二十七.目覚め
黒の邪神を葬るため、天より宿を授かりて生まれ落ちた二人――半神半魔の公子と神巫女は、必然の運命の下出会いを果たし、惹かれ合った。
魁斗と麗蘭が一つの希望を目指し、手を携え生命の焔を燃やすのもまた、定められていたのか。相手の光に為りたいと願い、互いに唯一の男と女に為りたいと祈り始めたのは、必定だったのだろうか。
いずれにせよ、彼らは共に生き、同じ夜明を迎えると決めた。たとえ、得体の知れぬ大いなる意志に動かされているとしても。其の巨大なるものが、彼らを産んだ陽の光ではないとしても。
行く手を阻む『王の爪』と戦い撒いた麗蘭たちは、中庭を進み狭い回廊が分かれる地点へやって来た。
白亜の彫刻が施された列柱に挟まれ、三本の渡り廊が白土の上に敷かれている。魁斗が言っていた通り、左の道が魔王の寝殿へ続いているが、麗蘭は右の道へ向き立ち止まった。
「済まぬ、魁斗。おまえは先に行ってくれぬか」
そう言いながら、視線は魁斗ではなく巫女の目で捉えたものに向けている。魁斗も遅れて察知し溜息を吐いた。
「黒の気か」
彼が此の気を感じたのは、半年前に圭惺平原で黒神と対峙した時以来である。宮殿内にも入り込んでいたかと思うと、嫌悪が突き上がって来る。
「樹莉殿に治癒を施した際、長く溜められていたと思しき黒の力を見付けた。恐らくだが、樹莉殿はかなり前から黒龍の影響下に在ったのではないか」
可能性が有る、という言い方に留めてはいたが、麗蘭はほぼ確実だと考えていた。樹莉が邪神の剣を持っていたのにも、説明が付けられる。
「そう考えれば、樹莉が急激に力を付けたのも得心が行く。だが、何故今まで気付かなかったんだ」
魁斗の自然な疑問は、麗蘭にも解せなかった。あれだけ樹莉の側に居たのだから、十分察せられたはずだ。
「恥ずかしいが、私も奴の気を全く感じ取れなかった。珠帝の時とは異なり、樹莉殿も自覚の無いまま時を掛けて蝕まれたのやもしれぬ」
麗蘭は、荐夕が乱心したのも黒神の所為ではないかと睨んでいた。荐夕が受けた黒の力が樹莉へと移り、彼女の魔力を少しずつ浸食したとすれば、目立たず見過ごしたとしても不思議ではない。
「あの室から漂うのは、神の気ではないな」
同じ黒の気でも、持つ者に依り若干性質が異なる。魁斗の意見に麗蘭も同意した。
「ああ。巫女の方だ」
「晶瑠璃、と言ったか。罠かもしれないぞ」
「しかし、私が会わねばならぬ」
間髪入れずに答えた麗蘭に、迷いは無い。
「一緒に戦わなくて良いのか」
「おまえは荐夕殿の許へ急がねば。時が経つ程豹王陛下から離すのが困難に為る」
本音を言えば、共に居たかった。己が心細いというよりも、荐夕と対面する魁斗を一人にしたくなかった。先刻我が儘を言って離れなかったのも其れが理由だが、瑠璃が居るとすれば致し方無い。
身体ごと魁斗に向けた麗蘭は、自信に満ちた声で言い放つ。
「共に戦うと誓った以上、そう簡単に一人で倒れたりせぬ」
強がりでないとは、言い切れない。五年程前、瑠璃に手酷く裏切られた記憶は、心の臓を貫かれた消えぬ傷と為っている。予期せず彼女を見付け、怯えていないと言えば嘘に為る。だが魁斗との誓いのお陰で、敵が瑠璃であろうと負ける気がしないというのも事実だ。
目と目を見交わし、麗蘭の決意を確かめた魁斗は、付いて行きたいのを堪えて頷いた。
「信じよう」
好いた男に清清しい笑みを見せられ、麗蘭は僅かに胸が弾むのを感じ、頬を淡紅に染めた。
「私もおまえを信じている」
想いを伝え合い、魁斗は麗蘭へ背を向け歩き出した。立ち止まり、肩越しに彼女を見る彼の目は、悲しみを宿しつつも輝きを湛えていた。
「聖安に戻ったら、此の先の話をしよう。俺たちが共に進むべき道の話を。おまえが治める美しい国の話を」
其の申し出は、神巫女であり皇女でもある麗蘭にとり、至高の光明であった。闇に迷いながら出口を求める彼らにとり、救いの光彩であった。
刹那、魁斗の言葉に呑まれた麗蘭は、無上の歓喜に包まれた。彼が光を齎し、自分自身もまた彼の光に為れたと信じたからだ。
「ああ、喜んで」
麗蘭と魁斗は、それぞれが苦しみの過去へと通じる回廊を渡って行く。未だ見ぬ彼らの未来を掴み、共に走ることを夢見て。
狂狂の果てに死へ向かい生還した樹莉は、自室の寝台の上で目を覚ました。
室内は彼女の好みから極力照明を取り去っており、今が朝か夜かの区別も付かない。明らかなのは、胸を剣で貫いたにも拘らず傷らしきものが無く、身体が自分のものとは思えぬ程軽いことだ。
「生き……てる?」
身を起こして思わず発した声もまた、別人のもののように聴こえる。壁に据え付けられた燭台へと魔力を振るい、暫く使っていなかった蝋燭に点火すると、己の力が随分と弱く為っている気がした。と言うよりも、元に戻ったと表す方が近しい。
此の数年来、自身の力が大きく為り過ぎているのには気付いていた。元来魔術に長けていたとはいえ、反魂や魂封術程の高等な術を使えるように為ったのは何か妙だった。神巫女の麗蘭を難無く騙せたのは、そしてあの魁斗を容易く地下牢で縛せたのは、今にして思えば如何見てもおかしい――あの時は違和感すら無かったのだが。
「一つ、また一つと過ちを重ねる毎に、君の力は高められていた。あのままにしていたら、自分で命を絶たなくてもいずれ死んでいたに違い無い。麗蘭が救ってくれたんだよ」
男なのか女なのか分からぬ声色で、誰かが呟いた。足元の方を見やると、寝台の向こうに在る小卓の上に、水浅葱色の鳩が居た。
「私、死のうとしたんだ。『荐兄』のために死ねば、愛してもらえると思って」
地下牢で魁斗や麗蘭と会う前、『あの人』から渡された剣の冷たい感触が手に残っている。小刻みに震え出した手を顔の前で組み、恐怖を無理に押さえ付けた。
「そんなわけ、無いのにね。『あれ』は荐兄じゃないってとっくに分かってたのに、如何して止まらなかったんだろう」
樹莉が恋心を寄せた兄ならば、母や魁斗を殺せなどと命じるはずが無い。そして魁斗の言った通り、そもそも樹莉を『恋人』と呼んだり、兄弟を殺す凶行に及んだりするはずも無い。樹莉が死に掛けたというのに姿すら現さぬのも信じ難い。
「でも、それじゃ……『あの人』は誰なのかな?」
三年前、荐夕の代わりに戻って来た誰か。『荐夕を帰して欲しい』という樹莉の望みに応え、代償として樹莉から王女の誇りを奪い、命をも掬い取ろうとした誰か。
闇に訊いても答えは返らない。麗蘭が居なければ魁斗をも手に掛け、完全に堕ちていたというのははっきりしている。
「此れから『ぼくら』がなにをすべきか、今の君には分かるよね?」
優しくも厳かに責め立てる鳥は、円らな眼を真っ直ぐに向けて問い掛けてくる。樹莉は浅く首肯し、己の分身とも言える彼の者を指差した。
「其の子、魁斗兄の大切な人のものだよね。紅い目の優しそうな女の人……あの人の想いが其の子を此処に届けて、貴方の宿主に為った」
聖安の公主たちを迎えた頃。樹莉は魂を分離する魔術を用いて、失われ掛けた清らな心を解き放った。其の光が彼女を捕らえた邪念から逃れ、あさぎに寄せられたのだ。
「もう、此の子の体を借りる必要は無い。ぼくは君の元へ戻り、罪を償わなければならないから」
小さきものに言われ、樹莉ははっとした。狂気的な愛執に縛められていた間、犯した罪の大きさは測り知れない。蘇りつつある呵責の念に窒息しそうに為るが、此処で頽れてはまた罪咎を重ねてしまう。
鳩は羽を広げ、樹莉の膝上まで飛んだ。彼女を見上げて一声鳴くと、黒闇で際立つ赤い瞳を輝かせて誘った。
「行こう、偽王の居る処へ」




