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虚像のファンタジスタ 〜無能な俺は、愛される嘘を突き通す〜  作者: あめたす


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第11話:虚像の向こう側

第11話:虚像の向こう側


 後半40分。

 国立競技場を包む空気は、もはやスポーツの熱狂を超え、一種の「毒」を帯びていた。

 降り始めた雨が、スタジアムの照明を滲ませる。俺の視界は、泥と涙と雨水が混じり合い、一メートル先すらおぼつかない。


(……もう、いいだろ)


 身体がそう囁く。

 左足の感覚は完全に消え、右足は一歩動くたびに焼けた鉄串を突き立てられるような激痛が走る。

 それでも、俺は一条零の前に立ち続けた。

 華やかなステップも、鮮やかなパスもない。ただの「壁」として。一条が描く完璧な放物線や、幾何学的なパスコースの上に、自分の泥まみれの身体を無理やり放り込み続ける。


「どけ……! 鳴海涼、君は汚れた。あんなに美しかった君のプレーが、今や見る影もない!」


 一条が叫ぶ。あの「氷のファンタジスタ」が、苛立ちを剥き出しにして俺の肩を突き飛ばす。

 

 ブーイング。

 スタンドから浴びせられる罵声は、以前の俺なら耐えられなかっただろう。

 「期待外れ」「消えろ」「凡人」。

 

 だが、今の俺にはそれが「福音」のように聞こえていた。

 そうだ。俺はただの凡人だ。一歩走るだけで心臓が千切れそうになり、天才の視線一つに怯え、嘘を突き通すためにゲロを吐きながら深夜のピッチに立ち続けた、ただの、空っぽの、男だ。

 その本質を晒している今、俺は生まれて初めて「鳴海涼」としてピッチに立っている気がした。


「……汚れたのは、俺じゃない」


 俺は、震える膝を叩いて立ち上がった。


「あんたの『美学』だ、一条」


 一条の瞳が、驚愕に見開かれる。

 俺の目は、自分でも分かるほど冷え切っていた。絶望と、疲労と、そしてわずかな狂気。

 

「……鳴海、もういい! 退がれ!」


 大門が叫ぶ。俺の顔色が、すでに生者のものではないことに気づいているのだ。

 だが、金村監督は動かなかった。

 テクニカルエリアの端で、トレンチコートの襟を立て、沈黙を守っている。

 彼は、俺の「無能」を知っている。知った上で、この「虚像」が「真実」を凌駕する瞬間を待っている。


 後半44分。

 鳳凰院学園、最後の一撃。

 西岡から一条へ、完璧な縦パスが通る。

 

 聖和台のディフェンスラインは、すでに崩壊していた。乾も、白川も、一条の放つ圧倒的な威圧感に足が止まっている。

 

 一条が右足を振り抜く。

 その瞬間、彼とゴールを結ぶ「必勝のライン」が、俺の脳裏にだけ鮮明に見えた。

 予判でも、戦術眼でもない。

 この数ヶ月間、自分が「天才に見える場所」を必死で探し続けた結果、身につけてしまった「死角」への嗅覚。


(そこだ――)


 俺は身体を投げ出した。

 

 ドガッ、と鈍い音が響く。

 ボールは俺の腹部を直撃した。

 内臓が破裂するかと思うほどの衝撃。意識が白く弾ける。

 だが、俺は倒れなかった。倒れれば、こぼれ球を押し込まれる。

 

 俺は一条のユニフォームを、力任せに掴んだ。

 

「……行かせない」

 

「離せッ! イエローカードを貰っているんだぞ、お前は……!」

 

「……ああ、分かってるよ」

 

 俺は笑った。

 

 ここでカードを貰えば、俺は退場だ。

 「期待のファンタジスタ」が、決勝戦の土壇場で、醜いファウルで退場。

 ヒーローとしての物語は、ここで終わる。

 

 でも。

 

 俺がここで一条を止めなければ、鉄平たちの「優勝」は消える。

 

 俺一人の「虚像」が死ぬだけで。

 アイツらの「真実」が守れるなら。

 

 ピピーッ!!

 

 鋭いホイッスル。

 審判が、胸のポケットから「赤」を提示する。

 

 スタジアムが、一瞬の静寂のあと、巨大な溜息と罵声に包まれた。

 

「鳴海涼、退場!!」

 

 俺は芝生に転がったまま、雨の空を見上げた。

 不思議と、身体が軽い。

 一条が信じられないものを見る目で俺を見下ろしている。

 

「……なぜだ。君のキャリアはこれで台無しだ。プロのスカウトだって見ているのに、なぜこんな『無価値な』選択を……」

 

「……価値、か」

 

 俺は泥を吐き出し、立ち上がろうとして、再び崩れ落ちた。

 駆け寄ろうとする鉄平を、視線で制する。

 

「……鉄平。あとは……頼んだぞ」

 

 俺が退場したことで、鳳凰院は一瞬の「隙」を見せた。

 「あの鳴海が、あんな形で消えるはずがない」という、俺が積み上げてきた嘘が産んだ、一瞬の困惑。

 

 その隙を、市川湊は見逃さなかった。

 

「……鳴海君。君の献身、最後に僕が回収してあげる」

 

 湊が隙をつき球を奪い全速力で駆け出す。

 乾が、白川が、その背中を追う。

 

 俺は、雨に打たれながらピッチを去る。

 足を引きずり、観客席からの冷たい視線を浴びながら。

 

 その途中で、西岡と視線が交差した。

 「真実の目」を持つと言われる彼は、俺を蔑むことも、憐れむこともせず、ただ静かに、俺の足元を見ていた。

 

「……鳴海」

 

 彼は独り言のように、しかし俺の耳に届く声で言った。

 

「……嘘が真実に勝る瞬間を、初めて見たよ」

 

 その言葉が、俺の心に深く刺さった。

 

 ピ、ピ、ピィィィィ――ッ!!

 

 背後で、試合終了のホイッスル。

 聖和台のベンチが、爆発したような歓声に包まれる。

 

 勝った。

 

 俺はロッカールームへの通路に入り、崩れ落ちるように座り込んだ。

 

 誰もいない。ただ、コンクリートの壁と、雨音だけ。

 

 俺の選手生命は、今、この瞬間に死んだかもしれない。

 明日からのニュースは、俺への批判で溢れ返るだろう。

 

 でも。

 

 暗い通路の奥から、コツ、コツと足音が響く。

 

 そこに立っていたのは、瀬戸内だった。

 彼女は、何も言わずに俺の前に膝をつき、冷たくなった俺の手を、温かいタオルで拭き始めた。

 

「……瀬戸内さん。俺、終わったよ」

 

「そうね。あなたの『ファンタジスタ』という物語は、今、ここで終わったわ」

 

 彼女は、一度も俺と目を合わせないまま、淡々と言った。

 

「でも……『鳴海涼』という人間の嘘が、たった今、一万人を騙して、仲間たちを勝たせた。……お疲れ様。世界で一番、最低で最高の、嘘つきさん」

 

 彼女の指が、かすかに震えていた。

 

 俺は、ようやく深い眠りに落ちるように、目を閉じた。

 

 虚像の向こう側。

 そこには、俺だけが知っている、美しくも残酷な「真実」が、静かに横たわっていた。

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