第7話 嵐の夜、崩れゆく栄光
空が割れたかのような轟音と共に、雨が大地を打ちつけていた。
バケツをひっくり返したという表現では生温い。
まるで滝の中にいるようだ。
私の屋敷の居間には、天井の「青空の背景画」から嘘のように明るい光が差しているが、窓の外は漆黒の闇と豪雨に支配されている。
「……水位、危険域を超えました」
窓辺で雨量計測器を見ていた私が告げると、長椅子に座るキース局長が重々しく頷いた。
「上流の砦からも、緊急の早馬が来た。あと二時間だ」
「二時間?」
「二時間後には、増水した濁流が王都の北側に到達する。……例の凱旋門がある場所にな」
キースの声には、隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいる。
彼はこの数日間、王城と現場を往復し、必死に説得を続けていた。
あの凱旋門は、川が溢れた時に水を逃がすための「遊水地」に建てられている。
水が引く場所を塞いでしまえば、行き場を失った濁流は堤防を越え、対岸の市街地――平民たちが住む下町へと雪崩れ込む。
物理法則を知っていれば、誰にでも分かる理屈だ。
「許可は……降りなかったんですね」
私が聞くと、キースは自嘲気味に笑った。
「ああ。宰相には『平民の家など、流れたらまた建てればいい』と言われたよ。ローランド殿下に至っては、『余の門が汚れるから、雨の方を止めろ』だとさ」
言葉を失う。
想像力の欠如もここまでくると災害だ。
「それに、奴らは『王家の結界』を信じ切っている。初代国王が残した、都を水害から守る絶対防御……そんなものは、もう百年も前に機能停止しているというのに」
キースが拳を膝に叩きつけた。
古代の遺産に胡座をかき、手入れを怠った結果がこれだ。
今の王族は、起動の方法すら知らないだろう。
その時。
玄関の扉が激しく叩かれた。
「局長! キース局長!」
飛び込んできたのは、ずぶ濡れの部下だった。
泥だらけの顔で、彼は絶望的な報告を叫んだ。
「現場から報告です! たった今、作業員たちが『黄色い支柱』の撤去を開始しました!」
私とキースは同時に立ち上がった。
「なんだと!? 中止命令を出したはずだ!」
「殿下が直々に現場へ現れ、『あの黄色い汚物を今すぐ消せ』と……! 逆らえば不敬罪で斬ると脅され、作業員たちは泣く泣く……」
血の気が引いた。
あの巨大な黄色い果実は、ただの工作物ではない。
地盤沈下で傾いた数千トンの石塊を、物理的に支えている唯一の命綱だ。
あれを外せばどうなるか。
「……行くぞ、セレナ」
キースが私の腕を掴んだ。
有無を言わせぬ力強さだった。
「法的手続きはもう終わりだ。現場へ急ぐ」
* * *
私たちは暴風雨の中、馬車を飛ばした。
車輪が泥を跳ね上げ、御者が悲鳴のような声を上げて馬を急がせる。
河川敷に近づくにつれ、地響きのような川の音が聞こえてきた。
ゴォォォォ……という、腹の底に響く重低音。
自然の猛威がすぐそこまで迫っている。
現場に到着した時、そこは泥と悲鳴が渦巻く地獄だった。
松明の明かりの中、作業員たちが逃げ惑っている。
そして、闇の中に白く浮かび上がる巨大な門の足元で、私の作った黄色い支柱が、魔法で粉砕され、光の粒となって消えていくところだった。
「やめろぉぉぉッ!!」
キースが叫びながら馬車から飛び出した。
だが、遅かった。
支えを失った瞬間。
巨大な凱旋門が、悲鳴のような軋み声を上げた。
ギギギギ……バキィッ!
基礎が耐えきれず、弾け飛ぶ。
白亜の巨塔が、ゆっくりと、しかし確実に川の方へと傾いていく。
「あ……ああ……」
誰かの呻き声が聞こえた。
ズドォォォォォン!!
大地が揺れた。
数千トンの大理石が、増水した川の中へと倒れ込んだのだ。
巨大な水柱が上がり、泥水が雨のように降り注ぐ。
最悪の事態だ。
倒れた門が、川幅の半分以上を塞いでしまった。
ただでさえ増水していた川の流れが、巨大な瓦礫によって堰止められる。
行き場を失った水が、怒り狂ったように水位を上げ始めた。
見る見るうちに、堤防の縁まで泥水が迫ってくる。
「……嘘だろう……」
呆然と立ち尽くす作業員たちの向こうに、白い天幕が見えた。
そこには、濡れないように結界を張った椅子に座り、優雅に葡萄酒を傾けるローランド王子の姿があった。
キースが泥水を跳ね上げながら、天幕へと走る。
私もその後を追った。
「殿下! ご覧になりましたか! 貴方の門が川を塞ぎました! このままでは十分もしないうちに堤防が決壊します!」
キースが食ってかかるが、ローランドは面倒くさそうにグラスを置いただけだった。
「騒ぐな、キース。門が倒れたのは残念だが、まあいい。新しい意匠を考える口実ができた」
「そんな話をしているのではありません! 下町が沈むと言っているのです!」
「だから、結界があると言っただろう? 水など、王家の威光で弾き返せば……」
ローランドが懐から、拳大の青い宝石を取り出した。
古代の結界石だ。
本来なら、しかるべき台座に設置して魔力を供給しなければ動かないはずの代物。
「……おい。なぜ石がここにある?」
キースの声が低くなる。
「ん? 台座にあったままだと地味だからな。持ち歩けるように外してきたのだ。綺麗だろう?」
ローランドは無邪気に笑った。
世界が凍りついた気がした。
この男は、都市防衛機構の心臓部を、ただの装飾品として持ち出したのだ。
これでは結界など発動するはずがない。
「……貴様……ッ!」
キースがローランドの胸倉を掴み上げた。
周囲の護衛騎士たちがハッとして剣の柄に手をかけるが、キースから放たれる凄まじい殺気に圧され、誰も動けない。
「き、貴様、無礼だぞ! 離せ!」
「その石を元に戻せ! 今すぐにだ!」
「無理に決まっているだろう! 台座は王城の地下だぞ! ここから馬車で一時間はかかる!」
一時間。
横を見ると、川の水はもう堤防の上端ギリギリまで来ていた。
あと数分。
いや、数秒かもしれない。
決壊すれば、下流の街は泥の海に沈む。
数万の命が消える。
キースの手から力が抜けた。
彼はローランドを突き飛ばすように離すと、ゆっくりと振り返った。
その顔には、もう怒りはなかった。
あるのは、冷徹な覚悟だけ。
彼は胸につけていた「都市計画局長」の徽章を引きちぎり、泥の中に投げ捨てた。
そして、王族の証であるマントも脱ぎ捨てる。
「キース……?」
「セレナ」
彼は私を見た。
雨に濡れた黒髪が張り付き、眼鏡は雫で曇っている。
けれど、その瞳だけが、暗闇の中で青く燃えていた。
「俺は今、職務を放棄した。ただの反逆者だ」
彼は一歩、私に近づいた。
「法も、権威も、この国を救わない。……救えるのは、君の『デタラメ』だけだ」
彼は私の両肩を掴み、真っ直ぐに見つめてきた。
「やれるか?」
問われた意味を、私は瞬時に理解した。
堤防を補強する? 間に合わない。
水を消す? 不可能だ。
ならば。
「……舞台転換、ですね?」
私がニヤリと笑うと、キースもまた、凶悪な笑みを浮かべた。
「ああ。最高にふざけた、最強の舞台を作ってくれ。観客はこの俺だ」
腹は決まった。
私は振り返り、荒れ狂う濁流を見据えた。
私の魔法は「書き割り」だ。
中身はない。偽物だ。
けれど、人々がそれを「本物」だと信じた時、偽物は現実を凌駕する。
「局長、特等席へどうぞ。……開演の時間です!」
私は泥だらけのドレスの裾を翻し、氾濫寸前の川岸へと走り出した。
背後でローランドが「何をする気だ、気でも触れたか!」と叫んでいるが、もう雑音にしか聞こえなかった。




