第104話_明けの明星
「藍の反応が、深くなっています」とλが言った。
声が、張っていた。
「並べていた重さが、無くなりました。無くなった後も、沈むのが、止まりません。……沈み始めると、止まらないのは、錨が無いからです。引き上げる側が、どこにもありません」
藍が、沈んでいた。
三十余りの色を手放した後の藍は、細いまま、一人きりで、深い所へ、ゆっくり降りていった。誰に引かれているのでもない。何かに、引かれているのでもない。ただ、上がる理由に、繋がっていなかった。
一昨日、アステリアは、全部の色になった。今日は、全部の色にはならない。並べるものが、もう無い。何にもならずに、薄くなって、消える。
「λ。俺たちが、錨になれるか」
「なれません」とλは言った。迷わなかった。「錨は、選びません。繋がっている側が、選びます。わたしたちが掴んでも、アステリアさんが掴み返さなければ、錨には、なりません」
繋がっている側が、選ぶ。
彼女は、まだ、何も選んでいない。待機の命令に背いて、ここへ来た。来ることだけを、選んだ。帰ることは、選んでいない。
藍に、言った。
「火星で、聞いたな」
藍の色は、答えなかった。答えなくても、聞いているのは、分かった。色が、こちらへ、わずかに向いた。
「すり減ると知ってて、潜り続ける理由。……まだ言葉になってない、と、俺は言った。言葉になったら持って来い、と、あんたは言った。答えは待つ、取り下げる気はない、と」
「……覚えている」
「言葉になった。持って来た」
深い所で、藍が、止まりかけた。止まらなかった。それでも、沈む速さが、少しだけ、落ちた。
「消えないために潜ってるんじゃない。帰るために、潜ってる。……帰る場所に、全員いる。だから、帰れないところまでは、行かない。行っても、帰る」
藍は、黙っていた。
「あんたが聞いたから、答えを探した。探したから、帰ってこられた。……あんたの宿題だ。俺は、あんたの宿題で、帰ってきた」
三秒。
「それで」と、藍が言った。平坦な声だった。平坦な声の底で、何かが、揺れていた。「それを、私に、どうしろと言う」
「あんたの帰る場所は、縁にいる」
俺は、道を、通した。藍へ、一本。一昨日と同じ形の、共鳴の一本線。
その上に、声が、乗った。俺が乗せたのではなかった。縁の、ガルムの機体の後席から、自分で乗ってきた声だった。
「上がって」
ステラは、それだけを、言った。
一昨日、ステラは、たくさんのことを話した。名前を呼んで、星の話をして、まとめないと届かない、と言って、まとめた。今日は、まとめなかった。一言だけ、言った。後衛の周波数に、何十回も送ったのと、同じ言葉を。
「上がって。……一段でいい」
藍が、動いた。
沈むのを、やめた。やめて、向きを、変えた。道の上を、俺の方へではなく、俺の後ろへ。縁の、ガルムの機体の、後席へ。細い藍が、道の上を、自分で、上がってきた。
道の端で、藍は、声の方の線を、掴んだ。
掴んだ瞬間、藍の縁が、元に戻った。ぼやけていた縁が、一本の刃の縁に、戻った。
「掴みました」とλが言った。「アステリアさんが、自分で、選びました。……錨は、ステラさんです」
縁の方から、ステラの声が、小さく、聞こえた。俺に向けた声ではなかった。誰に向けた声でもなかった。
「……重いわね、姉さん」
---
「——割り込みます」
λだった。
「四つ目が、立ちました。北東です。……北の嵐の、残っていた縁と、繋がろうとしています。北の嵐は消えましたが、縁に残った色が、四つ目の方へ、引かれています」
北東の空が、白く、膨らみ始めていた。膨らむ白の手前に、さっきの嵐の、消え残りの色が、細い帯になって、伸びていた。帯の先が、四つ目へ、触れかけていた。
触れれば、二つ分の大きさになる。
藍が、俺の機体の横に、並んだ。
近くで見るのは、初めてだった。重い機体だった。装甲が厚く、翼は短い。速さではなく、重さで空を押さえる機体。その全身を、藍の光が、覆っていた。
「あんたは」と俺は言った。「その力を、何に使う」
火星の丘の上で、アステリアが、二つ目に聞いた問いだった。お前はその力を、何に使うつもりだ。同じ言葉を、今日は、俺が、彼女に返した。
藍は、すぐには、答えなかった。
「連れて帰るために」と、アステリアは言った。
それだけだった。説明は、しなかった。しなかった代わりに、機体が、前へ出た。
四つ目の嵐の外壁へ。藍の光が、機体の前に、広がった。広がった光は、刃の形ではなかった。壁の形だった。藍の壁が、四つ目の外壁に、押し当てられた。
外壁の色が、並んだ。
並んだのは、人ではなかった。外壁の渦の、流れの方だった。渦巻いて外へ広がろうとしていた白が、藍の壁に沿って、一列に、整えられていった。整えられた渦は、広がれなかった。外へ伸びる流れが、全部、壁に沿って、横へ逸らされていた。
消え残りの帯が、四つ目に、触れた。触れて、繋がらなかった。藍の壁が、その間に、立っていた。
「外は、私が止める」と藍は言った。「中は、お前がやれ」
刃を、束ねた。
藍の壁の、すぐ横から、四つ目の外殻へ、碧の刃を、振り下ろした。藍の壁と、碧の刃が、一瞬、交差した。交差した所から、四つ目の外殻が、縦に、裂けた。
中へ、入った。線を伸ばした。λが、数えた。
「二十八。……下ろします」
一段。二段。三段。色が、一つずつ、自分の深さへ戻っていく。外では、藍の壁が、最後まで、外壁の流れを、押さえていた。押さえる手を、彼女は、色が全部抜け終わるまで、一度も、緩めなかった。
四つ目が、消えた。
一分、十秒だった。
外で、《灰狼》が、動いていた。下ろされた後衛の機体の中に、推進の止まったものが、いくつかあった。ガルムの機体が、片腕で、一機を、抱えるように曳いていた。カレンの機体が、もう一機の後ろについて、押していた。シドは、息の浅い声で、数を数えていた。『——七機目。あと、三』
回線が、騒がしかった。
『王権本国より。北部の嵐、二つとも、消滅。……第一精鋭隊長機と、あの碧が、並んでいる。並んで、嵐を——』
『連邦前線より本部。王権の隊長機が、あの機体と、組んだ。王権が、あれと手を組んだのか。どちらの命令だ』
『命令は、出ていない。王権も、出していない、と言っている』
誰の命令でもない二機が、並んで、浮いていた。
---
「数えます」とλが言った。
声は、静かだった。
「五つ目。連邦側、西。……立ちかけています。六つ目。王権側、本国の南。七つ目。連邦側、火星との中継軌道。八つ目、九つ目——」
λは、数え続けた。
「十二。……どの軍も、同じ文面です。正体不明の干渉と、王権隊長機の離反に対し、対抗上、やむを得ない。指定深度、さらに一段」
十二。
一つ止めるたびに、二つ増える。二人で一つ止める間に、四つ増える。数えるまでもない計算だった。
「一つずつじゃ、終わらない」と俺は言った。
「はい」とλは言った。「終わりません。……ですが、一つだけ、見えたことがあります」
「言え」
「下ろした色は、全部、同じ所から上がってきました。連邦の三十機も、王権の三十余りも、今の二十八も。……深い所は、一つです。どの軍の、どの共鳴者も、深く潜るほど、同じ一つの場所へ、近づいていきます。わたしが、昔、繋がっていた場所です」
同じ一つの場所。
木星の、底。名前の列。父の声がした、あの層。
「そこから下ろせば」
「全員に、届きます。どの軍の、どこにいる人にも。……届くのは、一番深い所からだけです。わたしひとりでは、行けません。あなたひとりでも、行けません」
隣で、藍が、聞いていた。共鳴は、開いたままだった。
「一番、深い所へ行くのなら」と藍は言った。「上で、誰かが、引いている必要がある」
「ああ」
「なら、上は、私が引く」とアステリアは言った。「私の錨は、もう、縁にいる」
縁で、ガルムの機体の後席の、ステラの色が、揺れた。揺れて、何も言わなかった。
十二の嵐が、空のあちこちで、白く、膨らみ始めていた。
全部、同時に止める。




