第5話:ガラスのファンタジスタ
第5話:ガラスのファンタジスタ
全国高等学校サッカー選手権大会、二回戦。
対戦相手は、私立叡智学園。
「コート上のチェスプレイヤー」こと阿久津準が率いるそのチームは、すべてのプレーを確率と数値で支配する、冷徹なデータサッカーの体現者だった。
スタジアムを包む冬の冷気とは対照的に、俺の視界はどろりと濁った焦燥感に支配されていた。
「……っ、げほっ、……ぅ」
ロッカールームの奥にある個室トイレ。
俺は、胃の内容物をすべてぶちまけ、便器を抱え込むようにして震えていた。
前の試合、鼻を犠牲にしてゴールを守った「救世主」としての代償は、想像以上に重かった。
鼻の痛み、蓄積した疲労、そして何より「データでは測れない奇跡」を再び期待されているという重圧。
元々、俺の身体は強くない。
「普通」の動きを「完璧」に見せるために、俺は他人の三倍の熱量で筋肉を酷使してきた。そのツケが、時限爆弾のようにカチカチと音を立てて爆発の時を待っている。
(もう……限界だ……。阿久津みたいな本物のバケモノに、俺の化けの皮が剥がされないわけがない……)
全身の関節が錆び付いたように重い。
「鳴海、そろそろアップの時間だ。……入るぞ」
個室の外で、佐々木鉄平の快活な声がした。
俺は咄嗟に口元を拭い、荒い呼吸を殺す。
「……先に行っててくれ。俺は、ベンチスタートだから」
声を出すだけで喉が裂けそうだ。
鉄平は一瞬沈黙したが、「おう、無理すんなよ! お前が後ろに控えてるだけで、俺たちの士気が違うんだ!」と、勇ましい足音を遠ざけていった。
あいつの無邪気な信頼が、今の俺には猛毒のように回る。
這いずるようにして個室を出る。
鏡に映った自分の顔は、死人のように青白かった。
(はは……これじゃ、ファンタジスタじゃなくて幽霊だな)
自嘲気味に笑った瞬間、部室の扉が静かに開いた。
「――、」
心臓が止まるかと思った。
そこに立っていたのは、金村監督だった。
白髪混じりのロマンスグレーに、常に高級なトレンチコートを纏う聖和台の絶対者。
彼は無言のまま、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。
その鋭い眼光は、俺の震える膝を、青ざめた肌を、正確に射抜いている。
バレた。
この人は、すべてを見抜いている。
俺が天才でも何でもないこと。臆病者が、化けの皮を被って震えているだけだということ。
「監督……俺、は……」
謝罪の言葉か、告白か。真実が溢れ出しそうになったその時。
ふわりと、温かな重みが俺の肩を包んだ。
「え……?」
金村監督が、自分のトレンチコートを脱ぎ、俺の肩にかけたのだ。
重厚な布地の奥から、煙草と雨の匂いが混じったような、落ち着いた香りが鼻腔をくすぐる。
「鳴海。……今は、ただ休め」
監督の、低く、重厚な声。
「言葉を持たぬ真理は、時に肉体を蝕む。君が背負っている『本質』の重さは、私のような凡夫には察するに余りあるものだ」
「い、いや、そうじゃなくて……」
「語らなくていい。阿久津準の眼鏡には、君の『深淵』は映るまい。……今日は後半の『ここぞ』という場面まで、君は静寂と対話したまえ」
監督はそれだけ言うと、コートを失ったシャツ姿のまま、一度も振り返らずに部室を出ていった。
違うんだ、監督。
俺が背負っているのは「真理」なんて高尚なものじゃない。
「無能がバレる」という矮小で惨めな恐怖だけだ。
(ああ……逃げられない。どこまで行っても許してもらえないんだ)
監督のコートは驚くほど温かかった。その温かさが、かえって俺の罪悪感を鋭利に削り取る。
しばらくして、瀬戸内が部室に入ってきた。
彼女は俺の肩にかけられたトレンチコートを見て一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷静な表情に戻り、タブレットを操作し始めた。
「……心拍数140。阿久津君の予測データによれば、貴方は今日、出場しない確率が80%だそうよ」
彼女は俺の隣に座ると、保冷バッグから一本のゼリー飲料を取り出した。
「食べなさい。これは貴方の『虚像』を維持するための燃料よ。……その80%を裏切るのが、貴方の役割でしょう?」
「……瀬戸内さん。俺、やっぱり無理だよ。データで殴られたら、俺なんて一瞬で……」
「監督は言ったでしょう? ここは聖域だって。……だったら、私がその門番になってあげる。数値で測れない『嘘』を、私が正解にしてあげるわ」
彼女は、俺の額に浮かんだ冷や汗を、自分のハンカチで静かに拭った。
後半開始から二十分。
叡智学園の完璧なパス回しに、聖和台の守備網は疲弊しきっていた。
0-0。だが、精神的な優位は完全に叡智にある。
「鳴海、準備はいいか」
金村監督の声。俺は、監督のコートを脱ぎ、静かにベンチに置いた。
足元はまだ覚束ない。胃の奥には鈍い痛みが残っている。
ピッチの向こう側で、阿久津準が眼鏡の奥の瞳を細めたのが見えた。
「データにない異分子」の登場を、彼はどう解析するのだろうか。
俺は、歪んだ笑みを仮面のように貼り付けて、芝生を踏みしめた。
「行こう……。誰もいない、偽物の頂上へ」
鳴海涼。
その男の孤独は、今この瞬間、理論という名の光すら届かないほど「完璧」な暗闇へと溶けていった。




