1.新たな旅立ち
「……まさかこの儂が、一本とられる日が来るとはな」
左腕に残る激しい痺れを散らし、木剣を握ったまま土の上に胡座をかいた老人が、「へッ」と短く吐き捨てた。
「え、えぇ?! やった……ついに、やったぞ――っ!」
ルイスは、自分の手にある木剣を信じられない面持ちで見つめていた。手のひらには鈍い衝撃の余韻が残り、汗で滑りそうな柄の感触が、これが夢ではないと雄弁に物語っている。
「ふんっ……約束は、約束だ。もう、好きにせい!」
老人は億劫そうに「やれやれ」と頭を振ると、膝の土を乱暴に払い、のそりと立ち上がった。
「やったー! 僕は! 僕は、ついに、ついに……冒険者になるぞぉぉぉぉっ!」
夕暮れの静かな開拓村に、ルイスの歓喜の雄叫びがこだました。
ルイス、二十歳。
王国の最果てに位置するこの寂れた寒村で、祖父と二人きりで生きてきた。
両親の記憶はないが、それを寂しいと思ったことすら一度もない。物心ついた頃から、朝は小さな畑を耕し、昼は祖父に連れられて鬱蒼とした深い森へ潜り、鹿や熊を狩って生計を立てていた。祖父は言葉数こそ少なかったが、山での歩き方、気配の消し方、そして生きるためのあらゆる「知恵」をルイスに叩き込んでくれた。
そして、もう一つ。
鬱積した田舎暮らしの中で、ルイスの心を唯一支配し続けた没頭の対象があった。
――読書である。
お世辞にも裕福とは言えない木造の小さな我が家には、なぜか寒村の民には不釣り合いなほど、重厚で膨大な蔵書がズラリと並んでいたのだ。
幼い日に紐解いた、革装丁の古い英雄譚。
冒険者ギルドの門を叩き、恐ろしいゴブリンを退治し、未踏のダンジョンで財宝を掘り当て、最後には漆黒のドラゴンを倒してお姫様を救い出す――。
そんな少年特有の子供めいたおとぎ話の夢は、二十歳の青年に成長した今になっても、なにひとつ色褪せることなく胸の奥で燃え滾っていた。
そして、まさに今日。
長年、一度たりとも掠めることすら叶わなかった「壁」――祖父との模擬戦で、ついに一太刀を報いることができたのだ。
『もし、儂に一太刀でもあてられたら、村を出ていくことを許す』
あの日交わした約束。
実に十年という歳月を費やしてしまったが、ルイスは今日、ついに憧れの未来への第一歩をその手で掴み取ったのだ。
「勝手にしろ……」
背中をまるめ、ぽつりと吐き捨てた祖父は、足早に小さな我が家へと消えていく。
ルイスは、いつの間にか小さくなっていた、しかし誰よりも頼もしかった祖父の後姿に、深く、感謝を込めて頭を下げた。
そして――満を持して、振り返る。
村の外へとまっすぐに伸びる一本の街道。暮れなずむ空の下、東の地平線を見上げ、ルイスは力強く拳を握りしめた。
「待ってろよ、王都……! 僕は、冒険者になるんだぁぁぁぁ……!」
夕日に向かい、希望に満ち溢れるルイスの脇を、ギシギシと音を立てて牛車が通り過ぎていく。
御者台に乗った村人が、いつもの「また始まったか」と言いたげな呆れ顔を向けていた。
そこへ、野良仕事を終えた農民がクワを担いで近づいてくる。
「おい、ルイスの奴、また何か叫んでんぞ?」
「ああ。なんか知んねえが、西を向いて『王都』がどうたらって息巻いてただ」
「まーた始まったか〜。相変わらず間抜けだなぁ。王都は『東』だべ? あっちさ行ったら、国境越えて『帝国』に入っちまうべ?」
「まったくだ。いつも通りバカなんだなぁ。だれか教えてやれよ~」
呆れ笑いを交わしながら、夕闇の中へ消えていく村人たちの会話。
だが、胸に無限の希望を宿し、キラキラと輝く純粋な瞳で遥かなる未来を見つめるルイスの耳には――その身も蓋もない真実の会話は、なにひとつ届いていなかった。




