二十九.二人の巫女
黒巫女の気に誘われ、麗蘭は小さな霊廟へとやって来た。
魔国の様式に則り、八角形の建物を複数の柱が支える。縦に長い窓には膨大な数の硝子板が嵌め込まれ、外からの光を受け色とりどりに煌めいていた。
白い石の壁には、彫り刻まれ鮮明に着色された肖像が並ぶ。数十もの王族の絵姿が描かれ、上部に据えられた燭台の炎に依り照らされていた。
最奥に在る祭壇の前に、ある女が背を向けて立っていた。白練の千早に漆黒の袴を着け、後ろ首で濡烏の髪を束ねている。背丈は麗蘭よりもやや高く、流麗な立ち姿が目に焼き付けられる。
女を包む黒の神気は、彼女が纏うことに依り極限まで昇華されていた。彼の気を拒絶するはずの麗蘭にさえ、神聖な力に触れているかのような感覚が沸き起こる程に。
「瑠璃」
意を決して呼び掛けると、巫女は此方へと振り返った。五年を経て再会した彼女は、麗蘭が此れまで目にしたどの女よりも美しく為っていた。
雪白色の肌を一層白く見せる、黒檀を思わせる髪や眉の麗質は、瑠璃を創りし邪神と良く似ている。一方で紫水晶の双眸は虚無を湛えてはいたが、間違いなく人の子のもの。凍て付いた瞳の奥に、熱情的な炎を揺らめかせていた。
「麗蘭――いや、公主殿下とお呼びすべきか。おまえの激しい運命には、本当に飽きない」
目を細め、血の如く紅い唇を緩めて妙なる笑みを作った瑠璃に、麗蘭は不覚にも惑わされてしまった。己が持たぬ魅力を全て有し、高みへと磨き上げた瑠璃へ、女として羨望を抱いたのだ。
過去の麗蘭ならば、瑠璃の力と美に圧倒され呑まれていたやもしれぬ。されど光を開いた今はもう、気圧されはしない。
「やはりおまえが関わっていたのだな。樹莉殿を長い間苦しめていたのは、荐夕殿に狂気を齎したのは、黒龍の仕業であろう」
平静を取り戻した麗蘭が追及すると、瑠璃は如何にも心外だという顔をした。
「人聞きの悪い。荐夕王子が抱く己が出自への疑いが我が君のお力を引き寄せ、樹莉王女にも波及した。我が君は彼らの望んだものをお与えになり、等価を受け取られたまで」
そう返し、まるで其れが命ぜられた役目であるかのように、抑揚無く続けた。
「荐夕王子は真誠鏡を覗き、自分が烈王の息子でないという事実を見て絶望した」
全く予想だにしていなかった話に、麗蘭は瞬きを繰り返した。荐夕の父が先王でないとすれば、今まで当然と思われていた前提が覆されることに為る。
「信じてきた世界が偽りと知り、全てを消し去りたく為り、我が君の助力を得て闍梛を脱出した。望んだ通り元凶である浮那大妃の子等を殺し尽くしたが、代わりに崇高な魂は喪われ、昊天君に粛清される結果と為った」
王座を得る試練の一、真誠鏡が荐夕を変えたというのは、魁斗が立てた仮説と一致していた。荐夕の動揺に黒神が付け入ったというのが真相なのだろう。
「樹莉王女は兄が消えたのを嘆き、ほんの一瞬――妹でありながら彼を自分の物にしたいと願った。歪んだ形で叶えられたが、王姫の気高い心と身体、兄からの愛情を奪われた」
樹莉の苦難を知る麗蘭は、改めて噴き上がる怒りを覚えた。憐れな姫を襲った禍について語りながら、瑠璃が微笑すら浮かべていたからだ。
「与えて奪う、黒龍さまは両方の御業を行われる。茗の青竜、朱雀、そして珠帝陛下の時も同様であったように」
麗蘭にとり、珠帝をはじめとする茗の者たちは決して相容れぬ敵であった。されど黒神に身命を弄ばれたという点では、同情を禁じ得ない。
「瑠璃。おまえは黒龍の行いが邪悪だと思わぬのか」
敵対関係と為ったあの日から、ずっと尋ねてみたかった。幻想に似た願望を籠めて、瑠璃の心根を問うてみたかったのだ。
「邪であれ悪であれ、構わぬわ。あの方のお望みとあらば、善悪の別になど何の拘りも無い」
躊躇無い返答に、麗蘭は憤りと失望で神気を波立たせた。微弱な揺れではあったが、見逃す瑠璃ではない。
「其の怒り、其の力……私にぶつけるのではなく、大切なものを守るために使うが良い」
忠告が意外な余り、麗蘭は聞き違いではないかと疑った。だが瑠璃は、両眉を上げた麗蘭に構わず言い重ねる。
「一つでも多く、我が君の御手より守ってみせよ。今のおまえに出来る抵抗は其れだけだ」
憐れみを孕む目を向けられ、麗蘭は顔を顰めた。
「何のためだ。何故、奴は私たちをかくも玩弄するのだ」
半年前、渦巻く黒焔に囲まれながら、黒神に同じ問い掛けをした。だがあの時返ってきたのは、麗蘭が求めていた答えではなかった。
「止めておけ。人間の身であの方の真意を探ろうとするなど畏れ多く、無意味なこと」
袖で口元を隠した瑠璃の本心は見えなかったが、彼女らの新たな一面を窺い知れた気がした。黒神に最も近い人間である瑠璃でさえも、主の胸中が読めぬままに付き従っているのではないか――と。
「瑠璃。おまえは……」
口に出し掛けた時、後方に別の人物の気配を感じた。瑠璃を気にしつつ振り返ると、一人の少女が廟に入って来た。
「樹莉殿」
生気が無く覚束ない足取りの樹莉は、ぼんやりと遠くを見ている。麗蘭と瑠璃など視界に入っていないかのようだ。
先刻までとは異なり、此の樹莉からは弱い魔力しか感じない。傷は完治したとはいえ、長く黒の気に囚われていた身では、歩くことすら儘ならぬはずだ。
「結局のところ、樹莉王女の心次第というわけか……面白い」
妖しく笑んだ瑠璃が、背後に在る銀の祭壇を示し樹莉を手招きした。
「さあ、此方へ。おまえの探しているものは、変わらず此処に在る」
其処で初めて、樹莉は己の意思を表した。麗蘭の横を通り瑠璃に道を空けられて、迷わず進みゆく。一方瑠璃は、樹莉が求めに来たものを確かめようともせず、出口へと歩き出した。
「答えを出し、真実を投げ付けられたおまえには、『其れ』が如何見えるのであろうな――樹莉」
言い置いて、麗蘭と樹莉を残し去ってゆく。魂の宿敵と擦れ違った後、麗蘭は自分が安堵しているのに気付く。今は瑠璃と戦うのではなく、豹王を助けるのが先決なのだと言い訳している自身を見付け出す。
――其の時が来たら、私は瑠璃と戦えるのか?
胸の深くに沈め続けていた漠漠たる不安が、否が応でも浮上する。開光して固まっていたはずの決意が、早くも揺らいだのを感じる。
――だが、やはり。
次に為すべきは、瑠璃を追い掛けることではない。先ずは樹莉や荐夕と向き合い、過去と戦う魁斗を助けることだ。そもそも樹莉の依頼を受け、仲間たちと離れてまで此処に残ったのは、光龍として豹王の命を守るためだったのだから。
瑠璃と会い生じた震慄を堪え、進むべき道を見極める。彼女が廟を出て見えなく為ると、踵を返して樹莉の名を呼んだ。
「樹莉殿」
壇に上がり、奥に祀られている白い龍神像の前に立っていた樹莉は、呼び掛けに応じて肩越しに麗蘭を見やる。
「麗蘭、私――」
其処に居たのは、麗蘭が見えたことの無い樹莉だった。涙珠の跡の残る華容を輝かせし姫君は、長きを経て取り戻した純なる光に満たされていた。




