10.違和感の答え
薄い肩がかすかにふるえたかと思うと、かろうじて意識の宿った眼差しが龍一をのぞいた。
「ああ……来てくださってたんですか」
ありがとうございます、と原田は蚊の鳴くような声で言って、頭を下げた。
「大変だったな」
原田は龍一を見上げ、何かを言いかけて、足首に擦り寄るナオちゃんに視線を落とした。
「……母親代わりがいなくなったから」
うんざりするような口ぶりだった。
原田は軽く足を引いて犬を遠ざけようとする。それでもめげずに抱っこをせがんで足元をうろちょろするナオちゃんを、いよいよ押しのけるように邪険に扱った。
「大丈夫か?」
「……はい?」
「だから、おまえ」
龍一の問いかけに対し、原田の答えはすごくありきたりなものだった。
「別に」
言下に、かまうな、との拒絶が読み取れて、龍一は続く言葉に窮した。
だがそうするうち、どういう心境の変化か、代わりに原田がぽつりぽつりと自らの思いを語り始めた。
「いつか、こんなことになるような予感はしてました。でも、これほど早く逝っちゃうなんて……」
「原田」
見上げた彼女の双眸は赤かった。
「きっと、あの人は、わたしが感じてた以上に、わたしのことを憎んでた」
割れた声でそう言って、原田は涙を堪えようとしてか、あるいは、そこにいるはずの母親を探そうとしてか、おもむろに空を見上げた。
地上はまだまだ蜃気楼が見えるほどの暑さだけれど、あらためて見る空の色は、真夏の目が覚めるような青が和らいで、春の麗らかなそれに似ながら、秋らしい寂寥を孕んでいる。
ふと、血の気の乏しい唇からため息がこぼれた。
子供らしくない、幾重にも苦渋を折りたたんだような吐息が、いきなり二人の見ている世界から色を奪う。
やがて原田の表情がひときわおおきく歪んだかと思うと、耐え切れなくなったように顔を覆って手すりに突っ伏した。
押し殺した嗚咽が耳に痛い。
彼女が俺の前で感情を剥き出しにしたのは三人の男子生徒に悪絡みされたとき以来、二度目だった。
あのときは彼女の逆鱗に触れたからだが、今のこの姿はそれとはちがう。
表面的な怒りではなくて、もっとこう、彼女の心の深淵に由来する切実な気配がそこにはあった。
そしてそれは一度ならず二度までも龍一の胸に芽生えた、奇妙な違和感とも関係がある気がしてならなかった。
(……憎んでた、って、なんだ)
それまでの、度重なる悲運と不幸で押しつぶされそうだった原田を単純に可哀想だと思い、憐れんできたのとはなんだか事情が変わってきた……ように思えるのは、俺の気のせいなのか。
けれど……。
憎む、という穏やかじゃない言葉。
(それに、”あの人”って……)
例外を除けば、およそ母親に対して使う表現ではない。
たとえば俺みたいな、父親が後妻をもらったとか、そういう場合じゃない限りは。
でも彼女はそうじゃない。
そうじゃない、よな……。
言ってもわたし、代理だからさ、そういう意味でもあんまし長居するべきじゃないんだわ
さきほど真裕子が自分を代理だと言ったことも気にかかる。彼女こそ、仏さんの唯一無二の友人のはずなのに。代理と言う意味がわからない。
なにか、俺の中で、大きなかけ違いが起きている気がする。
「なんでそう思う? 俺が会いに行ったとき、お母さんはおまえを褒めてたぞ。妹思いでしっかり者でって。憎らしいより、むしろ誇らしそうだったけどな」
原田は首をもたげ、気だるそうに龍一に目を向けた。
「……母に、会ったんですか?」
「ああ。電話してもつながらなかったから、直接家に行ったんだ」
「母はちゃんと聞いたことに答えてくれましたか?」
そのときの龍一の困惑が娘の彼女には手に取るようにわかるのだろう、労わるように原田は訊いた。
「いや、結局聞けなかった。だから夜になってから、あらためて今度はお父さんを当てにして電話をかけたんだ。そしたらペンションにいるって言われて。そうそう、あそこ、お母さんの友だちがやってるんだってな。さっき会ったけど、あの真裕子って人、あいかわらず肝っ玉でかいよな。あの中越先生に啖呵切るなんて、なかなか出来ることじゃない」
「真裕子さんは母の友だちなんかじゃないですよ」
淡々とした声で原田は言った。
しかし龍一は、やはりそうか、という思いが先に立ち、それほど驚くことはなかった。だが、それと理解とは別の話だ。
「でも、おまえのお父さんは、たしかにお母さんの友だちのって」
すると原田は、ああ、と得心したように頷いた。
「それは、わたしが、彼女の本当の娘ではないから」
原田はまたしても感情の読めない口調でさらりと言いにくいことを告白した。
真裕子が言った、彼女の遺書に原田のことについて一切触れていなかったという事実が、ずしんと胸に落ちてきた。
「おまえもそうなのか?」
思わず龍一は訊いていた。
これに、原田は眉をひそめた。
「おまえも……?」
龍一ははっとして口をつぐんだ。
だが今さら遅いと、腹を括る。
情けない顔をぶらさげて、龍一は唇を引き結んだまま田んぼへと視線を落とした。
「……おまえばっか言いたくないことを話すのはフェアじゃないから俺も言うけど、俺の母親も実は後妻なんだ。つっても、生みの母は俺を産んでまもなく行方をくらましたんで、離婚が成立してないから、正式にはちがうんだけど」
俺には生みの母親の記憶がない。
物心ついてからもしばらくは父親が男手ひとつで兄貴と俺を育ててくれた。男だけでの生活が馴染んでいたせいか、小学生のとき父親がはじめて家に連れてきて、やがて家庭の人となった女の人のことを、俺はいまだに面と向かってお袋と呼べずにいる。
あの人なんて表現は、そういう、心の隔たりがある人のことを指す場合だけなのだ。
「おまえも、前のお母さんの子供なのか?」
訊くと、原田はすこし言いにくそうに半ば目を伏せた。
「母は後妻ではありません」
「え」
「正確には、父も、わたしの父ではありません」
思案するほどの時間はかからなかった。
「ということは、なんだ……? おまえは、養子なのか」
両親が違うということから結びつくものといえば。
原田は暫し逡巡するように押し黙り、やがて首を横に振った。
「苗字が一緒なのでわからないと思うんですけど、わたしは父の――今日の喪主の、実の妹です」
「えっ!」
目を剥く龍一に、原田はほろ苦く笑いながら頷いた。




