28.ルイスの新たな苦悩
その日から、ルイスを取り巻く日常は劇的な変化を遂げていた。
始まりは、肉屋のドルテオが営む屋台の前に立ち寄った時のことだ。
煙とともに立ち上る香ばしい脂の匂いに包まれ、焼き上げられた肉串を幸福感たっぷりに頬張っていたルイスの隣に、影が落ちた。
「よう、新入り。実は……この前の仕事で、少しヘマをやらかしたかもしれねぇんだ」
声の主に目を向ければ、それは暗殺者ギルドの奥にある薄暗いテーブルを、いつも殺伐とした空気で占拠している大男だった。
強面をさらに歪ませた男は、周囲を警戒するように声をひそめる。
「とある禁忌の薬物取引に手を染めた大商会の会計係を仕留めたんだが……現場に毒の小瓶を落としてきたかもしれねぇ。頼む、それとなく……あの女騎士から捜査の進展具合を聞き出してはくれないか?」
――またある時は、
宿の自室で至福の刻を過ごしている最中だった。
ずらりと並べた自慢のナイフコレクションを、今にも涎が零れ落ちそうなほどのうっとりとした眼差しで見つめていた、その時である。
コンコンコン……。
静かな室内に、控えめなノック音が響いた。
首をかしげながら窓を開けると、そこには夜の闇と同化した黒ずくめの男が、蜘蛛のように外壁へ張り付いていた。
顔の下半分は布で覆われているものの、やたらとギョロついた目元には見覚えがある。
一度も言葉を交わしたことはないが、間違いなくギルドに所属する同業者の一人だ。
「……急な訪問を許してほしい。実は今度、南街区での仕事を請け負うことになってな。あの街を束ねる騎士団の巡回警備ルートについて、情報を仕入れられないだろうか?」
誰も彼もが、ルイスのことを「あの凛々しい女騎士を素早く手籠めにし、憲兵騎士団の機密情報を自在に引き出す恐るべき窓口」だと盛大に勘違いしているようだった。
――さらに別のある夜。
募る焦燥感を誤魔化そうと、ルイスはギルド酒場の隅にあるカウンターでぼんやりとグラスを傾けていた。
すると隣の丸椅子に、ドサリと誰かが腰掛けた。
視線を向けると、そこにいたのは視線の置き場に困るほど露出度の高い衣装を身にまとった、褐色肌の美しい女性だった。
彼女は憂いを帯びた瞳でルイスを見つめると、吐息が耳かすめるほどの距離まで顔を寄せて囁いてきた。
「ねぇ、少し相談に乗ってくれないかしら? 私……好きな人ができてしまったの。でもその人は表の世界で生きるまともな人間。こんな裏稼業の血に塗れた私が、恋をしていい相手じゃないって分かってはいるのだけれど……あなたはどう思う?」
まさかの、切実な恋愛相談である。
あの女騎士を瞬く間にオトしたルイスなら、さぞや恋愛の駆け引きにおいても希代の策士に違いない――そんな思い込みが生んだ悲劇だった。
(そんな甘酸っぱい悩み、僕の方が教えてほしいくらいなんだけど……!)
胸中で叫びつつも、ルイスは必死に顔を作り、真剣そのものといった表情で深く頷いてみせた。
「ふむふむ!」
「分かります、分かります」
「いや、本当そうです!」
などと、大仰に相槌を打ち続けていると。最後には彼女は憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔を浮かべ、お礼にと上等な酒をご馳走してくれたのだった。
(確かに……爺ちゃんが言っていた通り、女心というものは複雑怪奇なのかもしれない)
ルイスは静かに己の認識を改めた。
ともあれ、ギルド内で気やすく声をかけてくれる同業者が増えたこと自体は、暗殺者としての生存率を高める上でも僥倖と言えるだろう。
――だが、ルイスにはもうひとつ、夜も眠れなくなるほどの切実な悩みが芽生えていた。
草木も眠る丑三つ時。
自室に戻ったルイスは、ベッドの上で胡座をかいたまま、腕を組み、ウンウンと唸り声を上げていた。
「リリィちゃんにプレゼントするつもりで買ったのに……ロザーナさんにも渡したくなっちゃった……」
目の前のシーツの上には、先日ユーリー氏の店で購入したばかりの二振りのナイフが、月光を浴びて妖しい銀色の輝きを放っている(もっとも彼はこれを『最高にスタイリッシュな最新型キッチンツール』だと信じて疑っていないのだが)。
「う〜ん、どっちを誰にあげようかなぁ〜?」
まだ可憐な幼さを残す、野に咲く一輪の花のようなリリィ。
一方で、気高く凛とした美しさを纏う、氷の刃のような女騎士ロザーナ。
「どっちにしようかなぁ〜……?」
首をユラユラと左右に揺らしながら吟味していたその時、ルイスの脳内に電撃が走った。
「ハッ……!??!?」
カッと目を見開き、己の軽薄な思考に気づいて顔面を蒼白にする。
「何が『どっちにしようかなぁ』だよっ!!? これじゃまるで、僕が二人の女性を天秤にかけてる優柔不断なゲス野郎みたいじゃないかッ!!?」
事実、足の指先どころか膝のあたりまでその泥沼に踏み込んでいたのだが、根が硬派な冒険者像に強い憧れを抱くルイスにとって、その事態は自尊心が砕け散るほどの非常事態だった。
(ダメだダメだダメだ! 昔読んだ大衆小説の中にもいたじゃないか! 二股をかけた挙句にヒロインの恨みを買い、最終的に首を刈り取られて死んだ最低なクズ主人公がっ!!)
脳裏に鮮明に蘇る、愛憎劇の凄惨なクライマックス。欲望のままに生きた結果、惨めな末路を辿った男の断末魔。
「うわぁぁぁぁ〜〜〜っ! 首チョンパだけはイヤだぁぁぁ〜〜〜っ!!」
耐えきれなくなったルイスは、ベッドの上で髪を振り乱しながらゴロゴロとのたうち回った。
だが――ふと、ピタリと動きを止める。
「……いや。待てよ?」
天井を仰ぎ見つめながら、冷静な思考を取り戻していく。
「そもそも僕、リリィちゃんともロザーナさんとも、お付き合いなんてしてないよね……? 単なるお友達として、日頃の感謝を込めてプレゼントを贈るだけなら、何ひとつ不自然なことなんてないのでは……?」
過剰な妄想力が暴走し、勝手に脳内で悲劇のドラマを構築していただけだったのだ。
現実の客観的な立ち位置を直視した瞬間、急激な恥ずかしさが押し寄せてきて顔が熱くなる。
「んん〜……でも、強いて言うなら、一歩リードしているのはロザーナさんなのかな……」
数日前、彼女と過ごした穏やかで満たされたひとときを思い返す。同じ『読書』という高尚な趣味を共有する者同士、心の距離が急速に縮まっているのは揺るぎない事実だ。
「いやいやいやいや!! だけど僕の本業は暗殺者で、ロザーナさんは僕らを捕まえる側の憲兵騎士なんだよぉぉぉぉぉ!!!」
あまりの立場の障壁と感情の混ざり合いに、再びベッドの上でゴロゴロゴロゴロ……と身悶えを始める。
ちなみにその頃、真下の部屋で寝ていたリリィは、天井から響く絶え間ないドタバタ音に、
(チッ……何やってんだよあのバカは! 早く寝ろよッ!!)
と、青筋を立てて枕を固く握りしめ、猛烈にブチ切れていた。
そんな階下の殺意など知る由もないルイスは、激しい苦悶の末にようやくひとつの結論に達した。
「よしっ! この柄にリングがついているお洒落な方をロザーナさんに。こっちの刃先がシュッとしたスタイリッシュな方をリリィちゃんに贈ろう!」
見事な(?)折衷案に着地したルイス。
自分の未来がこれからどう転んでいくかは分からないが、とりあえず「大切なお友達」として受け取ってくれれば、二人とも喜んでくれるに違いない。
持ち前の都合の良い楽観主義が再びエンジンをふかし始め、胸のつかえが取れたルイスは――
寝た。




