10.影に蠢く
暗殺者ギルドの薄暗いカウンターの奥で、ギルドマスターのヴィクター・アダムスは一人、静かに銀食器を磨き上げていた。
乾いたクロスを滑らせ、一本の細身なナイフの刃先を見つめる。鏡のように研ぎ澄まされた鋼の表面には、己の濁った双眸と、かつて死線を潜り抜けた証である頬の古傷が歪んで映り込んでいた。
ふと、カウンター裏に設けられた換気用の小さな高窓から、かすかな気配が滑り込んでくる。
ヴィクターは視線だけを動かし、その細長い窓枠を軽く押し開けた。
姿は見えない。だが、裏路地の壁に背を預けて立っているであろう人物の正体を、彼は正確に把握していた。
「リリィか……」
声を低く滑らせると、窓の向こうから苦々しさを隠しきれない少女の声が返ってきた。
「ねぇ……あの新入り、一体、何者なのよ……」
吐き捨てるような言葉の端々には、言い知れぬ警戒と、どこか不快感に満ちた慄きが滲んでいた。
「さあな。私にも分からん。今までどこで、何をしてきたのか……そして……」
「何人殺してきたのか? ……でしょ?」
ヴィクターの言葉を途中で引き継ぎ、リリィが低く溜息をつく。
顔を合わせぬまま、薄暗い小窓を挟んで交わされる暗殺者たちの密談。
ヴィクターは軽く肩をすくめると、手元で輝くナイフを引き出しへと収めた。
整然と並べられた無数の銀食器は、彼の偏執的とも言える神経質さと完璧主義を物語っている。
「まあ、どこから流れてきたのかは知れんが、腕が良い者は大歓迎だ。我がギルドも漏れなく、深刻な人手不足だからね……」
「はぁ!? だったら私にもっとマシな仕事を回しなさいよ!」
「割の良い依頼ばかりを選り好みしなければ、いくらでも君に任せたい仕事はあるんだよ」
「……ふんっ」
不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえる。ヴィクターは薄く口角を上げた。
「それに彼は、現時点での最高難易度——指名手配中の重要ターゲットの抹殺を、たった一晩で完璧に達成してみせた。……君が『リスクが高すぎる』と突っぱねた仕事だよ」
「知ってるわよ! なんなのよアイツは……! 一体どうやってあの警戒網を突破したっていうのよ……!」
裏社会に君臨するロン・プエルトの抹殺。
影武者を立て、顔すら知られぬよう厳重に張り巡らされた防壁の中に引き籠もっていた大物を、あのルイスという男は軽々と仕留めてみせたのだ。
それどころか、敵対するグレイブ一家の本部前にその遺体を投げ捨てるという、依頼人の意図すら汲み取ったような極上の"アフター・サービス"まで添えて。
「おかげで、依頼人も大変ご満悦の様子だったよ」
ヴィクターの声に、心底楽しげな響きが混じる。
「ちょっと、依頼人に関するお喋りはルール違反でしょ。ギルマスが破ってどうすんのよ」
「おっと……私としたことが失念していたよ。軽率だったね」
肩をすくめて冗談めかすが、互いの空気は冷ややかだ。
暗殺者ギルドにおける絶対不可侵の鉄の掟——『依頼主に関するあらゆる情報を探ってはならない』。帝国高官から他国の暗部までが顧客に名を連ねる以上、この沈黙こそがギルドの生存戦略なのだ。
「で? もうあのバカのテストは終了でいいの?」
「ああ。だが……監視は継続してくれ。できる限り、ね」
「チッ……面倒くさいわね。アイツ、朝から私の正体に気づいてるくせに『スープの味が〜』とか言ってからかってくる性悪なのよ。仕込んだ毒の味を見破っておいて、毒耐性まであるなんて聞いてない! 本当に嫌な奴ッ! さっさと出ていってくれないかしら……」
「まあそう言わずに。これも依頼だよ……私個人からのね」
「……ふんっ。ちゃんと色をつけて払いなさいよ」
短く言い捨てると、気配は風が抜けるように消え去った。
取り残されたヴィクターは、カウンターの陰から一本の細身のアイスピックを手に取った。
一瞬の溜めもなく、手首のスナップだけで投擲。
カ……ッ!
数メートル先の太い木柱に深々と鋭利な先端が突き刺さる。
そこには、標本のように留められた一匹の蛾が蠢いていた。
ヴィクターはゆっくりと歩み寄り、冷酷な手つきでアイスピックを引き抜く。
針の先で悶えるように羽を震わせる羽虫を、彼は冷ややかな双眸で見つめ続けた。
やがて虫の動きが完全に止まると、薄い唇が恍惚とした笑みに歪む。
「いやぁ……しばらくこの帝都も退屈でしたが。これは実に、面白いことになりそうですねぇ……」
指先で虫の死骸を摘み上げると、一切の感情を捨て去った瞳で、そっとゴミ箱の闇へと投げ捨てた。
✢
……一方その頃。
新たな怪物としてギルド内部で恐れられているルイスはと言えば。
「えっ! その高級鋼のナイフ、金貨たったの一枚でいいんですか!? うわ〜どうしようかなぁ……! うん、買います! それください!」
「へへっ、お兄さん景気がいいねぇ! まとめて買ってくれるなら、この砥石もオマケしちゃうよ!」
「本当ですか!? いやー、ちょっと臨時収入がありましてね! エヘっ、エヘヘヘっ!!」
露店がひしめき合い、活気に満ちあふれた商業区の通りで、ルイスはホクホク顔で一人ショッピングを満喫していた。
自重を捨て去り、物欲解放で買い漁った結果、彼の背嚢の隙間からは、買い込んだばかりの短剣や各種ナイフの柄がジャラジャラと何本も飛び出していた。
すれ違う通行人たちが、
「あいつ、なんだ? 白昼堂々、武器を山のように買い込んで……」
「冒険者? いや、まさか傭兵か? この帝都が戦場になるとでも……」
と、青ざめた顔で道を譲っていることなど、当の本人は微塵も気づいていない。
「やっぱり、お金があると買い物が楽しいなぁ〜!」
手に入れた大金に目を輝かせ、無邪気な笑顔で次の露店へと歩いていくルイスを、帝都の曇り空だけが穏やかに包み込んでいた。




