第136話・復讐者の怒り
深夜。
空は時間を経つ事に深みを増していく。
だが、この母娘には昼夜、時間等、関係はない。
「血も涙も無くなったのね。おぞましい。
このあたしが、こんな子を産んだなんて信じられない………。
あの頃のあんたは何処に行ったのかしら?
喜怒哀楽もない人形様ね。あんたは冷酷非道になったわ」
煽る様に言う、媚の混じる声音。
(無視すればいい。こんな人を相手にする理由はないの。
相手にしていたら、私も同等の醜い人間よ)
足を進ませようとする。
けれど理香の意志とは、床に張り付いた様に足は鋤くんでしまう。
代わりに気分が悪いと感じる程の
腸から煮え滾る冷たいな怒りが、沸々を沸き上がってくる。
(_____何も見ようとすら、しなかった癖に)
異父姉である佳代子に瓜二つだった事が気に入らなくて
人の精神と人格を潰す程、365日絶えずにずっと虐めてきた癖に。
“心菜”を己の腹を痛めて産んだ“娘”ではなく、
“佳代子にそっくりな憎い女”としてしか見ていなかった癖に。
嗚呼。
理香の心の中で何かが、音を立てて崩れた。
冷たい眼差しを繭子へ向けた後、理香は握り締めた拳を思いのまま、壁に叩き打ち付ける。
この悪魔に、この悪魔の館に、手加減なんて無用だ。
かなり強かったらしい。
理香が己を拳を打ち付けた瞬間、
とてつもない轟音が部屋に響き、微かに置物が揺れた。
理香の行動に、繭子は、目を見開き無意識的に後退りする。
何故ならば、其処には見た事のない形相の女が居たからだ。
佳代子に似ながらも、佳代子は決して見せる事のない表情。
堪忍袋の緒が限界が限界だった。
何時も冷静沈着で一切表情を変えない理香の目尻が釣り上がり、
冷めた険しい面持ちと睨み鋭い冷ややかな視線を送っている。
冷たい眼差しや表情は見慣れていた筈なのに。
けれど見慣れていなかった。その鋭いその表情や眼差しに
圧巻され、無意識に背筋が凍ってしまった。
「___誰のせいで、私がこうなったと?」
理香は静かに呟く。
それは冷たい刃物が突き刺さる様な物言い。
蜂蜜色の瞳がこの上無い程に無情で冷たく、静かに闇色を潜め睨んでいる。
佳代子と微塵も変わらない面持ちをしたそっくりな女。
けれど何処か佳代子とは違う。
佳代子や心菜は、こんな怒りを現した表情はした事はなかった。
だから余計なのか。背筋が凍ってしまう様な感覚に陥る程、
異様に見えるのか。
(___佳代子、みたい)
“佳代子”というワードが浮かんだと共に腸に潜んだ憎悪が、増殖する。
だが威勢を放ちたい筈なのに何故か喉が固まり、声が出せない。
後退りする様に、自然と後ろへ足が退く。
怯えている。
そんな繭子を、理香は冷たく睨んだままだ。
理香はテレビの隣に置いてあった、
変色し力尽きた枯れた華の花瓶を持つと、
先ずは花瓶の中身____水を悪魔に向かってかけた。
水は直撃し、繭子の髪や顔は濡れ、
濃いメイクが水に滲み落ち何とも言えぬ無残な顔になっている。
次に、花瓶を投げた。
ガシャン、と凄まじい音と共に花瓶は割れ破片は、
リビングウィンドウの前で散らばっていく。
的は繭子に向かって投げた様に見せかけたが
繭子の傍らを狙って避けるにしただけで投げた訳ではない。
_____単なる脅しと、腸を煮え滾った感情は押さえられなかった。
悲鳴を上げかける女の口を塞いで
きつくその胸ぐらを勢いのままに掴んだ。
「人の感情を、喜怒哀楽を奪って
人格を潰し殺したのは、こうなる様に仕向けたのは誰?
それは他でもない貴女でしょう?
私は、自由に振る舞う事も感情を見せる事さえ出来なかった。
歳を重ねる毎に段々と感情と感性が失せて行ったのよ。貴女の影響でね」
語尾がどす黒く、冷たい圧力がかかる。
冷静な物言いの中で熱の籠った籠る怒りの声音。
理香自体もあまり喜怒哀楽のない人物だったせいか、
彼女の怒るところも繭子は初めて見た。
だが。
(___あたしより下の癖に、何様のつもりなのよ)
かっと頭に血が昇り、繭子は声を荒げた。
「人聞きの悪い!人のせいにしないで!!」
「人聞きが悪い? どの口が言えるのかしら?」
ふっと、理香は鼻で嘲笑う。
分かってる。この女が物分りの悪さと、身の程知らずなのは。
こんな悪魔を本当は、相手にするまでも無いけれど。
けれど
何故か腸に潜むどす黒い何かの歯止めが利かない。
繭子が自分自身を憎んでいる様に、
理香も繭子への憎悪を膨らんでいくのだ。
理香は怒りの表情を混じらわせながらも、冷静な態度や表情を見せる。
「そう言っているのは、無意味な虚勢よね。
また怒鳴れば人が怯えて、自分の思い通りになるとでも?…………単純な発想だわ」
「あんたはあたしの娘なのよ!? 子供は親の言う事を聞いて従う物でしょ?
あんたはあたしの言う通りにして生きていれば良いのに、どうしてそれを蹴るの!?」
全ては自分自身の地位を華やかに着飾る為に。
その為だけに娘を産んだというのに、それを背き逆らうつもりか。
佳代子にそっくりというだけでも憎悪が走るというのに、
自分自身の計画に背くとなれば尚更、苛立ちが募る。
「______娘を娘とも思ってもいない癖に。
もう私は“貴女の操り人形”じゃないわ。好き勝手に動かせるなんて思わないで。
私は私よ。“椎野理香“。
それに私を許さないのなら、許さなくて良い。
その代わり私も貴女を許さない。一生憎んで生きていくわ。
それに______
貴女に、私を許す権利なんてないのだから」
森本心菜だとは認めたくはない。
あの悪魔の操り人形となり、自由を人権を奪われ過ごすのはもう御免だ。
それに12年前に時が止まっているのなら、そのままで居てくれ。
何故それを今更、無理矢理、動かそうとするのかは謎だ。
理香の態度に、繭子は上目遣いで睨む。
水に滲み落ち始めている濃いアイラインに縁取られた瞳が
きつく見えるのはそれは色濃い化粧のせいだったなのか、元々の顔付きなのか。
だが気にする存在にも値しない。全て悪魔の自業自得だ。
正に悪魔の表情と呼べそうで“あの頃”に連れ戻された様に見えた。
理香はそのまま、悟った微笑を浮かべる。
繭子は、歯軋り一つ。
(操り人形ですって?)
怒り。
憤り、憎しみ。
どうして揃えた様に
心菜は、理香は、佳代子に生き写しなのだろう。
「___待ちなさいよ!」
ソファーに女王様気分で座っていた繭子は、身を乗り出し床を蹴った。
思いのまま彼女の細腕に掴み引くと、理香も振り向いた。
理香の態度は平然としている。それも腹が立つ。
佳代子もそうだ、いつも凛として冷静な態度だった。
「操り人形ですって?
あれだけ、このあたしに屈辱に晒しておいて。振り返らないというの?」
「___貴女の力なんてもう要らないの。
私は、“私として”生きていける。貴女の人形で居なくてもね。
それに、私達はもう元には戻れない」
椎野理香となった時、初めて自由を手にした。
森本心菜は、自由のない鳥籠に閉じ込められた単なる悪魔のお人形だ。
自由も人権も殺された立場に戻るつもりなんて、更々ない。
「____戻らない?」
「そうよ戻らないわ。いいえ。
もう元には戻れないのよ。__貴女も、私も」
その微動もしない落ち着いた物言いと表情のせいで
佳代子にそっくりなせいか、繭子は段々、佳代子と話している気分に襲われた。
佳代子はもういないのに。
(心菜は逃げる気なのよ、やっぱり)
心の中の悪魔が囁く。
心菜は自分から逃げる気だ。逆らうつもりだ。
憎悪に阻まれ、見境が付かなくなる程の感覚。
沸々と煮えたぎる憎悪という名の怒りが、繭子の中で更に沸騰した。
思いのまま、理香を突き放す。
着き飛ばれてしまう様な勢いだった。
しかし理香はバランスを保って、数歩引き下がっただけに終わる。
「どうして」
「___……?」
繭子は、呟く。
嘆く様に、後悔する様に。
「___どうして、何もかも佳代子に似ているのよ……。
顔も姿も、何から何まで、あんたは佳代子にそっくり。
何故なの?
どうしてあたしに似ずに佳代子にばかり似ていくの?
あたしの思い通りに育ってくれないの? どうしてよ!!」
佳代子に似た顔立ちを持って
生まれたという自体、屈辱に晒されたというのに。
佳代子に似ていく度に、どれだけ憎らしかったか。
心菜は何でも身の回りの事をやるから
その見返りとして自分の従う事で、生かせてやったというのに。
この娘は何処まで強かで逆らうのだろう。自分を惨めに晒すのだろう。
繭子は、腸にある憎悪を思いのまま叫びを上げた。
「あんたなんて、産むんじゃなかった……!!」




