第10話:報われない選択
第10話:報われない選択
国立競技場。
そこは、嘘を真実に変えようとする「殉教者」にとって、あまりにも残酷な光を放つ舞台だった。
決勝戦。相手は鳳凰院学園。
ピッチを支配するのは、プロ内定者たち。その筆頭が「氷のファンタジスタ」一条零だ。
一条がボールを持てば、観客席からは溜息が漏れる。無駄を一切削ぎ落とし、最短距離でゴールへ至るその姿は、あまりにも美しく、神聖ですらあった。
対する聖和台。その「象徴」である俺、鳴海涼への期待は頂点に達していた。
準決勝で命を削ってチームを救った、あの「静かなる求道者」が、最強の敵を相手にどんな魔法を見せてくれるのか。
(……魔法なんて、あるわけないだろ)
足が震える。一条の冷徹な眼差しが、俺という「偽物」を切り裂き、その中身が空っぽであることを暴露しようとしている気がしてならない。
「鳴海涼、君のプレーには興味がある。君が描く“解答”を、僕に見せてくれ」
一条が、すれ違いざまに囁く。
俺は何も答えられなかった。
試合開始のホイッスルが響く。
鳳凰院の猛攻が始まった。
一条が、西岡が、精密機械のような連携で俺たちの陣地を抉る。
乾の戦術が、湊の逆算が、圧倒的な個の力の前に無力化されていく。
(このままじゃ、負ける。それも、俺のせいで)
一条が放つパス一本の精度。西岡が構える守備の重厚感。
本物の天才たちを前にして、俺の必死なカバーリング(ただの無駄走り)など、何の意味も持たない。
俺が華やかな「ファンタジスタ」であろうとすればするほど、チームに致命的な穴が開く。
その時、俺の脳裏に「報われない選択」が浮かんだ。
称賛も、期待も、美学も。
全部、ドブに捨ててやる。
「……鉄平」
俺は、隣を走る鉄平にだけ聞こえる声で告げた。
「……俺は、最低なことをする。お前が信じる俺を、今から殺す」
「……鳴海?」
鉄平の戸惑いを背に、俺は「嘘」を上書きした。
次に一条がボールを持った瞬間。俺は、華麗なインターセプトなど狙わなかった。
一条の懐に、文字通り「潜り込んだ」。
ショルダーチャージ。だが、そこには美学もクソもない。重心を極限まで低くし、泥を跳ね上げながら、一条の進路に無理やり自分の身体を「置く」。
「……ッ!? どけっ!」
一条の端正な顔が、驚愕に歪む。俺は抜かれても、抜かれても、倒れながらその裾を掠め、一秒でも長く彼の視界に粘りついた。
鋭い笛の音が、スタジアムの喧騒を切り裂いた。
審判が俺に歩み寄り、胸のポケットからイエローカードを掲げる。
執拗で、あまりにも「技術」を感じさせない、執念だけのバックチャージ。
(……いいさ。これ一枚で、アイツの『完璧』を削れるなら安いもんだ)
俺は無言で立ち上がった。抗議も、釈明もしない。ただ泥を払い、冷え切った瞳で一条を見据える。その姿は、カードを突きつけられてなお動じない「冷徹な策士」に見えたのかもしれない。だが、実際は心臓が口から飛び出しそうなほど、恐怖と疲労で震えていただけだ。
それからの俺は、もはやサッカー選手ではなかった。
一条が前を向けば、その進路を文字通り「身体」で塞ぐ。彼が華麗なステップを踏むたびに、俺の泥だらけのスパイクが、その洗練されたリズムを物理的に阻害していく。
俺がやっているのは、天才を凡人の泥沼に引きずり込むための、呪いのような献身だ。ラフプレーと紙一重の、だがルールという境界線の際を攻める執念。
「やめろ……。不快だ。君のような男が、なぜこんな汚い真似を……!」
一条の声が荒れる。完璧な「氷」に、初めて罅が入る。
スタジアムには、次第に野次が混じり始めた。
「鳴海、ガッカリだぜ!」
「もっとファンタジスタらしいプレーを見せろよ!」
そうだ。俺は逃げている。華やかな虚像という名の逃げ道を断ち、俺という人間の「泥臭さ」を、恥も外聞もなく晒し続けている。
乾が、眼鏡を押し上げながら俺を見つめていた。その瞳には、今までとは違う、冷徹なまでの観察眼が宿っている。
(乾……お前ならいい加減気づくよな。俺が、ただの凡人だってことに)
だが、乾は小さく頷いた。
「……なるほど。一条の『リズム』を物理的に破壊することで、彼の計算式そのものを狂わせるつもりか。……鳴海、君は、自分自身の評価を犠牲にしてまで、勝利を……」
(違う、乾。俺はただ、こうするしかないんだ……!)
後半20分。一条のドリブルが、微かに乱れる。俺という「障害物」を避けようとして、彼の完璧なルートが数センチだけズレる。
その一瞬の「ズレ」を、瀬戸内はタブレット越しに凝視していた。
「データ上……あなたの疲労度は致死量に近い。なのに、なぜそんなに正確に『相手の嫌な位置』に居続けられるの?」
彼女は知っている。俺が天才ではないことを。だからこそ、俺が今、どれほどの「絶望」を燃料にして動いているかを。
「……あいつ、笑ってやがる」
西岡が忌々しげに呟いた。
俺は、笑っていたのか。野次を浴び、泥を啜り、仲間からも「らしくない」と落胆され。
それでも。
この「嘘」が暴かれる恐怖よりも。目の前の天才を、俺という「凡人」の執念が狂わせている快感が、俺の魂を歪んだ熱さで満たしていた。
一条のパスが、ついに大きく逸れた。
「一条がミスをした……!?」
実況の声が裏返る。そのボールを拾ったのは、鉄平だった。
「……鳴海!」
鉄平が吼える。その声には、怒りも失望もなかった。
「お前がそこまでして繋いだボールだ……! 泥にまみれるのは、お前一人じゃねえ!」
鉄平の重戦車のようなドリブルが、鳳凰院の陣地へ突進する。
俺は、その場に膝をついた。視界が急速に狭まっていく。スタジアムのブーイングは、止まない。
だが、俺の心は不思議と穏やかだった。
ファンタジスタの仮面が、泥と汗で塗り潰されていく。見ろ。これが、お前たちが信じた男の「真実」だ。
俺は、動かなくなった足を無理やり引きずり、再び一条の方へと向き直った。
誰にも評価されない、報われない選択。この孤独な戦いこそが。
虚像を真実に変えるための、唯一の「聖域」だった。




