9.輝きと狂気
その日、帝都の裏社会に、前代未聞の激震が走った。
湿り気を含んだ夜気と共に、街の地下街や密売所、無法者たちの集う酒場へと、波紋のように恐るべき噂話が広がっていく。
「おい、聞いたか……? あのロン・プエルトが殺されたそうだ」
「ああ、間違いない。顔役たちが今、総出で事実確認に追われてる……それも、人間の仕業とは思えない、凄惨で残虐な有様だったらしい」
「……俺も聞いたぜ。殺されただけならまだしも、その死体を、あろうことか敵対する『グレイブ一家』の拠点真っ正面に投げ捨てていったってな」
「しかも……喉元からぶち千切られた首と胴体が、無残にも泣き別れた状態で、だろ?」
「ひっ、マジかよ……! 一体どこのどいつの仕業なんだ?」
「分からねぇ。だが噂じゃあ、何処からか"バケモノ"がこの帝都に流れ着いたって話だ……」
「しかしロン・プエルトといえば、この世界でも指折りの慎重派だぞ。表舞台には一切顔を出さず、厳重な護衛に守られた邸宅に引き籠もっていたはずだ。顔を知る者すら殆どいねぇ」
「ああ、そこだよ。なんでも、回収されたロンの死体は……安物の執事服を着ていたそうだ」
「なんだと……!? じゃあ何か、奴は邸宅の中に潜みながら、執事に化けて身を隠していたってことか?」
「そういうことだ。身内すら信用せず、徹底的な潜伏工作……恐ろしいまでの執念だぜ」
「なのに……殺されたってのか? 外部からの侵入を許し、完璧な変装を見破られ、それを——ものの数秒で、家畜みたいに解体されたっていうのか……!?」
「……さらに恐ろしいのは、なぜ奴の遺体をグレイブ一家の目と鼻の先に晒したのか? だ」
「そりゃお前……『次はお前らの番だ』っていう、言葉なきメッセージ、だろ」
「おいおい……まるで"正義の執行人"気取りかよ……」
「バカッ! 声が大きい! どこで噂の怪物が耳を澄ませてるか分かったもんじゃねえぞ! 下手な口を叩いてみろ、お前も明日の朝には、『こう』だぞ」
「や、やめろよ! 冗談に聞こえねぇんだよ……!」
「とにかく……この街も、きな臭くて……とびきり、楽しくなるぜ!」
「ハッ……違えねぇ!」
暗闇のあちこちで戦慄と野心が渦巻き、恐ろしい「正体不明の暗殺者」の恐怖が肥大化していく。
✢
……そして、そんな裏社会の大激震など、知る由もない当の本人はと言えば。
ガクガクガクガク……ブルブルブルブル……ッ!!
朝の柔らかい日差しが差し込む宿屋の二階。
ルイスはベッドの上でシーツを頭からすっぽりと被り、生まれたての子鹿のように小刻みに身を震わせていた。
(ゆ、夢だよね……!? 昨日の夜起こったこと、全部、盛大な悪夢だよねッ!??)
恐る恐るシーツの隙間から顔を出すと、ベッド脇の床には安酒の空き瓶が、二本転がっていた。
その現実の残骸を目にした瞬間、ルイスの脳内で超高速のポジティブ変換回路が駆動する。
「う、うん! そうだよそうだよ! 根が優しくて有名な僕が、人殺しなんて恐ろしいことするわけないじゃないか〜! そうそう、ちょっと酒の勢いで酷い悪夢を見ただけ! アハっ、アハハハっ!!」
自分に都合の良すぎる現実逃避にすがりつき、引き攣った笑顔を浮かべる。
その時である。
――コンコンコン。
「ひゃいっ!?」
軽やかなノックの音が部屋に響き、ルイスの跳び上がった身体が天井に激突しかけた。
慌ててベッドから滑り落ち、高速の匍匐前進でドアまで這っていくと、数十センチだけ開ける。
「あ、あのぅ……ルイスさん。朝食のご用意ができました……けど。まだ、お休みでしたか……?」
隙間から覗いたのは、リリィだった。
シーツを身にまとったまま床に這いつくばり、青ざめた顔で目だけをギョロつかせているルイスを、彼女は明らかな不審物を見る目で見つめている。
「い、いやいやいやいや全然ッ! うん、すぐ行く、一瞬で行くからちょっと待っててね!?」
「……はい。下でお待ちしております……」
パタン、とドアが閉じられ、リリィの不安そうな足音が遠ざかっていくのを確認した瞬間。ルイスは床に頭を打ち付けた。
「……いや、だけどさぁ……。……うん、すっごく鮮明に、記憶残ってるんだよなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ダメだった。
現実逃避の防壁は一瞬で崩壊した。
(コレ絶対にヤバい! 社会的にも倫理的にも終わってるって! そもそも狙う相手を間違えて無関係な執事さん殺しちゃってるし、パニックで首と胴体引きちぎって屋根から落としたし! え……っ!? 僕の人生、これからどうなっちゃうの……!?)
――かつて読んだ、冒険活劇や悪党伝のページが脳裏を駆け巡る。
それは、各地を転々としながら強盗や殺戮の限りを尽くした『ならず者集団』の惨烈な逃走劇だった。
酒、女、略奪、そして殺し——あらゆる不徳を重ねた悪党たちの最期。
彼らは最終的に数百人の憲兵隊に包囲され、身体中に数十本の矢を叩き込まれてハリネズミのような姿で絶命したのだ。
……物語の読者としては、悪徳の限りを尽くした主人公が悲惨な末路を迎えるラストシーンに、一種のカタルシスを感じたものだ。
だが、自分がその悲劇の主人公になるのは真っ平御免である!!
「嫌だ嫌だ嫌だ! ハリネズミになりたくないよおぉぉぉ!」
ベッドの上でゴロゴロゴロゴロと狂ったように悶え転がるルイス。だが、いくら身悶えしたところで、シーツにしわが増えるばかりで現状は一ミリも好転しない。
さんざん暴れ回って汗だくになり、ゼェゼェと荒い呼吸を吐き出したルイスは、不意にピタリと動きを止めた。
「よし。とりあえず……メシだ」
どこまでも図太く、危機感のタガが外れた楽観主義。それがルイスという男の生存本能であった。
着替えを済ませ、ギシギシと鳴る階段を下りながら、ルイスは真剣な表情で思案を重ねる。
(とにかく、まずはギルドに行ってギルマスのヴィクターさんに正直に話そう。間違えて執事さんを殺して首まで落としちゃいましたって、素直に謝れば……うん、きっと怒られるだけで済むはず!)
人は正直が一番だ(それなら真っ先に憲兵隊に自首しろという話だが)。
そう自分を納得させると、彼は食堂のテーブルへと着席した。
目の前に運ばれてきたのは、焼きたての温かな白パンと、湯気を立てる野菜スープ。
白パンを一口千切り、口へと運ぶ。香ばしい麦の香りと優しい甘みが広がると、胸の奥に吹き溜まっていた重苦しい不安が、少しずつ湯気のように溶けていく気がした。
だが——。
「……ん?」
スープを木製スプーンですくい、口に含んだルイスの首が傾く。
今日のスープは、妙にピリピリとした刺激があり、独特の強い酸味が舌を刺した。
明らかに何かがおかしい。
食材が傷んでいるのか、あるいは……。
(この味……故郷の深山に生えてる、あの赤黒キノコを食べた時の味にそっくりだぞ……?)
赤黒キノコといえば、噛んだ瞬間に舌が痺れ、翌日にはお腹を壊して悶絶する危険なシロモノだ。
これを一生懸命作ってくれたリリィに直接「食材が傷んでるよ」と伝えるのは、あまりにも忍びない。それは年上の男としての気遣いであり、優しさというものだ。
しかし、ここは宿屋である。
もしこのスープが他のお客さんにも提供されれば、食中毒騒動に発展し、この宿の評判に致命的な傷がついてしまうかもしれない。
葛藤の末、ルイスは意を決した。なるべく角を立てず、リリィの繊細な傷つきやすい心を配慮した『紳士的な表現』を慎重に選ぶ。
「あのね、リリィちゃん 今日のスープもすっごく美味しいんだけどね! もしかしたら、ちょっとだけ……人によっては好みが激しく分かれるお味かも……! あ、でも僕は好きだよ! 本当に大好きな味だからねっ!?」
精一杯の爽やかな笑顔を添えてそう伝えると、リリィは手に持ったおたまを握りしめたまま、引き攣った複雑な表情でルイスを見つめ返してきた。
(うーん……まずったかな……。やっぱり田舎者の僕には、都会的で洗練された紳士のエチケットはハードルが高すぎたか……)
だが、残すのは作ってくれた人への不敬にあたる。ルイスは舌の痺れを根性で耐え抜き、スープを最後の一滴までキレイに完食した。
「ごちそうさまでした〜! 美味しかったよ!」
席を立ち、ギルドへ出かけようとするルイスの背中に、リリィがおずおずと声をかけてくる。
「は、はい……そ、その……ルイスさん。……なんとも、ないんですか?」
「え? 何が?」
不思議そうに首をかしげるルイスに、リリィは言葉を詰まらせ、どこか恐怖すら孕んだ瞳で引きつりながら首を振った。
「い、いえ……なんでも、ありません…………」
(うーん……やっぱり都会の女の子の心は複雑で難しいなぁ……)
頓ちんかんな感想を抱きつつ、ルイスは宿を出た。
朝の光が射し込む大通りを抜け、あの薄暗く不気味な暗殺者ギルドの扉をくぐる。
重苦しい空気の中、カウンターの奥で待っていたのは、ギルドマスターのヴィクター・アダムスだった。
ルイスは意を決し、「実は執事を殺してしまいまして……」と謝罪の言葉を口にしようとした——その瞬間。
「ルイス君……」
ヴィクターが重々しいトーンで口を開いた。その厳格な瞳には、これまでにない深い感銘と、恐れすら交じった眼差しが宿っている。
「どうやら私は、君という男を見くびっていたようだ。無礼を許してほしい……」
「……へ?」
ポカンと口を開けるルイスの前で、ヴィクターはズシリと重そうな麻袋をカウンターの上にドチャリと置いた。
結ばれた麻縄の隙間からチラリと覗くのは、眩いばかりの純金の輝き——つまり、大量の金貨だった。
「これが、今回の依頼に対する『特例報酬』だ。受け取り給え。……素晴らしい仕事だったよ。また、次も頼む」
(え? ええっ? えええぇぇぇッ!?!?)
ルイスの思考回路は完全にフリーズした。
なぜ?!
どうして??
依頼を完全に失敗し、ターゲットを間違えて無関係な執事のおっさんを殺し、おまけに首まで引きちぎって投げ落としたはずなのに。
なぜか信じられないほど絶賛され、目の前には見たこともない山盛りの金貨が積まれている。
世界がどんな狂気に巻き込まれているのか、ルイスにはさっぱり理解が追いつかないのだった。




