第2話:孤高の努力は誤解の種
第2話:孤高の努力は誤解の種
プロ入りが決まったからといって、世界が急変するわけではない。
むしろ、周囲の熱狂が加速すればするほど、俺の日常は「いつ正体が露呈するか」という底なしの恐怖に侵食されていった。
――午前二時。聖和台高校のグラウンド。
校舎の影が長く伸び、静まり返った闇の中で、俺は独り、ボールを蹴り続けていた。
「ハァ……ハァ……ッ、くそ」
ボフッ、という鈍い音。
放たれたインサイドキックは、設置したコーンのわずか右を通り過ぎていく。
(今の……今のキックが本番だったら。もし俺のパスが数センチズレて、それが原因でカウンターを食らって、負けたら……)
想像するだけで、心臓の奥がキュッと締め付けられる。
俺は「天才」なんかじゃない。
プロのスカウトが見ている「華麗なファンタジスタ」は、偶然と幸運がデコレーションしただけの、中身のない張りぼてだ。
一度、公式戦のピッチに立てば、そこは化け物たちの巣窟だ。
乾のような戦術の怪物、市川のような嗅覚の怪物。彼らと同じ速度で思考し、技術を体現しなければ、俺という嘘は一瞬で剥がれ落ちる。
(練習しなきゃ……基礎だけでも。止めて、蹴る。それすらまともにできない奴に、彼らの期待を背負う資格なんてないんだ)
震える足に鞭を打ち、俺は転がったボールを追いかける。
三十分。一時間。
冷たい夜気が肺を刺すが、止まることができない。
俺は知っている。
俺には才能がない。だから、人の三倍やらなければ「普通」にすら届かない。
今の俺の評価は、借金で買った高級車のようなものだ。いつか必ず、支払いの時が来る。
その時、一文無しで絶望したくないのなら、死ぬ気で「実力」という名の現金を稼ぎ続けるしかない。
「――お前は、本当に。どこまで、先を見据えているんだ」
不意に闇から響いた声に、俺の心臓は飛び跳ねた。
驚きのあまりボールを蹴り損ね、派手に転倒する。
「あだだ……ッ。て、鉄平……?」
暗がりのベンチから立ち上がったのは、親友の佐々木鉄平だった。
高校トップクラスのフィジカルを誇る熱血漢の目は、なぜか熱い涙で潤んでいた。
「……見てたぞ。もう一時間以上だ。入団会見を終えて、プロ内定の看板を背負ったお前が、こんな時間に、独りで、基礎中の基礎を繰り返している姿を」
「あ、いや、これは……不安で、その……」
「わかってる! 言わなくていい!」
鉄平は俺の肩を強く、痛いくらいに掴んだ。
「お前にとって、プロ入りはゴールじゃないんだな。今の自分に満足せず、基礎の中にすら更なる高み……いや、『宇宙』を見ようとしているんだ。そうなんだろ、涼!」
「宇宙……? いや、ただパスをコーンに当てたいだけで……」
「くそっ! お前のその、ストイックすぎる謙虚さが俺を狂わせる! 天才がここまで自分を追い込むなら、凡人の俺は一体どうすればいいんだ……ッ!」
ボロボロと大粒の涙をこぼす鉄平。
俺は、掴まれた肩の痛みを感じながら、遠くを見つめた。
(違うんだ、鉄平。俺こそが、その『凡人』なんだ。本物の天才は、寝ててもパスをコーンに当てられるんだよ……)
だが、俺の言葉はまたしても届かない。
彼の中では、俺の「必死の足掻き」が「孤高の天才のストイックさ」へと自動翻訳されていく。
翌朝。
重い体を引きずって部室へ向かうと、そこにはさらなる地獄が待っていた。
「おはよう、鳴海君。……少し、顔色が悪いね」
部室の入り口で俺を待っていたのは、マネージャーの瀬戸内結だった。
彼女は手元のタブレットに目を落としたまま、冷徹な声で告げる。
「昨夜の睡眠時間、平均を下回っているでしょう。心拍データと筋肉の疲労指数から見て、明らかにオーバーワークよ。……何か、隠していることはない?」
「……っ。いや、別に」
俺は視線を逸らした。
結は数学的、医学的な観点から選手を管理する、聖和台の「頭脳」だ。
彼女だけは、時折、俺を見る目が他の部員とは違う。崇拝ではなく、まるで「未知のバグ」を解析するかのような、冷たく鋭い観察。
(この人には、バレる。俺が、ただ無理をして体を壊しかけているだけの、器用貧乏だということが……)
冷や汗が流れる。
そんな俺の焦りを知ってか知らずか、部室の奥からトレンチコートを翻して現れたのは、金村監督だった。
「瀬戸内。彼の『顔色の悪さ』を、単なる疲労と定義するのは早計だ」
監督はロマンスグレーの髪を指で整え、窓の外のグラウンドを遠い目で見つめた。
「彼は今、脱皮しようとしているのだよ。古い自分を焼き尽くし、新たな真理に到達するための、精神の浄化……。その苦悩が、肌の色を白く変えている。そうではないか、鳴海?」
「……ええと、はい。そんな感じです」
(本当は、ただの寝不足で吐き気がしてるだけです、監督)
金村監督は満足げに深く頷き、手帳に何かを書き込んだ。
おそらく「鳴海涼、肉体の限界を超え、精神の極致へ」とでも書いているのだろう。
監督は俺の肩をポン、と叩き、至近距離で囁いた。
「教えないことこそが最高の教育。……私は君から、また一つ学ばせてもらったよ。今日の練習メニューは君に一任する。君の『沈黙の導き』を、チームに見せてやってくれ」
「……え?」
監督が去った後、部室に残された俺。
練習メニューを一任? 指導者に向いてないどころか、自分の体の管理すらできていない俺に?
周囲を見渡せば、主将の大門が「鳴海の組んだメニューなら、死んでもこなしてやる!」と鼻息を荒くし、エースの市川が「涼が選ぶ練習だ、必ず得点に直結する意味があるはずだ」と鋭い眼光を向けている。
(……やめてくれ。本当に、もう、やめてくれ)
期待という名の真綿で、首を絞められている気分だった。
俺の「凡庸な努力」が、彼らの中で勝手に「天才の哲学」へと昇華されていく。
その誤解が積み重なるほど、俺の足元は脆く、高く、崩れやすくなっていく。
俺は、震える手でホワイトボードのマーカーを握った。
せめて、みんなが怪我をしないような、無難な練習を……そう思って書き始めた。
「……まずは、外周五周から」
「ッ! いきなり持久走だと!? この時期に、あえて心肺機能の限界を叩き直そうというのか……!」
「流石だ鳴海。戦術の前に、戦うための『器』を問うているんだな!」
――違う。
メニューを考える時間が欲しいから、時間を稼ごうとしただけなんだ。
俺の意図を完璧に裏切り、チームメイトたちは猛然とグラウンドへ飛び出していく。
夕日に照らされた彼らの背中を見ながら、俺は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
嘘が、止まらない。
世界が、俺の「普通」を許してくれない。
鳴海涼。
この日、俺は確信した。
俺は一生、この美しくも残酷な「虚像」の檻の中から、出られないのだと。




