第53話_波の穴
――Symmachia
朝の定例は、数字から始まった。
「円の収縮、継続中です」
俺の背中で、λが言った。《灰狼》の定例にλの声が加わるのは、今日が初めてだった。昨日までは、俺が聞いて、俺が伝えていた。今日からは、本人が話す。ガルムが昨夜、短く決めた。数字はお前が一番速い、と。
「九隻の軌道要素は、全て実測できています。現在の速度が続けば、円の最外が、この衛星の低軌道に接するまで——十日と、七時間。誤差は、半日以内です」
「根拠まで言うようになったか」とシドが言った。
「言えるように、なりました」とλは言った。隠しもせず、誇りもせず、事実として。
「十日と七時間、ね」とカレンが端末にメモを取った。「増援の方は」
「航路台帳の九隻は、最速の船で、十九日後に木星圏です。……先に着くのは、円の方です」
母艦の周囲では、朝から対空砲座の設営が続いていた。本国の指示が届いたらしく、探査船団は日ごとに要塞の顔になっていく。艦載機の哨戒線は二重になり、降下枠の審査は倍の時間がかかるようになった。守りが固くなるのと、身動きが重くなるのは、同じことの表と裏だった。
「動かんうちに、が終わった」とガルムは言った。「動いてる中で、やる。降下班の護衛は今日も続ける。全員、機付きだ。……λ」
「はい」
「円に変化があったら、連邦より先に言え。お前の数字を、うちの警報にする」
「了解しました」
λが警報になる。昨日までの沈黙の分だけ、今日の言葉は仕事が多かった。
「一つ、確認させてください」とλが言った。「わたしの警報で、皆さんが動きます。わたしの誤差が、皆さんの誤差になります。……その重さで、報告します」
「重く言え」とガルムは短く答えた。「軽い警報ほど、人を殺すものはない」
ステラは今朝の定例に、いなかった。監査団は昨日から母艦に呼ばれ、戻っていない。防備の強化と一緒に、書類の壁も厚くなっているらしかった。今朝の彼女の報告は、通信文で一行だけ来た。「キャリブレーションの続きが要るなら、申請は私を通して」。監査役の顔の文面に、監査役ではない意味が、一つだけ入っていた。
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岩棚の拠点で、出撃準備の点呼をした。
「本日の、わたしの計測系は、全て正常です」とλが言った。「あなたの生体数値は——睡眠が、二時間、足りていません」
「交代で寝ろと言われて、寝た方だ」
「はい。記録しています。……足りない二時間ぶん、今日は、わたしが多めに見ます」
多めに見る。λの言葉の選び方は、解放の日から少しずつ、道具の言葉から離れていっていた。
隣の機体で点検をしていたカレンが、手を止めずに言った。
「あなたの相棒、よく喋るようになったわね」
「悪いか」
「いいえ。……静かな子だと思ってたから、慣れるのに少しかかるだけ。悪くないわ、賑やかなの」
「にぎやかに、しすぎない、程度にします」とλが答えて、カレンが小さく笑った。
シドは自機の照準系を覗いたまま、動かない。目を閉じている時と同じで、覗いている時のシドも、それだけをしていることの方が少ない。
「嬢ちゃんがよく喋る日は」とシドが言った。「大抵、忙しい日だ」
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警報は、連邦より先に、背中から来た。
「円から、一隻、離れました」
λの声が、定例の声から、仕事の声に変わった。
「白い船体。円の航跡を外れ、降下軌道へ。……分離を確認。降下体、十二。降下予測——南の進入口の、外周部です」
三十秒遅れて、連邦の警報が同じことを言った。ガルムの言った通り、λの数字がうちの警報になった。三十秒は、機体に乗り込むのに十分な長さだった。
設営の終わったばかりの対空砲座が、初めての仕事に火を入れた。青白い射線が何本も昇っていき、降下体は、その全てを最小の機動でかわした。かわし方に、無駄がなかった。無駄のなさに、恐怖も昂ぶりもなかった。砲座の射手たちの色が、俺の位置からでも、揺れて見えた。
軌道上では、連邦の哨戒線が先に接触した。
開放回線に、艦載機隊の声が流れ込んでくる。交戦の符丁が二度、三度。それから、符丁ではない声が混ざり始めた。
『——読めない。応答しろ、どうなってる』
『共鳴反応が出ない。こいつら、何も——』
回線の向こうで、哨戒線が崩れていくのが、音だけで分かった。撃墜二。脱出ポッドの信号は、一つだけ上がった。もう一機からは、何も上がらなかった。何も上がらない空域を、見ている時間は、なかった。
降下体が、視界に入った。
十二の機影。噴射炎と、装甲の反射。そして、それだけだった。
色が、無い。
魔力波の色が、どの機体からも、まったく見えない。感情の色も、意思の輪郭も、殺気の揺れもない。十二機ぶんの、穴のような静けさが、灰色の空を降りてくる。
G-2の、あの伏撃の日と、同じ色の無さだった。
十二機は、着地の隊形すら組まなかった。散開も、掩護の配置もなく、ただ十二本の最短の線で、南の進入口へ降りてくる。人の軍隊なら、誰かが先頭を嫌がり、誰かが端を選ぶ。十二の線には、その好みの偏りが、ひとつも無かった。
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最初の交差で、俺は外した。
一機の回避を読んで、読みの先へ撃った。機体はそこへ来なかった。来ないどころか、俺の射線を意に介した様子もなく、まっすぐ降下を続けた。読む相手の意思がないと、俺の先読みは、宙に浮く。浮いた読みは、ただの当てずっぽうだった。
「λ。見えてるか」
「見えています」と、λは即答した。「——説明します」
説明します。戦闘の中で、その言葉を聞くのは、初めてだった。
「色が無い、は、何も無い、ではありません。周囲の魔力波が、そこだけ、押し退けられています。……波の、穴です。穴の輪郭と、移動速度は、追えます」
「穴として見ろ、ってことか」
「はい。あなたの目は色を追い、わたしは穴を追います。二つを重ねれば、輪郭は埋まります」
座標が、流れ始めた。
「穴、正面やや左。速度五百二十。降下角、変えません」
言われた場所を見る。色は無い。無いが、λの数字を重ねると、無いことの形が、見え始める。星の光を背にした機影と、噴射の色と、λの言う穴の輪郭。三つを重ねて、俺は撃った。
推進器に当たった。一機、降下軌道から外れて、丘陵の斜面に落ちる。落ちた機体は、もがかなかった。救難信号も、なかった。ただ、止まった。
「一機。……この当て方で、続けられる」
「はい。次を言います。穴、二つ。右上、高度差三百」
戦い方が、変わっていた。昨日までの俺は、一人で見て、一人で読んで、λの数字は答え合わせだった。今日は、最初から二人で一つの視界だった。
λの報告には、二つの速さがあった。時間のある時は、根拠ごと来る。「次の一機は、降下角を浅くしています。理由は、推進剤の残量だと推定します。着地点が、手前にずれます」。時間のない時は、座標だけが来る。「右上、二機」「跳弾、来ます」。どちらの声も、昨日までの沈黙の側ではなく、俺の側にいた。
シドの長距離射撃が、降下体の一機の脚部を捉えた。
『硬いな、こいつら』とシドの声。『関節を撃ったんだがな。……装甲の質が、軍の規格じゃない』
『正面、任せて』とカレンが進入口の手前に機体を据えた。『ここから先は、通さない』
ガルムは高台から二機を牽制しつつ、全体に短く指示を刻んだ。連邦の地上部隊は進入口の内側で隔壁に取りつき、いつでも閉められる態勢を取っている。百五十年、誰も閉めなかった扉に、閉める理由が来ようとしていた。
敵は、撃ち返してきた。撃ち返しながら、それより、進んだ。
被弾した僚機を、誰も顧みない。有利な地形を、取りに来ない。防衛線に穴があればそこを抜け、なければ最短の線を力ずくで通る。応射は正確で、しかし、応射のために足を止めることが、一度もなかった。
戦いに来ていない。目的地に、来ている。
「λ。こいつらの目標は、進入口で間違いないか」
「軌道の収束点は、全機、同一です。進入口——正確には、その奥の、縦坑です」
縦坑。街の底へ降りる、あの暗がり。昨日、λが帰還者と呼ばれた場所へ、色の無い十二機が、まっすぐ向かっていた。
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