に行ったのが偶然かどうかは、まだデータ不足だけれど」
結論が落ちた瞬間、教室の空気が一段だけ明るくなる。午後の光が机に長い影を引き、その中で顔がいくつも跳ねた。
「え、待って、天才じゃん……」
「そこまで見てたの? 靴の泥とか、毛とか」
興奮は波紋みたいに広がる。綺麗に解けた問題のあとに残る、あの軽い快感。
カズマだけが腕を組んだまま、少し遅れて口を開いた。
「……お前、よくそんな細かいとこまで見てんな」
「基本よ」とカナデは視線を上げる。「人は隠したいことがある時ほど、真実を残すものだから」
わずかに顎が上がる。その角度が妙に様になっている。
カズマは一瞬だけ言葉を失う。指先が机を軽く叩く。
(……今なら、いけるか)
迷いが一拍。次に来るのは、勢い。
「じゃあさ」と視線を外さずに言う。「俺のことも分析してみろよ。今、俺がどんな気分か」
言葉が落ちた瞬間、空気が張る。
「ん? それって」ユウナの目が光る。
ルイはもう笑っている。スマホを構える手つきが早い。
アズサだけが小さく息を吐いた。「カズマくん、度胸あるなあ」
カナデは一瞬だけ目を細める。
(……いや)
「そういう心理テストみたいなの、あまり得意じゃないのよね」
そう言いながらも、視線は逸らさない。真正面から、逃げ道を塞ぐ。
数秒。
遠くでページがめくれる音がした気がする。ここだけ、妙に静かだ。
カズマの喉が乾く。心臓の音だけがやけに近い。
「……分かったわ」
小さく呟き、指を鳴らす。
「カズマくん、さては今日の学食の“激辛麻婆豆腐”、完食できなかったのを悔やんでるでしょ」
断定。
「唇が少し腫れているし、何度も水を飲んでいた。代謝が上がって耳も赤い――十分な根拠よ」
論理は通っている。観察も正確。
ただ一点だけ、核心から外れている。
「……は?」
間の抜けた声が落ちる。
一拍遅れて、空気が崩れる。
ルイが吹き出す。ユウナは机に突っ伏して肩を震わせる。「違う違う違う!」と息の隙間で言う。
アズサは目を閉じて、小さく天井を仰いだ。「ああ……やっぱり」
「大丈夫よ」とカナデは頷く。「あの辛さは平均的な味覚には過剰だから。挑戦した姿勢は評価できるわ」
ぽん、と肩に手を置く。完全に“正解側”の顔。
「じゃあ、次の授業の準備があるから」
椅子が引かれる。何事もなかったみたいに立ち上がる。
「……帰る」
カズマが小さく言う。肩が少し落ちている。
ざわめきの中を抜けて、ドアへ向かう。引き戸にかけた手に、ほんの少しだけ力が入る。
「カズマっち、ドンマイ……」ルイが笑いを堪えながら言う。
ユウナはまだ机に伏したまま、震えている。
午後の光は変わらない。
ただ、その一角だけが、少しだけ騒がしくて――少しだけ、取り残されていた。




