第103話・涙を流した回数
最後に涙を流したのは、いつだったか。
否、目の奥が熱くなるという感覚を覚えたのはいつだったか。
それらの最後は、あまりにも遠く身近に感じられない。
椎野理香になってから、そんな感覚は失せた。
涙も流した事も一度もない。他人に対し感情的になった事も、感情移入した事もない。
ただ横たわるのは、無情な冷たい心だけ。
繭子が心菜に対して、口癖の様に言っていた言葉がある。
『あんたは、人間なの? 人間味が薄いわね。
喜怒哀楽すらない、ただ強かなつまらない女。
全く可愛げがないわよ? あたしの娘だなんて信じられないわ』
そんな言葉に刃が刺さっていたけれど。
今は真逆だ。自分自身がどれだけ人間味が薄い強かな女で良い。
どれだけ冷酷非道に、滑稽に写ろうと
その方が、復讐心に感情移入し易い。
あんな感情的で欲望心丸出しの女には
なりたくはないと強く思う感情が日に日に肥大化していく。
いつか、芳久が言っていた。
『性格的には、似た者同士だと思うのは気のせいかな』
芳久は言う。
生気を無くした灰色の瞳と、端整に整った面持ちが良く映った。
そんな刹那的な青年の横顔を、理香はぼんやりと見詰めていた。
(___そうね)
とだけ思った。
生まれ育った環境も、それから絶望から這い上がり
形成された性格もなんだか似ていると親近感を覚えて仕方ない。
他者とは馴れ合いたくないけれど、この言葉には出来ない
謎の親近感を覚える青年には、煙たいと、そうは思わないのは何故だろうか。
それに
彼の正体を益々、知ってからは尚更そうだ。
付き合いが長いせい?
育った環境や、冷遇を受けたからか?
その理由は分からない。
肯定しようと口を開いた瞬間。
『………ごめん。今、言った事は忘れて』
刹那げだった青年は、表情を緩ませてそう言った。
____数時間前、理事長室。
「つまり JYUERU MORIMOTOとの提携経営を解消するんですか」
「___ああ、そうだ。JYUERU MORIMOTOのせいでプランシャホテルも風評被害を受け、バッシングの噂も流れているだろう? これは高城家にとっても、プランシャホテルにとっても傷物だ」
呼び出しを受け、英俊の口から語られたのは。
英俊も、あの森本繭子と変わらない。
自分勝手で高城家という血筋に執着を見せる。
自分を後継者に指名したものの『理事長』という玉座を譲る気は更々ないだろうに。
「成績が上がる、あのジュエリー界の女王という人物を招いたらプランシャホテルの株も上がると思ったんだがな。
どえやら無理の様だ。的外れだったな」
「___そうですか」
冷静な姿勢と面持ちを変えぬまま、芳久は答える。
確かに会社の為を考えたらJYUERU MORIMOTOとの提携経営は好ましくないだろう。
それに邪魔者を消し潰すという、容赦ないやり方をまた実行しようとしているだろう。
(___次の的は、あの社長か)
誰かに血の涙を流させるのは、この男にとっての特意義。
母や兄は無論に容赦なく血の涙を流しただろうに。
結局、母や兄は報われないまま死を遂げた。
(___自分自身は?)
疎外され、誰かの予備として育てられた自分自身は?
そう言えば涙を流した時なんて、
芳久自身の記憶には無かった気がする。
__例え流したとしても、誰も自分自身には興味すらなく、
使用人達は次男に関わるなと父から釘を刺されていたから見ないふりをしていただろう。
誰だって面倒臭い事には関わりたくはない。臭い事情には蓋をする。
何時しか、諦観しか心に横たわらなくなった自分自身は、
他者にもいつも傍観者の如く、無情で冷たい眼差しで見る事しか無くなった。
「___でだな。
森本社長とは外食しようと思っている」
「会食ですか」
「ああ、提携経営が決まった時しか会っていないからな。
一度、腹を割って話す機会があっても良いではないか」
「___そうでしょうね」
身を乗り出すのは、その場か。
排除したい物は片付ける。どんな方法論を使ったとしても。
「その場ではお前もこい。
次期理事長になる身として非常に、良い勉強になるだろう。
お前が次期理事長になる事は森本社長にも紹介する。
どうだ? 学校では教えてはくれない良い社会勉強だぞ?」
「___分かりました」
英俊は意気悠々に饒舌に語る。
それに対して芳久は、冷静に答え返した。
次期理事長として操られている立場では仕方ないだろう。
今さらこの自分勝手な男にアンチテーゼを翳した所で効果はない。
「会食の日程が決まられたら、教えて下さい」
忠実な忠犬なふりをして、
それだけ、呟いておいた。
___休日。
「もしかして、関係者の方ですか?」
「森本社長は、今、どうされているんでしょうか!?」
報道陣は、森本邸に現れた男に向かって集まる。
あっという間に男は森本邸に押し寄せた報道陣に囲まれた。
しかし用があるのは報道陣ではない、順一郎は報道陣を一切無視して森本邸のインターホンを押す。
しかし、応答はない。
何度もインターホンを押すが、応答を見せる気配はない。
相変わらず無視されていると感じた順一郎は、怒りを覚えながら
報道陣を無視して、立ち去った。
(___あの人は?)
報道陣から目の付かない場所で身を潜め、
森本邸の様子を伺っていた理香は疑問に思う。
小野 順一郎。相手は知っている。けれど、森本繭子とは無縁な筈の彼が、森本繭子に会いに来たのだ?
報道陣が家の前に居るにも関わらず、あの男は堂々と家まで来た。インターホンに映った順一郎の顔を見て、失意のどん底にいる繭子の中で目覚めたのは苛立ちと煩わしさ。
いつまで、追い続けるのだろうか。
順一郎は帰ったらしい。
眉間に皺を寄せながら、繭子は、ソファーベッドに身を投げる。
先が見えないまま、自分自身だけ追い込まれていく。
(___どうして、あたしが
こんな惨めな思いをしないといけないのよ_!)
目を背けたくなる見たくない現実に苛立ちが募る。
そんな時に、携帯端末が鳴った。
面倒臭そうに手を伸ばして、相手は公衆電話からだと気付く。
受け取らない。そう思った。
けれど、
(___心菜かもしれない)
消えた娘は、時折公衆電話を通して、電話をかけてくる。
心菜だろう。
今度こそ逃がさないと勢いで着信を受け取る。
「心菜?」
『___俺だ』
少女の澄んだ声では無く、据わった低い声。
着信を受け取った事に心底、後悔した。__相手は順一郎だった。
「どうして電話をかけて来るのよ」
『お前が会おうとしないからだろ』
「貴方と今更、会って何があるというの? さっき家まで押し掛けて来たわよね。あたしがどれだけ大変な最中に居るのか分かるでしょ」
「ああ、そうだ。でもな」
順一郎は、身を乗り出す。
電話をかけ出た彼女の言葉は娘の名前だった。
ならば、もしかして。
「お前は、娘と連絡取っているんじゃないのか?」
「……え、何を言い出すのよ、あの子は行方不明のままよ。
それにあの子を探って、貴方に何の関係があるというの」
「___心菜は、俺達の娘だろう!」
順一郎は怒る。
その瞬間、硝子が割れる音がした。
順一郎の後をこっそりと追って、四角に隠れ聞いていた理香は。
(___あの人が、私の父親………?)
驚きを隠せない。
理香は、胸を押さえて俯く。
だとすれば、自分自身は___。




