第4話:守護神の涙
第4話:守護神の涙
全国高等学校サッカー選手権大会、開幕。
試合のホイッスルが鳴り響く。
今日の相手は、全国でも指折りの武闘派として知られる豪蔭高校だった。
ピッチを駆ける選手たちの咆哮と、肉体同士がぶつかり合う鈍い音が、青く澄み渡った冬の風に乗って鼓膜を叩く。
(死ぬ。マジで死ぬ。なんでみんな、あんなに迷いなく突っ込んでいけるんだ!?)
俺は、激しく上下する肩を必死に抑えながら、フィールドの空白を埋めるために走っていた。
ボランチというポジションは過酷だ。守備の決壊を防ぎ、攻撃の導火線に火を点けなければならない。
俺には乾のような神の視点も、市川のような冷徹な牙もない。
あるのは、「バレたら終わりだ」という極限の恐怖が生み出した、異常なまでの危機察知能力だけだ。
「鳴海! 外側、ケア頼むぞ!」
主将の大門の声が飛ぶ。
俺は返事をする余裕もなく、ただ無言でその指示に従う。
それが彼らの目には「言葉を必要としない絶対的な信頼」と映り、守備陣の結束を強めていく。
皮肉な話だ。俺が黙っているのは、ただ単に息が上がりすぎて声が出ないだけだというのに。
だが、その「静寂の信頼」が、一瞬で崩れ去る光景を俺は見た。
相手FWの強烈なシュート。
鋭い弧を描いてゴール右隅を襲ったその一撃を、我らが守護神、白川豪は辛うじて指先で触れた。
しかし、不運にもボールはポストを直撃し、無慈悲な軌道を描いてゴール前へと転がる。
「――っ、しまった!」
190センチを超える白川の巨体が、地面に伏したまま硬直する。
視線の先には、無人のゴール。
そして、獲物を狙う鷹のような速さで詰め寄る相手FWの影。
(あ……)
脳が思考を放棄した。
身体が、俺の意志を無視して爆発的に加速する。
筋肉が悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まるほどの心拍数が頭蓋を揺らす。
「逃げればいい。どうせ俺なんかが間に合うはずがない」
冷めた俺がそう囁いたが、泥沼のような努力を続けてきたこの脚が、勝手に地面を蹴り飛ばしていた。
ドッ、という、肉が潰れるような重い衝撃。
「ぐ、ふ……ッ!」
目の前が暗転した。
放たれたシュートを、俺は文字通り顔面で受け止めたのだ。
鼻の奥で何かが弾ける感覚。鉄臭い液体が喉に逆流し、意識が遠のく。
地面に叩きつけられた俺の視界に、ライン際で止まったボールと、唖然と立ち尽くす21人の姿が映った。
「鳴海……君?」
白川の、震える声が聞こえた。
鼻血を垂らし、無様に泥にまみれた俺の姿。
情けない。かっこ悪い。痛くて涙が出そうだ。
俺は、朦朧とする意識の中で、自分を助け起こそうとする白川の手を振り払った。
本当は、あまりの痛みに触れられたくなかっただけだ。
だが、俺の口から漏れたのは、酸素を求めるための喘ぎ声だった。
「……後ろは……気にするな……」
実際は、「後ろ(のゴール)は(守ったから、もう俺の顔に)気にするな(触るな)」と言いたかった。
しかし、極限状態の俺の喉は、後半の言葉を飲み込んでしまった。
「……ッ!!」
白川の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼は巨躯を震わせ、俺の泥だらけの背中を見つめて叫んだ。
「鳴海……お前は、お前という男は……ッ! 鼻を犠牲にしてまで、俺のミスを……俺の心を、守ってくれたのか!」
「違う、待て、白川……」
「わかっている! 言葉は不要だと言いたいんだろう! 俺は……俺はなんて矮小だったんだ。鳴海涼、お前が背中で示してくれた覚悟、今ここで魂に刻んだ!」
白川の背後に、巨大なオーラが立ち昇るのが見えた。
繊細だった守護神の瞳から迷いが消え、金剛力士像のような威圧感がスタジアムを支配する。
その後、白川は神懸かり的なセーブを連発し、相手の攻撃を完封。
試合は我々の勝利で幕を閉じた。
試合後のロッカールーム。
鼻に詰め物をした俺の周りには、まるでお通夜のような、それでいて宗教的な熱狂を孕んだ静寂が漂っていた。
「鳴海……お前、明日は大事を取ってベンチスタート。いや、休んでくれ」
主将の大門が、真面目な顔で俺の肩に手を置く。
俺は「ああ、喜んで休ませてもらうよ」と答えようとした。
だが、その前に大門が言葉を継いだ。
「お前のあのプレーで、チームの魂に火がついた。お前がピッチにいない間、俺たちがその『聖域』を死守してみせる。……約束だ、鳴海」
「……あ、うん」
――違う。俺はただ、痛みに耐えかねて明日も休みたいだけなんだ。
しかし、俺の適当な返事は「高みで待っている」という王者の余裕として受領されてしまった。
部室の隅で、瀬戸内が一人、俺の心拍データを見つめている。
彼女の眼鏡がパシリと光った。
「……さっきの接触、普通なら回避できたはずよ。なのに、貴方はあえて最短距離で衝撃を受けに行った。……計算外だわ。貴方の“嘘”には、命を削るほどの重みがあるの?」
彼女の問いに、俺は答えることができない。
(計算じゃないんだ、瀬戸内さん。ただ、体が勝手に動いただけなんだ。……怖かった。死ぬほど怖かったんだよ)
本当の俺は、今すぐにでも泣き喚いて逃げ出したい臆病者だ。
だが、部室を出る俺の背中には、白川や大門たちの、崇拝にも似た熱い視線が突き刺さっている。
鳴海涼。
また一つ、俺の嘘が真実として塗り固められた。
守護神の涙と、仲間の信頼。その美しすぎる重圧が、俺の喉元を真綿のように締め上げる。
――俺の仮面が剥がれる日は、もう、誰にも許されない。




