39(王城)
ラキスは眠り続けていた。
誰にも妨げることのできない、深い深い眠りだった。
それはエセルの見立て通りではあったが、彼女が考えていたよりも、そしてラキス自身が感じていたよりも、彼の消耗は激しかった。黒翼が生えて以来積み重なってきた疲労は大きく、心身ともにぎりぎりの状態だったのだ。
本人は無自覚だったが、浄化がおこなわれなかったとしても、いずれどこかで倒れていたにちがいなかった。
長い眠りは、そんな彼の身体を着実に回復させていった。
けれど、心の回復が同じ速さだったわけではない。体力が戻ってきても、意識のほうはいまだ深く沈み込み、静まりかえった夢の世界を漂っていた。
重く濁った青い闇に、ひたすら覆われた夢の世界を。
夢というより、そこは閉ざされていた記憶の中だったかもしれない。自分自身がぼんやりとしか覚えていなかったインキュバスの内部、青灰色の沼地のほとりに彼はいた。
時折、空間が奇妙な具合に膨張し、力が注ぎ込まれてくるのがわかる。魔物が生き物を捕食したのだ。
それを肌で感じながら、どうすることもできないままに、八歳の彼は目を閉じ膝を抱えて丸くなる。
こんなところにいたくない。外に出たい。外に出て日の光を浴びたい。
日の光を浴びて──でも、そのあとは? どうやって生きる? なんのために生きる?
ほらごらん、答えられない。
嘲笑っているのはインキュバスか、自分自身か。
こわいんだろう、外に出るのが。それならずっと、ここにいればいい。
ここはこんなに静かで安全だ。もしも一人が嫌だと言うなら、もしも誰かに未練があるなら、その相手も取り込んでしまえ。
簡単だ。手を動かすより、立ち上がるよりたやすいことだ。
──本当に?
しゃがみこんで伏せていた顔を上げてみれば、沼地の端に光があった。
金色の髪を長く伸ばしたひとりの娘が、汚泥の中にたたずんで、じっとこちらをみつめている。
大地を思わせる茶色い瞳、真摯な眼差しが彼を射抜き、問いかける声が耳を打った。
──わたしを取り込むの?
彼女の唇から、光を帯びた声がこぼれ出る
──それが望み?
──あなたがそれを望んでいるなら、嫌とは言わないわ。したいようにすればいい。でも……それが望み? 本当に?
問いかけている間にも、彼女の身体はどんどん位置を変えていた。足元に広がる汚泥の中に、急激に沈み込んでいるのだ。
けれど、彼女の言葉は止まらない。沈むことなど気にもかけないかのように、強い意志を宿した声で話し続ける。
──取り込めば、ずっと一緒にいられるかもしれない。でも、わたし自身はいなくなる。あなたのことが大好きな、エセルシータはいなくなる。
彼女の両手が沈み、髪が沈み、ひじが沈んだ。波打つ汚泥が胸にかかった。
それでも。
──わたしはエセルのままでいたい。エセルのままで一緒にいたい。あなたと一緒に生きていきたい。
青灰色の闇を貫いて、彼女の叫びが輝きを放つ。
──あなたが来てよ。あなたがわたしのところに来て。お願い、ラキス!
伸ばした右手が、求めてやまない娘の左手をつかんだ。
それとほぼ同時に、ラキスは目を開き、ベッド際で自分をのぞきこんでいる娘の顔をぼんやりとみつめた。
大地の色をした彼女の瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。
「エセル……」
つかんだ手を離さないまま、かすれた声で呟くと、エセル姫の瞳がみるみる潤んだ。
そこは青灰色の沼地ではなく、美しくととのえられた寝室で、窓からは日光が差し込み、そよ風が薄いレースのカーテンを揺らしていた。
けれどラキスには、そこがどこなのかわからなかった。
横向きの姿勢で寝かされた身体は重く、声も思うように出てこない。
それでもいま、どうしてもたずねなければいけないことがある。
「大好きだって……言ってくれた?」
「え?」
「あのとき……インキュバスの中にいるとき──おれと一緒に生きていきたいと言ってくれた?」
エセルは一瞬、とまどった表情になった。だが、すぐに察して大きくうなずいた。
「ええ。もちろん言ったわ」
するとラキスは、ほっと息を吐き出した。それから、やはりかすれた声でささやいた。
「ありがとう」
「………」
「おれも……おれも同じだ。エセルと一緒に生きていきたい。エセルが来てほしいなら、どこにでも行く。どこまででも行くよ」
エセルは何も言わなかった。胸がいっぱいで言葉が出なかったのだ。
言葉のかわりに、彼の右手を両手でしっかり包み込み、花がひらくように笑った。
ラキスも無言でそれをみつめ、彼女の気持ちを受け取った。
それから再び目を閉じると、今度はきちんとした目覚めに備えた、夢のない眠りの中に戻っていった。
それは、コルカムで養父母と死に別れて以来はじめての、心の底から安心した眠りだった。
『南の塔』沼地のシーンはこちらです。
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