第64話「言えない理由」
その夜、エレナはルシアンの執務室に向かった。
ノックして入ると、ルシアンがいつものように書類を見ていた。
「書類は今日は——」
「書類ではありません」
エレナが言った。
ルシアンが顔を上げた。
「話があります」
「今は忙しい」
「少しだけでいいです」
ルシアンは少し間を置いた。それから、ペンを置いた。
エレナは椅子に座らずに、ルシアンの前に立った。
「遠ざけているのは、私を守ろうとしているからですか」
ルシアンの目が、わずかに動いた。
「……誰から聞いた」
「グレインから」
短い沈黙。
「……あの男が、なぜ」
「それより——答えてください。そうですか?」
ルシアンは少し間を置いた。
「……そうだ」
エレナは、その答えを受け取った。
予想していた。でも、実際に聞くと——胸の奥が痛かった。
「なぜ言ってくれなかったんですか」
「言えば、お前は動く。自分で何とかしようとする」
「それの何が悪いんですか」
「危険だ」
「あなたが一人で抱えることの方が——」
「私は一人で抱えることに慣れている」
その言葉が、部屋に落ちた。
エレナは少し間を置いた。
「慣れているから、続ける。それが正しいと思いますか」
「正しいかどうかより——お前に傷ついてほしくない」
「あなたが遠ざけることで、私はもう傷ついています」
沈黙。
ルシアンが、エレナを見た。その目に、珍しく何か困ったような色があった。
「……それは」
「知らなかったと言いたいですか」
「……知らなかった」
エレナは少し驚いた。
本当に知らなかったのか。この男は、自分の行動が相手を傷つけることに——気づかなかったのか。
「ルシアン」
「……何だ」
「遠ざけることが保護だと思っているなら、それは違います。少なくとも私には」
「では、どうすればいい」
「一緒に考えればいい。それだけです」
ルシアンは黙っていた。
エレナは続けた。
「怖いのは分かります。私に何かあれば、あなたが傷つく。だから遠ざける。でも——その論理は終わらない。私がここにいる限り、あなたは何かを恐れ続ける」
「そうだ」
「では、怖くても——一緒にいることを選んでください」
長い沈黙。
ルシアンが立ち上がった。エレナの前に来た。
でも——何も言わなかった。
エレナを見て、少し口を開いて——また閉じた。
それから、視線を逸らした。
「……今日は下がれ」
エレナは少し息を飲んだ。
「……分かりました」
一礼して、部屋を出た。
廊下に出たとき、涙が滲んだ。
拭いて、歩いた。
まだ、終わっていない。でも——何かが、変わり始めている気がした。




