第81話 忘却の残響
モニター上の赤いラインが100%の境界線を越えてから、どれほどの時間が経ったのか。
篠原の意識は、パッチから脊髄へと逆流し続ける高密度のインパルスによって、白濁した熱の中に溶け落ちていた。
「……あ、……ぅ、……おぅ、……っ……」
気品に満ちていたはずの彼女の唇から、言葉にならない、獣のような短い呼気が漏れる。
多点センサーが刻む「一目盛り」上の振動は、パッチによる増幅を経て、彼女の脳内で終わりのない雷鳴のように鳴り響いていた。脊髄が熱を帯び、末端から吸い上げられた快楽のスパイクが、容赦なく側坐核を叩き続ける。すでに、波形が閾値に触れるたび、彼女の肉体は小さな、しかし鋭い絶頂を何度も繰り返していた。だが、それは解放を伴わない、飢餓感を上書きするだけの不完全な爆発に過ぎない。
(……また、……ここで……)
混濁した思考の底で、記憶が疼く。
前回、もっとも残酷な瞬間に訪れた「寸止め」の感覚。満たされる直前で全てを奪われ、暗い空虚に突き落とされた恐怖。その記憶がパッチによって鮮明に再構築され、今まさに限界に達している潮吹きの前兆――骨盤の奥でせり上がる熱い奔流を、さらに狂おしいものへと変えていく。
深雪は、その「崩壊の極致」を数値として十分に記録し終えると、迷いのない手つきでスライダーをわずかに下方へと滑らせた。
カチリ。
モニターに張り付いていた赤い波形が、一息に80%のラインへと沈み込む。
「っ……、ぁ……ああ、あ……っ!?」
篠原の肉体が、まるで命綱を断たれたかのように大きく跳ね、そして絶望的に脱力した。
今まさに溢れ出そうとしていた熱い奔流が、一目盛りの後退によって再び重い檻の中に閉じ込められる。解放される直前で突き放された脳は、凄まじい「欠落感」に襲われ、側坐核は満たされない報酬を求めて警報を発し始めた。
深雪の指先が、流れるように記録を打ち込んでいく。
「……お疲れ様でした、委員長。これで、高密度神経結合パッチ――『AS-09』の定着確認は終了です。あなたがこのデバイスを完全に受容し、わずか一目盛りの操作で自律的に頂点まで駆け上がってしまう……その再現性は、十分に証明されました」
深雪は、パッチの正式名称を口にしながら淡々と告げた。
篠原には、このデバイスに信号を増幅する機能があることなど知らされていない。彼女にとって、今起きた「決壊」は、他ならぬ自分自身の肉体が、装置の微かな振動に過剰に反応した「卑しい結果」として突きつけられていた。
「……私個人の見解としては、前回の閾値をさらに突破した際の反応曲線データがあれば、今後の研究において非常に助かるのですが」
深雪は、熱に浮かされ荒い呼吸を繰り返す篠原を直接見ることなく、独り言のように言葉を継ぐ。
「ですが、それはあくまで今回の治験の範囲外です。私からこれ以上の負荷を強いるような『お願い』は、もちろんできません。……確認すべきデータは、すべて揃いました」
深雪はそのまま、次のデータ整理の項目へと画面を切り替えた。
「お願いはできない」という最後通牒。
深雪が事務的な沈黙に戻ったことで、研究室には、装置の微かな作動音と、篠原が必死に押し殺そうとする本能の吐息だけが、虚しく響き続けていた。




