序 偽装結婚と自由
「それで、依頼は?」
「その女と結婚してほしい」
椛島譲は目の前の調査書を手に取った。訳アリの期間限定の偽装婚、譲にとって珍しい依頼ではなかった。女の経歴にざっと目を通す。
「笑えないな。本気か?俺とこいつの関係を調べた上で言っているのなら、なかなかに物騒な話だってことは理解しているのか?」
「男と女。元サヤに収まるというのは珍しい話ではないだろう」
「別れた理由も覚えちゃいないがな。それで、こいつは納得しているのか」
譲は女の写真を指ではじいた。
「そこは、君の腕次第だ。今回のことにはスカーレットライアーが必要なのだよ」
なるほど、最悪の依頼のお出ましというわけだ。
※
依頼人の秘書だという男に連れられ譲がやってきたのは、郊外にある洒落た外装の療養施設だった。療養施設にしてはいやに厳重なセキュリティを抜ければ、ワンフロアに六つの部屋があった。どの扉にも室内の様子をうかがう格子窓が取り付けられている。部屋の中には薄っぺらな布団と排せつ用の穴だけ。部屋の奥に窓が一つあるが、部屋と窓の間には分厚い強化ガラスがあり、中にいる人間が窓を開けることはできない。窓が外気を取り入れるためのものではないのは明らかだった。
「窓の手前の通路はなんだい?」
「夜に見回りをするためのものです。ここからだと死角になる部分がありますから」
案内の看護士はなんでもないことのように言った。
なるほどプライバシーというのは存在しないらしい。見事な療養施設である。空調のブーンという音が響く。
「ここです」
看護士が足を止めると、秘書は看護士に金を握らせた。看護士は慣れた様子で金を受け取ると、一つ頭を下げた。ナースステーションへと戻っていった。
廊下の隅に下がった秘書にかわり、譲は扉につけられた小さな格子から部屋をのぞいた。
「おい」
その女は扉に背を向け布団に横になっていた。長い黒髪だけが床の上に広がっている。返事はない。かわりに隣の部屋から「俺は狂っていない、出せ!」と叫ぶ声がした。譲は一瞬視線を外す。そして視線を戻した譲は、自分の目を疑った。女がいなかった。そんなはずはない。格子に顔を近づけた瞬間だった。
鼻を真下から突きあげる強烈な痛みが襲った。
「鼻がなくなるのと、目がなくなるの、どちらがいい?」
譲は目を眇めると抵抗することなく、黙って視線だけを下に向けた。女が左手で譲の鼻をひねり上げ、眼球五センチのところにぴたりと右手人差し指と中指をつきつけていた。
譲の鼻を掴み上げたまま薄笑いを浮かべる女は白い病院着も相まって狂気じみてみえた。普通の人間なら必死に何とかしようともがいただろうが、あいにく譲も普通という概念からはずいぶん昔に外れた人間だった。背後で息をのむ秘書の気配に内心薄ら笑う。
「正気か?」
「口封じのためにここに放り込む人間よりはよほど、まともだと自覚している。さて、どうする。目と鼻がなくなっても死なないか試してみる?」
「そんなことを言って、お前に何ができる。自力ではここから出られないことは理解しているはずだ」
譲が動じないと分かると、女はふ、と強化ガラス越しの外に目をやった。
「......そういえば、失血死にはどれくらい時間が必要なのかな。ここはずいぶん暇だからな。私も少々おかしくなったかもしれない。......なあ、試してみるか?」
朧月に女の輪郭が淡く光る。
「やめておけ、ヤナセ。そんなことをしても変わらない」
依頼書に書いてあった女の名を口にする。帽子をとった。薄暗い廊下の明かりに譲の姿が浮かび上がる。
女の剣呑な瞳が揺れた。実際にはその目は一ミリも動かなかったが、譲には確かに女が驚いているのが分かった。そこに狂気の色はない。だから譲は平然と要求をつきつける。
「ここから出たいならこれにサインをしろ」
タブレットを差し出した。
画面には『婚姻届』。
「正気か?」
女は露骨に眉を顰めた。初対面の相手に対してならば失礼極まりないが、突然婚姻届を突き付けられた人間としてはひどくまっとうな反応だった。
だから譲も平然と返す。
「ここから出るには保護監督者の了承が必要だ。お前にそのサインをしてくれる人間はいるのか?管理人仲間を呼ぶというのなら連絡するが。それとも誰か想い人でもいるか?」
「馬鹿か」
女は悪態を一つ、タブレットと譲と秘書の顔を見比べた。
「この、椛島譲というのは?」
「俺だ」
女は鼻で笑った。少しの間何かを考えると、譲の鼻を解放する。
ヤナセ・リジー。婚姻届にサインした。
「よくやった」
秘書は譲の手からタブレットをひったくると何やら操作をした。譲は秘書から受け取った鍵で部屋の鍵を開け、女の手をとった。冷たい手をしていた。
※ ※
「カバ」
懐かしいあだ名とともに、駐車場で譲は女に袖を掴まれ立ち止まった。なんだ、と振り向いた譲の体が宙に浮く。気づけば、馬乗りになった『新妻』が悪鬼の形相で見下ろしていた。足払いというには鮮やかすぎる手際だった。
もちろん、女に乗られたくらいで、譲の腹はびくともしない。むしろ臨むところではあった。だが、人通りの多い通りに面した駐車場での出来事だ。多少の人目をはばかる必要があるだろう、と女を見るがそんなことなどまったく頓着していなかった。
女は譲の胸倉を掴み上げる。
「何でお前がこんなところにいる」
怒り心頭だった。
「依頼、だったんでな」
もっともな質問だったが譲はすべてを答えるつもりはなかった。端的に返せば、
「離婚するぞ」
女の要求はこれ以上なく明解だった。
「そうしたいのはやまやまなんだがな。お前がこんなとこにいる間に国への申請はマザーに一元管理されるようになった。婚姻届はあの秘書がマザーに申請済だ」
「つまり、私とお前は本当に結婚しているということか?偽装ではなく?」
「どうして、偽装で出られると思ったんだ? 嘘つき管理人ともあろうものが」
療養施設から出るにはしっかりした身元引受人が必要なのは誰もが知っていることだ。
女は入口で看護士と話している秘書をみやると、忌々しそうに舌打ちをし、譲を睨みつけた。なんでそんなことをした、と雄弁にその目が語っていた。
「俺は俺への依頼をこなしただけ。無関係だぞ」
そこで女は初めて虚を突かれたような顔になった。まじまじと、譲を見ると、どうしようもない人間に対するため息をついた。
「曲がりなりにも婚姻届に名前を書いておいて無関係を主張する人間は世間では結婚詐欺師というんだぞ」
これには譲が固まった。
正しい主張ではある。世間一般常識に照らし合わせれば、それは正しいのだが、目の前のこの女―ヤナセ・リジーの口から出ると決定的に何かが違う気がした。
「お前、俺と結婚したいのか」
真剣に問うた。大切なことだった。
今度はヤナセが止まった。お互いにたっぷり数秒間見つめ合った。そして、ため息一つ。
ヤナセは大真面目に頷いた。
「悪夢、だな」
「だな」
二人ともよい年をした大人である。短い言葉で失言をすべてなかったことにするくらい簡単なことだった。
「依頼?なんで受けた」
「俺にも守りたいものがあったからな」
「......女、か」
「まあな」
話題を変えた女に、譲は少しばかり情けなさそうに笑ってみせた。言外に含まれた意味には気づかないふりをした。
「そうか。まあ、それはどうでもいい。それで、お前は私をわざわざ出して何をさせたかったんだ?相変わらずすごい量の嘘を引きつれているみたいだが」
女はその理由にはさして興味はないのか、あっさりと流すと、譲の周りを呆れた表情で見た。
譲はぐいっと腹筋に力を入れて起き上がる。バランスを崩して後ろに傾くヤナセの背中に手を当てた。至近距離で二人は向き合う。
「ああ。挨拶が遅れたな。ライアーズバンク嘘管理融資部 椛島譲だ。一か月前から行方不明の管理人の救出任務といったところだ」
「はあ?」
「聞こえなかったか? ライアーズバンク嘘管理融資部門、椛島譲。今日付けでお前の相棒だ。よろしくな雷屋クリーンサービス 嘘憑き管理人、ヤナセ・リジー」
「ふ、ふざけるな。どうしてそんなことに」
「お前が、迂闊にもとっ捕まってあんなとこに入れられているうちに要返却の嘘がたまったからな。上もお前には手綱が必要だと理解したんだろおっと文句は後だ。まずは仕事だ」
ヤナセは譲を見ると舌打ちした。
「目的のためには手段を選ばない主義なんだ。知っているだろ?」
「利用するだけの悪徳バンカーめ」
ヤナセは毒づくと譲の腹に拳を向かって拳を繰り出した。
譲は気配だけで拳を止めた。
「DVは止めとかないか?」
ヤナセは舌打ちすると、立ち上がった。
「行くぞ」
「どこに?」
「決まっている」
駐車場の片隅に置いた譲の車にヤナセは向かった。迷うことのない後姿に、譲は肩をすくめ後を追った。




