12.それぞれの思い
「妹の49日の日、どこからともなく現れたのがこの犬でした。庭の茂みに隠れていたところを見つけたとか。その瞬間、母はこの犬がナオの魂を宿していて、自分のために現世にとどまり続けてくれたんだという都合のいい夢想にとり付かれました」
荒唐無稽だと思った。
原田も呆れ顔で都合のいい夢想と断じていることから、それだけ当時の母親が常軌を逸していたということが窺える。
「はじめは、犬を娘代わりにする母に内心怯えていました。これ以上度が過ぎたらどうしようって、父もわたしもおそろしかった。でも、思いがけず嬉しい誤算が起きたんです」
ナオが家に来たことで、母は確実に正気に戻った。
お互いが何を言っているのかが伝わるようになり、無闇に感情を爆発することもなくなった。
ときどきこんがらがって前のように自分を手放してしまうことはあっても、それがいつ醒めるのだろうという先の見えない不安にはらはらしなくてよくなった。
(俺が会ったときもすこし様子はおかしかったが、一応会話は成り立ったからな)
用件を済ませることはかなわなかったけれど、それでも、あの状態ですら家族にとってはとてもつもなく大きな変化だったのだろう。
「でも、それがほんとうによかったのか、今はわからないんです」
降参したのか、しつこく擦り寄るナオちゃんを、原田はついに抱き上げた。満足したようにナオちゃんは心なしか得意げだ。
「わからない?」
「……娘の死を受け止められず、躁鬱を繰り返していたあの頃ほうが、苦しくてもまだ夢の中に浸っていられたような気がします。なにもかもを把握できる思考の中で見る世界には結局犬しかいないから。娘が犬の中にいるという思い込みに気づく瞬間ほど残酷なことなんてないと思います」
「確かにすごい落差だろうな」
だから、と原田は暗い目をして言った。
「彼女を死なせたのは、結局わたしなんです」
龍一は眉をひそめた。
「なにを言ってる」
「こいつを早い段階で彼女から引き離しておけば、本当の絶望から遠ざけておけば、あの人は記憶の中の娘にすがることをよりどころにして自分を励まして、すくなくとも自殺の選択だけは避けられたかもしれない」
「そんなのはまやかしだ。いずれ目が覚めるときは来る。そうしたら結局はこういう結果になっていたんじゃないか」
顰蹙を買うだろうかと一瞬ためらったが、龍一は思い切ってそう言った。
しかし原田は淡々と己の述懐を続けるだけだった。
「あの人はわたしを憎んでた。でもそれを表に出そうとはしなかった。夢から覚めて、またその窮屈な日々が帰ってきて、彼女はそれが耐えられなかったんだと思います」
「……本当の娘じゃない娘の世話が、ってことか?」
原田は頷いて、ナオちゃんを持ち直した。
「そうですね……たとえば、わたしが父の連れ子とかだったら、まだ事情はちがっていたのかも知れません。でも、わたしは妹なんです。幼くても、所詮妹なんです」
それなのに父はわたしと娘に優劣をつけなかった。
それが母の心に暗い闇を抱かせる引き金になったにちがいないと、原田は言う。
「娘が妹と同等に扱われていることが、彼女は気に食わなかったんです、ずっと。まして妹は病院と家の往復で両親を独り占めする機会が多かったから、余計に不憫に思った父は存分にわたしを甘やかしてくれた。あのときはそれがあたりまえで、そんなに意識はしていなかったけど、思い出してみればナオの前でも父はわたしのことをちゃんと見ていてくれたように思います。それを見て、母はきっと、病気で苦しんでるナオが軽んじられているような気がしたんでしょうね」
それまでのことを忘れ、原田を家政婦のように感じていられたうちはよかった。
でもすべてを思い出したとき、そこにいた原田を見て、彼女は思っただろう。
ナオは死んだのに、この娘はまだ世界にいて、だから"わたし"にまたこの娘の世話を焼けと言うのか。
ねえ、ナオちゃん?
返事の代わりに、毛むくじゃらの中に光る艶やかな黒目が"わたし"を見上げる。
ああ、なんて狂った世界――。
積もり積もったものが容量を超え、耐え切れずに破裂した、そうとしか思えないと、原田は悔しそうな声を絞った。
原田について一切触れなかった遺書や、あたかも彼女が帰ってきた日を見計らって計画に及んだような自殺は、彼女なりの、せめてもの復讐だったのだろうか。
原田の目の縁が赤かった。
それに気づいた途端、足がすくんだ。
今、自身がここにいることの事実にかすかな後悔の念が頭を過ぎった。
教師としての責任と、人としての良心が、怖じ気づく足をかろうじて踏みとどまらせる。
安易に他人が踏み込んではいけない、つぎはぎだらけの心を覗き見た気がした。
龍一は、あらためて原田に覆いかぶさるものの大きさを思った。
自殺なんて、結局は自分が一番悪いのに、それでもこの少女は何も出来なかった自分がどうしても許せないのだろう。あのときああしておけば、こうしておけば、そればかりが頭をめぐって出口がない。
彼女は悪くない。それは言える。
……だが、だからといってそれだけで残りの彼女に関わった人たちすべてを悪だと断じることは、非情だとは思うけれど、できなかった。
自らは原田を慰める立場にあることを自覚し、その気持ちは揺るぎないものでありながら、それでも、彼女にだけ肩入れをするという気にはどうしてもなれなかった。
なぜなら、今日に至るまでの一連の悲劇において、誰が特別悪いことをしたという決定的な感想を龍一は胸に抱けなかった。
なにしろ、誰もが当然のことをしているだけなのだから。
原田の境遇と年齢を思えば、肉親である兄に甘えるのはごくごく自然なことだ。
だがその一方で、我が子が実の妹より優遇されて何が悪いという母親の主張もわかる。
利発な父親は波風を避けようと敢えて平等を重んじ、哀れな幼い妹に我が子同然の愛情を注ぐべく誠意を尽くした。これだってとても立派なことだ。
誰も悪くない。
悪いと糾弾される人なんてひとりとしていない。
ただひとつ残念だったのは、誰もが自分の信念を曲げられなかったことだろう。
兄の愛情に対する、子供だからこその無関心。
我が子が一番という執着。
大事なものを守りたいというただそれだけの一途な願い。
その三つを、詮無くとも、誰がもっとも身勝手だったかを比べたとき、原田はきっと、自分がもっと賢かったら、慎み深い子供だったら、心を壊すまで母に追い詰めることもなかったと考えているにちがいない。
……こんな言葉ではとても慰めになんかならないけれど、この一家に起きた悲劇はただ、ひとえに運がなかった。
原田がふと思い出したように腕時計を見た。