第12話 震災の泥棒
東日本大震災のあと、この町には空き家が増えた。
住んでいた人が引っ越した家。
取り壊されずに残っている家。
窓だけが閉じられたままの家。
草だけが伸び続けている家もある。
人がいなくなると、家は少しずつ静かになる。
音が減り、匂いが消え、時間だけが残る。
そして時々、誰かが戻ってくる。
その日の午後、接骨院の扉が開いた。
「先生」
入ってきたのは四十代くらいの男だった。
疲れた顔をしているが、どこか落ち着かない。
「腰ですか」
恒一が聞くと、男は首を振った。
「違うんです」
声を落とした。
「泥棒が入ったんです」
男は何度も手をこすっていた。
落ち着かない様子だった。
泥棒の話というより、
何か思い当たることがある顔だった。
恒一は眉を上げた。
「家に?」
「ええ」
男は椅子に座った。
「父の家なんですが」
「今は住んでいない?」
「父は入院中です」
男はため息をついた。
「見に行ったら、台所が荒らされてて」
「警察は?」
「呼びました」
男は苦笑した。
「でも盗まれたの、米と味噌なんです」
恒一は少し考えた。
「金じゃない?」
「ええ」
男は首をかしげた。
「変ですよね」
恒一は静かに聞いた。
「震災のあと、その家どうしてました」
「避難してきた人に貸してました」
恒一はうなずいた。
「父が言ったんです」
男は少し笑った。
「『好きに使っていい』って」
そのときだった。
接骨院の奥で小さな音がした。
カタン。
恒一は振り向いた。
待合室の端に、人影が立っている。
三人。
薄い影。
古い服。
少し濡れている。
恒一は男に聞いた。
「震災のとき、この町に津波来ました?」
「川沿いのほうに」
男はうなずいた。
「避難してきた人も多かった」
恒一は影を見た。
三人とも同じ方向を見ている。
台所のほう。
火のある場所。
食べ物のある場所。
腹をすかせた人間の目だった。
恒一はゆっくり聞いた。
「お父さん、入院先どこです」
「町の総合病院」
「行きましょう」
二人は車で病院へ向かった。
病室には老人が横になっていた。
男の父親だ。
やせているが、目はしっかりしている。
「父さん」
男が声をかける。
「どうした」
「泥棒入った」
老人は少し笑った。
「ああ」
男は驚いた。
「ああ、って」
老人はゆっくり言った。
「米か」
男は固まった。
「なんで分かる」
老人は目を閉じた。
「震災のときにな」
静かな声だった。
「腹すかせた人が来た」
老人は続けた。
「『自由に使っていい』って言った」
男は言った。
「でもそれ、十年以上前だぞ」
老人は小さく笑った。
「約束は残る」
その瞬間。
病室の窓の外に人影が立った。
三人。
接骨院で見た影。
静かに窓の外に立っている。
老人は窓を見て言った。
「ほら」
男は振り向いた。
「何もいない」
だが恒一には見えている。
三人は深く頭を下げた。
そして、ゆっくり後ろへ下がった。
空気に溶けるように消えた。
老人は静かに言った。
「もう来ないな」
男は混乱していた。
「父さん……」
老人は目を閉じた。
「人は助け合うもんだ」
恒一は窓の外を見た。
夕方の空だった。
帰り道。
男が車の中で言った。
「先生」
「はい」
「泥棒じゃなかったんですか」
恒一は少し考えた。
「借りただけでしょう」
男は苦笑した。
「ずいぶん長い借り方だ」
恒一は空を見た。
「返しに来たんですよ」
男は首をかしげた。
「何を」
恒一は言った。
「礼を」
その夜。
恒一はまた夢を見た。
おかっぱ頭の少女。
少女は家の前に立っている。
三つの影を見送っている。
少女は静かに手を振った。
そして恒一を見た。
唇が動く。
――約束。
恒一は目を覚ました。
窓の外は夜明け前だった。
「……そういうことか」
この町にはまだ残っている。
約束。
記憶。
人の善意。
そして、それを覚えているもの。
忘れたつもりでも消えたわけではない。
恒一には、それが時々見えてしまう。
ただ、それだけのことだった。




