二十八.王座を奪いし者
魔王の主寝殿は、摩伽羅宮正殿の最深部に在る。即位し崩御するまでを過ごす場所で、歴代の王の好みに依り内装や外装を変え使われ続けてきた。現魔王の豹王は、特段の拘りを持たぬため、先王時代のまま手を入れずに住んでいた。
烈王存命時、たとえ王子や王女であろうと、此の寝殿に入ることは滅多に無かった。魁斗も例外ではなく、母・薺明神と共に二、三度来たのみである。
麗蘭と別れた魁斗は、遠い記憶を元に一人寝殿へとやって来た。道すがら通った広い中庭は、厚い雲の所為で昼間とは思えぬ程陰気で暗く、見るからに荒れ始めていた。敷き詰めて植えられた花々は所々萎れており、落ちた樹の葉も片付けられていない。常に麗しく保たれている摩伽羅宮の中とは思えぬ様相だ。
其れも其のはず、今此の寝殿には王以外誰一人として居ない。但し存在の証たる気は、豹王ではなく荐夕王子のものであった。
長い廊下を進むにつれ、荐夕の魔力を強く感じる。速く歩いている積もりだが、両足が酷く重い。走ろうと思えば走れたが、そうしなかった。出来るなら逃げ出してしまいたい気分だ。
床を踏み締める度、罰に怯える罪人の心境に染まりゆく。自ら殺めた者に裁かれると思えば、尚更恐竦してしまう。
客観的に見れば、荐夕に制裁を加えたのは魁斗である。そう考えようとした時期も有ったが、根付かなかった。異母兄が己の意思で為したとは信じられず、彼が咎人だと思えなかったのが要因だろう。
何時しか突き当たりに差し掛かり、顔を上げると白金で拵えた大扉が在った。地上の凡ゆる鳥獣の姿が描かれたという、細やかな彫飾が目に入る。
此の光景は、数少ない母との思い出の一部だった。父の室であった此の場に、美々しい母に手を引かれて並び立ち、子供ながら緊張していたのを覚えている。
――母さん。力を貸してくれ。
心の中に居る母に話し掛けたことなど、無かったかもしれない。誰かに願わずとも、思い出の母に頼らずとも、魁斗は一人で戦ってきた。誰とも歩めぬ険しき道を、たった一人で駆け抜けてきた。
――今だけは、俺の代わりに麗蘭を助けてやってくれ。
共に生きると約した少女の無事を祈り、魁斗は扉の取っ手に両手を掛けた。
眼前に開けたのは、見憶えの有る大広間。魔王が親族や側近とだけ謁見する玉座の間であった。
天井は同じ半球状だが、正殿の王間とは意匠が異なる。あちらよりも更に繊麗な飾りが施され、丸や四角、八角形の木枠が角度を変えて重ねられた装飾が特徴的だ。
両側の壁には銀色の篝火が燃えている。複雑な文様の床には赤い敷物が敷かれ、其の奥には紫銀の玉座が据えられていた。
三年ぶりに見えた豹貴は、王に為ったとはいえあの頃と然程変わらぬ見た目をしていた。
肩下まで真っ直ぐ伸びた銀髪は纏めず垂らし、優美な貌は大妃や樹莉と似た作りをしている。王子だった時のものよりゆったりとした長衣を纏い、背の高い王座に腰掛けていた。
「久しいな、魁斗。俺が分かるか」
只の一言で、魁斗は此の豹王が本人でないと断定した。豹貴はこんな穏やかに微笑まないし、落ち着いた声で話すことも無い。
「荐夕」
伝わり来る魔の気も、豹貴ではなく荐夕のものだ。介入を疑っている黒神の気は一切感じられない。しかし樹莉の例から見ても、表面だけでは判断出来ない。彼の邪神に掛かれば、見せ掛けなど如何にでも為るのだから。
「何故、戻って来た。豹貴兄や樹莉を巻き込み、大妃を死なせてまで、何故蘇って来た」
裁く者と裁かれる者――此の立ち位置に持ち込まれたら終わりだと、分かっていた。だからこそ魁斗は、遠慮し下手に出るわけにはいかなかった。
「やり残したことを片付けるためだ」
ほんの僅かに口角を上げ、荐夕は言い放った。
「樹莉も豹貴も、元より三年前に死ぬはずだった。俺が死んだ時、こうして蘇るためのよすがとして生かしてやったまでのこと」
魁斗は歯を噛み締めた。表情の作り方、声の調子は荐夕のものだが、発言は異母兄のものとは思えない。もしかするとという、微かな期待が無かったわけでもなく、悔しげに目を細めた。
「樹莉は俺の終わりを悟り、失いたくないと願った。だから俺は、樹莉の『恋人』に為る代わりに全てを奪ってやった」
玉座の手摺に肘を付くと、荐夕は悪びれもせずに話し続けた。
「豹貴を呪い、大妃を殺して欲しいと頼んだら、悦んで叶えてくれた。あの夜樹莉に移した力が高まり満ちるまでに、三年も待たねばならなかったがな」
真相を知り、魁斗は愕然とした。樹莉は兄との道ならぬ恋に落ちたのではなく、騙されて利用されただけだったのだ。
「如何してそんなことが出来る。俺たちの妹だぞ」
怒りに肩を震わせる魁斗に、荐夕は涼しい顔を崩さなかった。
「幾度か褥を共にし、愛を偽っただけ。何ということはない」
事も無げに言い、悠然と脚を組んだ。
「魁斗、折角得られた機会だ。面白い話をしてやろう――おまえと俺は、異母兄弟ではない」
「何の冗談だ」
突飛なことを言い出した荐夕に、魁斗はますます怪訝な眼差しを向けた。
「烈王と浮那大妃の子の中で、俺だけ髪と瞳の色が違うのを疑問に思ったことは?」
荐夕が何を言いたいのかが分からず、魁斗は素直に異母兄弟たちの容姿を思い浮かべた。確かに荐夕だけ異質と言える部分も有ったが、目鼻立ちは烈王に似ていたし、何ら不自然に感じたことは無い。
「浮那大妃が俺だけに甘かったわけを知っているか? 時折詫びるような視線を向けていたのに気付いていたか?」
大妃が荐夕に優しかったのは、単に彼が気に入られていたからだと解釈していた。一方で後ろめたい素振りというのには気付かなかったが、心当たりが無くもない。
「俺の父は、烈王ではない」
そう聞くや否や、魁斗は色を失った。
「烈王の父親――王位を奪われてから死ぬまで幽閉されていた染王。大妃があの狂人に身を捧げて孕んだ子が、俺だ」
染王とは、若くして王に選ばれたが闍梛宮の試練を切っ掛けに精神を病み始め、程無くして気狂いと為り廃位された王だ。魁斗や樹莉からすれば祖父に当たる。
三百年近く生きていたが、外見の年齢は発狂した際に止まって以来、若いままだったという。摩伽羅宮内の端に在った尖塔に閉じ込められており、魁斗が生まれて間も無い頃死んだ。染王の居た塔は、其の後に破壊され埋められたらしい。
「俺も含めて皆、大妃に騙され続けていた。烈王は知っていたのだろう。何時も俺を憐れむような目で見ていた」
冷めた笑みに自嘲めいた感情を浮かべ、荐夕は俯いた。
「やがて、何かがおかしいと勘付いた。月日が経つにつれ疑念は膨らむ一方だった。烈王の息子でないのなら、俺は魔王に為る資格を有しておらぬのだから」
現魔王の子であることが、次代の王に為るための絶対条件。本人の器量を問わず、先ず其処が要件である。幼少の頃より有力な王候補として目されていた荐夕に、権利すら無かったと明らかにされれば、大事どころでは済まされない。
「如何しても真実が知りたかった。ゆえに試練に挑み、『真誠鏡』を覗かねばならなかった」
彼の口振りからは、自身の出生を疑いながら闍梛宮へ赴いたのが窺えた。試練に真誠鏡が使われると知り、命を失う覚悟を決めてまで、己の生まれを突き止めようとしたのだろう。
何も言えず、静かに耳を傾けている魁斗をもう一度見やると、荐夕はそっと口端を上げた。
「果たして鏡に映ったのは、忌々しい黄昏色の男――染王に抱かれる大妃の姿だった」
黄昏という単語で、魁斗はやっと思い出した。荐夕が持っていた其の鮮やかな色彩は、噂でしか知らぬ染王も持っていたという話を。
「おまえは染王を見たことが無いだろう? 俺も直接会ったことは無い。鏡で見た彼の方は魂の無い狂者だったが、若々しい姿は一際美しかった。大妃が一度ならず邪婬に耽ったのも無理はない」
実の子に依り語られたのは、魁斗の知らぬ継母だった。浮那という女は、敵視する者には厳しく、冷酷に為れたが、烈王の妻としては貞淑な賢婦だったはずだ。
「悍ましい。あんな悍ましい鬼女の腹から産まれた我が身を呪いたく為る。あの女は、事も有ろうに秘密を隠して俺を魔王にしようとしていたのだ」
憶えている限り、荐夕が人を罵るのを聞くのは初めてである。
「じゃあ、大喪の儀でのあれは、大妃への復讐だとでも?」
大妃の産んだ子を、大妃の眼の前で殺し尽くす――残虐な所業と、此れまでの話からして、思い至ったのは報復であった。だが荐夕は、直ぐに頭を振った。
「復讐などという大それたものではない。只何となく、そうしてみたかっただけだ」
気まぐれか何かという曖昧な答えに、魁斗はまた一つ不審感を重ねた。
「俺を殺さないと、豹貴兄の身体を完全に奪えないらしいな」
唐突に話を変え、魁斗は相手の反応を待った。
「おまえでなくても構わん。樹莉も途中で気付き、自ら贄に為ろうとしたようだ。神巫女さえ邪魔しなければ、あの子は望み通り俺のために死ねたものを」
言い終わらぬうちに、魁斗が歩き出した。偽王の真ん前まで来て立ち止まり、敵意と諦めを込めた眼で射抜く。
「おまえは、誰だ?」
過ぎ去った懐かしい日々に、あれ程慈しんでいた妹の命を軽んじ傲慢に言い捨てる此の男が、荐夕であるはずがない。己が目と耳で思い知り、魁斗はいよいよ確信した。
「本物の荐夕は、真誠鏡を見て何処かへ消えてしまったんだろう? おまえは何者だ?」
そう問うた時、魁斗の中には既に正答が存していた。敢えて訊くのは、現実を受け入れたくない心が有るからだ。
魔国の王位を奪い、豹貴の姿で玉座に居る偽王は、無限の黒色を生む瞳を魁斗へ向けた。
「俺が荐夕ではないというのは、当たらずと雖も遠からずといったところだ。おまえが此の世で最も憎んでいる者――とでも言えば、分かってくれるか」




