詩織
博子の目が大きく見開いた。結婚してから数回見たことのある、爆発寸前の表情である。真ん丸い目が、これでもかというほど大きくなった。
「それ、どういうこと? 何で私たちが預からなきゃならないの?」
「お世話になった人のお孫さんなんだ。ご恩を受けた人の孫が、独りぼっちになったんだ。他に身寄りがなくて、今施設に入れられている。恩返しをしなきゃならんのだ」
「そんな……。突然、そんなこと言われたって」
驚愕をあらわにし、見開いたままの目をせわしなく動かしている。それをなだめるように、ことさら丁寧な口調でゆっくりと孝秋は言う。
「夏休み、小学校のキャンプに子供が行っていた間のことだ。買い物に出掛けた両親の車とトラックが正面衝突したんだそうだ。かわいそうに、両親とも一度に亡くしてしまったんだよ。かわいそうだと思わんか」
「世の中、かわいそうな人はいっぱいいるわよ。何でその子に限って引き取るの?」
「だから、言っただろ。ご恩を受けた人の孫だって」
「どういうご恩よ」
「一方ならぬお世話になったんだよ。昔、インターンのときに……。あの方がいなかったら、今の自分はなかった。詳しく話せば長くなるし、これ以上詮索することないだろう。頼むからご恩返しに協力してくれよ。君が頼りなんだから」
しまいには泣き落とししかない。孝秋は冷ややかな視線を浴びせる博子の足元に、手をついて深々と頭を下げた。
博子は寝つけない夜が続いていた。なぜ、夫は急にあんなことを言い出したのか。三浦なんて、今まで聞いたこともない名前だった。知らない人の子を、何で預からなきゃいけないのか。まさか、夫の隠し子では……、などと疑惑の念がムクムクと頭をもたげてきた。そうなるともう、この考えが瞬く間に博子をすっかり支配した。
(今までの私の人生は何だったのだろう)
優しくて、財力もあり、社会的な地位もある医学者の妻として、何の不満もない人生だった。世田谷の高級住宅地に居を構え、夫は東都大学の医学部の教授であった。二人の男の子に恵まれ、長男の修一は優秀な医学生として留学中である。中学生になる次男の浩二は少し頼りないが、悪い子ではない。成績があまりよくないから医者はどうも無理なようだが、機械いじりが好きで、彼は彼なりの道を歩むだろう。
これからも、磐石な家庭のはずであった。それなのに、何で他人の子が紛れ込んでこなければならないのか。それによって起こるに決まっている波乱が想像され、不安と恐怖感に苛まれた。
(そうだ。きっと、その子は夫の子に違いない。今まで気付きもしなかった。相手はどんな女だったのだろう。浮気をして帰ってきた日、夫は私をどんなふうにごまかしたのだろう。もしかして、ごまかすために優しく私を抱いたのだろうか。まさか、今でもずっとその女と……)
博子は怖気立った。もう二度と夫に触られたくないと思った。疑心は大きな妖怪みたいになって、博子の神経を蝕んだ。
いよいよ、孝秋が施設に迎えに行くという日の前日の夜、とうとう博子は爆発した。
「あなた! その子はあなたの子でしょ」
「何をばかなこと言ってるんだ。そんなはずないだろう」
即答する孝秋の目に、一瞬動揺の色が走ったのを博子は見逃さなかった。
「嘘つき! そうでなきゃ、九州くんだりまで引き取りになんか行くものですか」
「何回言えば分かるんだ。恩を受けた人へ恩返しをしようというのに、お前は私を人でなしにしようと言うのか」
「あなたはもともと人でなしじゃないの。私や子供たちを苦しめようとするのよ」
泣きじゃくりながら、博子は言い募った。押し黙ったまま腕組みをして見つめる孝秋に向かって、博子は頭を混乱させながらわめき続けた。しばらくして、やっと冷静さを取り戻した博子に孝秋は口を開いた。
「お前には悪いが、私の決意は変わらない。もし、お前が協力してくれなくても、私はあの子を引き取るから」
覚悟を決めた夫の言葉に、博子は放心の態で固まってしまった。涙に汚れ、大きく見開いた目が一点を凝視したまま、その生気が失せた。時は止まり、重苦しい空気がどんよりと部屋の隅に澱んだ。
孝秋は宮崎に向かう飛行機の中で、昨夜の博子の顔や言葉を頭の中に巡らせていた。ここ数日の間に、目は落ち窪み、目の下に隈を作った妻の顔。あなたの子でしょと言われたとき、思わず狼狽してしまった。しかし、孝秋は引き取りに行く子の母親の顔も知らなかったし、その夫のことも何も知らない。
子供のできない三浦夫婦は、散々治療を繰り返した挙句、行き着いた不妊専門病院で精液の提供を受けた。そして、その提供者が孝秋であった。不妊専門病院の院長は、東都大学の出身で、当時の孝秋の上司である教授と懇意であった。研修医や学生の精液が精子バンクを通じて役立てられたのである。もちろん堅く秘密は守られて、お互いにお互いを知ることはなかった。いや、ないはずであった。しかし、孝秋は知人の不妊専門医のつてを通じて調べ、その後も、内密に情報を得ていた。
自分の遺伝子を持った子供の状況だけは知っておきたかった。その母とセックスをしたわけではないが、自分の精子は彼女の卵子に突入し、結合し、受精卵は彼女の胎内に着床した。何と浅からぬ因縁ではないか。生まれた子供はその母の夫の子ではない。父親は自分なのだ。その子の将来に責任を感じてしまうのは当然であろう。
宮崎に着いた。空が抜けるように青い。初夏の爽やかな風が孝秋の頬を優しく撫でた。温暖な気候は、ゆったりとした気分にさせる。空港から市内行きのバスに乗り換えた。宮崎市街をゆっくりと走る。丈の高いフェニックスの木が、次々と窓の外に現れては後ろに去っていく。町のいたるところにこのフェニックスが見られ、南国情緒を漂わせている。空気がまるで違っていて、時の刻み方が緩やか過ぎるほど緩やかに感じられるのである。同じ日本でも南のほうはこうも違うものかと思い思い、フェニックスを目で追い続けた。バスセンターから更に野尻行きのバスに乗り換える。バスは市街を抜けて、だんだん山間に入っていく。一時間半ほど走って、やっと目的の町にたどり着いた。山深い片田舎である。しばらく歩いた所に、その施設はあった。
施設長から手を引かれて、少女が部屋に入ってきた。うつむき加減で、口をきっと結んでいる。何となく、口元が自分に似ていると思った。施設長の後ろに隠れようとしながら、上目遣いでおずおずと孝秋を窺う。今この子にとってはすべてが外敵であろう。小さなわが身を守ろうとする防御反応が痛々しかった。
「さあ、詩織ちゃん、新しいお父さんだよ。ご挨拶しなさい」
白髪で長身の施設長が、身をかがめて優しく言った。
「詩織ちゃん、よろしくね」
孝秋は、しゃがみこんで詩織の顔を覗き込んだ。ますます詩織はうつむいて、口をきつく閉じたままである。
「今日から私がお父さんだ。家にはお母さんと、お兄ちゃんが待ってるよ。一緒に帰ろう」
やさしく言い聞かせるように、孝秋は声を掛けた。
手続きを済ませ、二人は施設から外に出た。
「元気でねー、詩織ちゃーん」と、施設の人たちが手を振った。詩織はちらっと振り返ったが、何も言わずとぼとぼと歩く。まだ十歳のいたいけな少女が、突然やってきた見知らぬ男性に行ったこともない地へ連れて行かれるのだ。孝秋の胸がきゅんと締め付けられた。何とかこの子を守ってやりたいと思った。詩織の小さな手をとると、詩織はおとなしく手を引かれて歩いた。握り合った手から温もりが流れて伝わった。
玄関を開けると、博子が顔を出し、孝秋に鋭い一瞥を投げてよこした。しかし、その顔が詩織に向けられたときには、もう満面の笑みを浮かべている。
「まあ、あなたが詩織ちゃん? 待ってたのよ。さあ、上がってちょうだい」と、抱擁せんばかりに部屋に迎え入れた。テーブルには所狭しとご馳走が並べられている。
「おなかすいたでしょ。詩織ちゃんがおいしいと思ってくれるかどうか心配だけど、いろいろ作ってみたから、うんと食べてね」
孝秋は心の中で舌を巻いた。本当にいそいそと嬉しそうな妻の様子なのである。
「ああ、その前に着替えましょ。こっちにいらっしゃい」
そうして、詩織は花柄のブラウスと赤いスカートに着替えさせられて、恥ずかしげに、それでいて少し口元を緩ませて食卓に着いた。次男の浩二が、一体何事なんだという顔で、母親似の目を丸くして見ている。
「詩織ちゃん。お母さんにお兄ちゃんの浩二だよ。浩二、妹の詩織だ。今日から家族の仲間入りだ。よろしく頼むよ」
浩二は戸惑いを見せながらも、かわいい女の子がまんざらでもないらしく、ただにこにことしている。孝秋はほっとする思いで、博子の横顔を見た。化粧の下に、目の縁の隈が見える。きっとずいぶんと悩んだのだろう。そして、新たに女の子の母となろうと決意したのだろうか。頭が上がらなくなったなと思った。
その夜、博子がつぶやくように言った。
「子供に罪はないわ。あなたを信じるしかないしね」




