第70話_教科書の外
発進の直前、〇・五秒の取り決めをした。
「本日の上限——深度二」とλが言った。
「二で、この敵に足りるか」
「足りさせます。代替案は、三つ、持っています」
約束の初運用だった。数日前の夜に決めた、二人で深さを決める運用。上限の内側で戦う、という規律は、上限の外がずっと見えている戦場では、思ったより重い荷物だった。
深度二の目で、穴を追う。追えるが、詰め切る前に十八秒が来て、敵の避け方が変わる。三度目の空振りの後、入口が視界の端で口を開けた。三で潜れば、干渉で機構ごと止められる。十八秒の学習より、干渉の方が速い。
「上限、維持」とλの声が来た。俺が言う前に、来た。俺が言う前に来る、ということは、λには入口の開く音まで聞こえているらしかった。
「深度三なら三十秒で終わります。それは、事実です」とλは続けた。「事実の隣に、別の事実を置きます。——三十秒の後、あなたは何かを、また失うかもしれません。今日の敵は、三十秒を買うために失っていい相手では、ありません」
買い物の値段の話だった。値段の話をされると、俺の頭は静かになる。λは俺の頭の静め方を、正確に知っていた。
「代替案の一つ目を使います。——シドさん。三号弾の弾道データを、わたしに」
『……嬢ちゃんに? いいが、何に使う』
「彼らはあなたの癖を学んでいます。なら、あなたの癖で、噓をつきます。三号弾の軌道をわたしが再現し、囮の射線を三本、引きます。本物は——彼らの教科書に、載っていない場所から」
学習する敵に、教科書の外を撃つ。あの偽装戦で二人で作った型が、今日は、隊の規模に広がっていく。
「代替案の二つ目も、使います」とλが続けた。「彼らの更新は十八秒周期。周期の直後が、一番賢く、直前が、一番古い。——攻めは、更新の十五秒後から三秒間に集中してください。彼らの教科書が、一番古びる三秒です」
賢くなる瞬間を避け、古びる瞬間を叩く。深度三の力業の代わりに、λは時間の目盛りを武器にした。目盛りの戦いなら、俺たちには物差しが二人分ある。
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教科書の外を、最初に飛んだのはカレンだった。
『癖を、変えるわ』と、彼女は阻止線を捨てながら言った。『リハビリで、体が作り直されたばかりなの。——ちょうどいい』
作り直された左腕と、付け直された感覚で、カレンは昨日までのカレンと違う軌道を引いた。阻止線の名手の教科書には、阻止線を捨てる頁がない。頁のない動きに、新型の回避則が空振りする。空振りの隙間を、彼女の新しい腕が正確に撃ち抜いた。二機。三機。
『いい音で撃ててる?』と、彼女が聞いた。
「……ああ。いい音だ」
嘘じゃなかった。復帰したカレンの射撃は、前より半歩、間合いが深い。守られる側の寝台で聞き続けた戦場の音が、撃つ側に戻った彼女の中で、新しい物差しになっている。負傷は彼女から二十日を奪って、代わりに、教科書にない頁を一枚くれた。くれた、と言えるのは結果論で、結果論を言える日に帰ってきたのは、彼女の脚とリハビリの数字だった。
ガルムが全体に短く言った。「聞いた通りだ。全員、昨日までの自分を捨てろ。教科書に載ってる俺たちは、今日は休みだ」
シドは撃ち方を崩した。『久しぶりだな、下手糞に撃つのは』と言いながら、わざと偏差を乱した三号弾とλの囮線を重ね、乱れの中に一本だけ通した本物で、装甲の下の結節点ごと撃ち抜く。ガルムは指揮の遅延を揺らした。速い指示と遅い指示を不規則に混ぜ、指揮系統の癖を読ませない。読ませない指揮は隊にも重いはずで、重さを全員が黙って担いだ。
λが囮の射線を引き、俺は深度二の内側で、癖の裏側だけを使って穴を詰めた。十八秒ごとに賢くなる敵は、十八秒ごとに、古い教科書を読み直しては空振りを続けた。
十八秒の学習は、最後まで止まらなかった。止まらない学習を、俺たちは学習の届かない場所——今日初めての自分たち——で振り切り続けた。振り切る、は正確じゃない。逃げ水を追わせ続けた、が正確だった。教科書は、書き終わる前の相手を載せられない。
塞ぎの陣形に、穴が開いた。
「船団、増速。開いた所を通ります」とλが中継した。
七隻が、開けたばかりの穴へ、順に頭を入れていく。護衛艦、母艦、補給艦。俺たちは穴の縁で、閉じようとする圧を撃ち続けた。最後の補給艦の艦尾が抜けるまでの九十秒が、今日の戦闘の一番長い九十秒だった。落としたのは、十一機。三十六のうちの十一で、殲滅には遠い。遠くていい。今日の勘定は、七隻が通ったかどうかだけだった。
全艦通過の報を、λが読み上げた。船体損傷、護衛艦一に軽微。人的損害、ゼロ。撃墜十一のうち、カレンが四。復帰初日の数字としては、出来すぎなくらいの帳尻だった。『腕が新しいうちに稼いだの』と本人は言った。冗談の形の申告に、回線のどこかでシドが笑った。
通れた。勝ったのではない。通れただけの日を、勝ちの欄に書くしかない日だった。
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三隻は、追ってこなかった。
代わりに、残った二十五機を収容し、船団の後方八万キロに、ぴたりと付いた。同速。同針路。攻撃も、通信も、なし。振り切れない距離で、ただ、付いてくる。
「並走です」とλが言った。「この距離は……交戦距離では、ありません。監視の距離です」
並走の三隻を、艦橋の全員が代わる代わる見に来る、と夜の当直が言っていた。見ても、何も起きない。起きないことを確かめに、また誰かが見に来る。撃ってくる敵より、付いてくる敵の方が、人の睡眠を削る。削り方まで計算に入っているのだとしたら、あの灰色の船の用途の一つは、これだった。
前を塞ぐのに失敗した檻は、後ろに回って、檻のまま歩き始めた。
夕食は、味がした。カレーではなかったから、と気づいて、気づいたことを、誰にも言わずに飲み込んだ。欠けたままの舌で、欠けていない献立を食べる。それが今の、俺の日常の形だった。
夜、λの報告が揃った。
「並走の三隻、変化なし。それと——後方、二百万キロに、機関反応の集団。加速パターンから……王権艦隊です。彼らも、円を離れて、こちらの航路に入っています」
前に教団、後ろに王権。船団は、二種類の影に挟まれて、地球への長い直線を飛んでいた。
「最後に、一つ」とλは言った。「明日の朝、艦長から、あなたに出頭要請が出ます。艦内通達の予定表に、載りました。議題は——非公開。……封緘が、開きます」
「出頭は、俺一人か」
「要請の宛先は、あなた一人です。ただし——」λは一拍置いた。「傭兵契約の条項により、契約者側の同席権があります。ガルムさんには、伝達済みです。返答は『行くに決まってるだろうが』でした。原文のまま、記録しています」
原文のまま、が少しだけおかしくて、少しだけ、ありがたかった。
読めない紙が、明日、開く。
寝る前に、今日の形を頭の中で並べた。
前方に、教団の並走。塞ぎに失敗して、監視に切り替えた灰色の三隻。後方に、王権の艦隊。測る者たちが、測る距離を保ったまま、同じ航路を飛んでいる。そして艦内に、封緘と、承認番号〇〇一と、明日の出頭要請。
三つの勢力の「欲しい」が、戦闘と、並走と、書類の三つの形になって、同じ一隻の船を囲んでいた。囲まれている真ん中で、俺は欠けた舌のまま飯を食い、λと深さの上限を決め、番号付きの承認で出撃し、明日の朝を待つ。囲みの三つの形のうち、一番厚いのがどれなのかを、多分、明日の封緘が教えてくれる。
戦って通れる檻と、戦っても通れない檻が、同じ夜の中で、静かに口を開けて待っていた。
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