八月十七日
八月十七日
色々あったが明日は登校日である。夏休み開始時にはあれだけ楽しみにしていた登校日であるが、この間の進藤健人との一件もあり、さすがに気まずさがあって以前ほどの高揚感を失ってしまっている。
ただ御木本さんに会えるのは確かな事実だった。御木本さんへの気持ちは萎えるどころか常に上昇の一途を辿っており、この上限はまるでないように感じた。
あれから僕と御木本さんは結婚をした。多くの人に祝福されながら、ハワイでの挙式を行った。
「お前の嫁さん、本当美人だよな」
御木本さんのことを見たほぼすべての人が、僕のことを羨んだ。妄想の中での御木本さんは僕が妄想の世界に一歩足を踏み入れると、
「おかえり」
と、いつも優しく出迎えてくれる。その世界にいる時間はとても幸福であるし、僕にとってはその瞬間を世界のすべてに感じるときもあった。
しかし、一体この感覚を得たからと言っても、何を誇れて、何を手に入れることができるのだろう。
僕は何度も何度もこの疑問を繰り返し繰り返し自問自答をしていた。答えは一向に見つかりそうもなく、その迷宮にも近い道に入ると、僕は想像の世界へと将棋の桂馬のように飛び跳ねて、閉じこもるという、これもまた繰り返しに陥っていくのだった。僕は結局の所、夏休みが始まってから最初と何も変わっていない。
僕は勉強をするわけでもなく、かといってもう妄想すらもできないほどの状態になり、ただただ、ベッドに横になって、天井を眺めていた。天井の石膏ボードの穴ぼこだらけの模様を見ていると、特に何を考えるまでもなく時間は淡々と経過していく、自分が時間という世界からも見放されて、心臓の音が時計の針のようにリズムを知らせるが、それすらも何か自分の世界のものではないような気がして、焦燥感だけが積もっていく。この焦燥感の正体はわからない。
けれど御木本さんがこれのトリガーになったことは間違いない、しかしこれは恋だけの問題じゃない気がする。僕は何が何だかもうわからなかった。そんなような状態だというのに、やはり感覚だけは敏感になっている。その感覚でとらえられる世界を僕は求めていなかったような気がする。
さて、それよりもまず明日どう立ち振る舞おう? 同じクラスだ、進藤健人と顔を合わせないということは確実にありえない、逃げようのない事実だった。明日休んでしまおうか? 正直、登校日などというものは特別意味なんてない。休んだところで何もマイナスになることはないだろう、むしろ家にいた方が賢い選択だと思う。しかし忘れてはならないのはやはり御木本さんに会える、ということだった。僕は休みたいという気持ちも十分強かったが、御木本さんに会いたい、御木本さんを見たい、この欲求より勝るものはおそらく今の僕の世界では、ないだろう。
あれから進藤健人からメールも何も来ていない。村沢とも、当然御木本さんとも連絡をとっていない。せっかく御木本さんの連絡先を手に入れているというのに僕は結局、連絡ひとつ取ることができない。
僕にとって携帯電話というものは何のつながりももたらす事はない、その事実は僕を落ち込ませるのには十分だった。……明日はやはり休んでしまおう。僕の頭に甘い逃げの考えがよぎった。世の人々は勇気を出せと一喝するかもしれないが、こんな場面は勇気を出す場面ではない、はずだ。勇気の無駄遣いだ。
でも、と僕はがばっとベッドから上半身だけ起き上がらせた。どうしても、どうしても御木本さんに会いたかった。僕にとって御木本さんと遊んだあの日は明らかにマイナスだった、前以上に御木本さんに会いたくて会いたくて仕方がなくなっている。僕にとってのすべての判断基準は御木本さんだった。
ふと、夏休み祖父の家に行った時のことを思い出した。祖父は根詰めて勉強をする必要はない、と言っていた。いいや、良い大学に行かなくては、将来的に考えて就職活動に悪い影響が出るのは明白で、そのことを考えれば勉強は間違いなくしなくてはいけないことだ。
「でも、今僕が一番欲しいのは御木本さんだ」
僕は思わず、声に出してそんな恥ずかしいことを言ってしまった。勉強をする意味なんてあるんだろうか、僕のすべての判断基準は、先程言ったように、御木本さんだ。どんなに良い大学に行ったって御木本さんがいなくちゃ何の意味もない。じゃあ、僕は勉強をしなくていいのだろうか? もし勉強をしなくていいのであれば、今まで僕が曲がりなりにも人よりは努力してきた勉強に一体なんの意味があったのだろうか?
僕は愕然としたと同時に、それでもなお、実際の所の答えが一体何のなのかをわからないでいる自分を認めた。僕の目の前は真っ暗だった。
「明日はやっぱり学校に行こう」
僕はまた、そう声に出した。僕は明日学校に行って、一人で考えていても一生わからいであろう、ある程度の答えみたいなものを探らないといけないような気がする。