婿入り修行中、伯爵夫人に刺繍を教わりました(アウレリオ視点)
ヴァイオレット家での婿入り修行も、気がつけば終盤に差しかかっていた。
ヴァイオレット伯爵との距離は、ずいぶん縮まった。今では自然に「お義父様」と呼べる。
最近は、僕が使わせてもらっている執務室に、伯爵が植物をたくさん置くようになった。屋内でも育てられる作物の苗を探しているらしい。
世話をするついでに、伯爵はほとんど毎日のように訪ねてくる。
穏やかな目で葉を撫でる様子を見ていると、不思議とこちらの緊張もほぐれていく。
伯爵とここまで距離が縮まったのなら――夫人を「お義母様」と呼ばないのは、不自然かもしれない。だが、勝手にそう呼ぶのは失礼だろうか。
そんなことを考えながら、悶々と過ごしていたある日。
事件は起きた。
◇
「あなた、アウレリオ殿下の執務室に植物を隠しているというのは本当かしら?」
静かな、けれどどこか硬い声だった。
夫人は無表情のまま、鋭い視線を伯爵へ向けている。初対面なら、気圧されてしまうだろう。
伯爵はびくりと肩を震わせた。
「ひっ……必要なことだ。屋内でも育てられる作物の苗を探していて……」
「あなた?」
夫人の声が、静かに響く。
「絨毯に泥が落ちて掃除が大変だから、居住区には持ち込まない約束でしたわね?」
「……うん、すまない」
「今日中に撤去してください」
「……うん」
完全にしゅんとしている伯爵の姿に、僕は思わず口を挟んだ。
「あの、ごめんなさい。僕も手伝いま――」
夫人の視線がこちらに向く。
「アウレリオ殿下、手出しなさらないでくださいませ」
夫人の瞳が、すっと細められる。
それは拒絶というより、何かを必死に堪えているような険しさだった。
「はい」
やってしまった。
怒らせるつもりはなかったのに。
その後、改めて謝ろうとしたのだが、夫人はなぜか僕を避けている気がする。
目が合うたびに、彼女は眉間に皺を寄せて、足早に去ってしまうのだ。
「もう家族として認めてもらえないかもしれない……嫌われてしまったんだろうか」
思わず漏らすと、リリアーナが困ったように笑った。
「大げさですって。別にアウレリオ様に怒っているわけじゃありませんよ。ちょっと気まずくて、顔が強張っているだけです」
「だって……普段は物静かな夫人が、あんな……」
「うーん」
少し考えてから、彼女は言った。
「じゃあ、刺繍を習いに行ったらどうでしょう」
「刺繍?」
唐突な提案に僕は首をかしげた。
「ええ。お母様とお話ししたいなら、刺繍の話題がいいと思うんです。お父様も、お母様に叱られた後、たまに一緒に刺しています」
伯爵も刺繍をするというのは意外だ。
ヴァイオレット家では、こうやって仲直りするのだろうか。
「確かに刺繍なら沈黙があっても不自然じゃない。いい方法だね」
リリアーナは「そうでしょう」と誇らしげに胸を張り、僕を送り出す。
「今ならちょうど刺繍をしているはずなので、刺繍室を覗いてみてください」
伯爵家の刺繍室。
侍女に通されたものの、夫人は集中しきっていて、僕に気がついていないようだった。
窓辺に座る夫人は、膝に広げた純白の布へ淡い銀糸を落としている。
それはリリアーナの婚礼衣装だった。
一針。
また一針。
迷いのない、静かな音。
僕は少し離れた場所で立ち尽くしていた。
「これは邪魔しちゃいけないんじゃ……」
話しかけたい。
だが、きっかけがない。
ふと夫人は顔を上げ、僕の姿に目を見開いた。
「……何か?」
夫人は一瞬、僕を射抜くような鋭い視線を向けた。
その顔は、どこか緊張で強張っているようにも見えた。
僕は小さく息を吸い込み、夫人の前へ進んだ。
「……あの」
夫人が刺繍に目線を落とす。
「はい」
「植物の件、申し訳ありませんでした」
「謝罪は結構です……みっともない所を見せて、申し訳ありません」
「いえ、そんな……僕の方こそ配慮が足らず、申し訳ありません」
「……いえ」
謝り合戦になってしまう。
そして気まずい沈黙が訪れる。
沈黙を破ったのは夫人だった。
「あの人、殿下が来てくださって嬉しそうです……お嫌でなければ、たまに温室へ顔を出してあげてください……」
「はい、もちろんです」
夫人は大仕事を終えたように、ふうと息を吐いた。
その後は言葉が続かず、沈黙が流れる。
彼女は何かを言いかけては飲み込み、結局、険しい表情のまま黙り込んでしまった。
不器用なほどに、言葉を選んでいるのが伝わってくる。
「その……もしよろしければ、僕にも刺繍を教えていただけませんか」
夫人は顔を上げた。
その瞳は驚きよりも、どこか静かな興味を帯びていた。
「構いません」
小さな刺繍枠と教本が、僕の手に渡される。
開くと、いろいろな書き込みが残っていた。教会の刺繍教室でも使われているものらしい。
「お好きに刺して。糸もご自由に」
そう言って、美しく整理された色とりどりの糸を渡してくれる。
僕が戸惑っていると、
「右上に丸が書かれているページが、初心者向けです。刺したい図案はありますか?」
と声がした。
アルファベット一覧があり、ハンカチに刺繍する際の装飾パターンがいくつか載せられていた。
「あ、このイニシャルを、ハンカチに刺したいです」
「……どのアルファベットですか?」
「えっと……Lを刺したいです」
Lはリリアーナのアルファベットだ。
初めての刺繍をリリアーナに贈ろう、と思いついたのだ。
夫人は目を見開いた。
「Lで間違いありませんか?」
「はい」
なんだか恥ずかしい。
夫人は少し微笑んだ。
「いい選択だと思います」
針をどう動かしたら良いのか迷っていると、
「そこは針を半分出して糸を引っ掛けます」
と、的確なアドバイスが飛ぶ。
そうしながらも、彼女の手元は迷いなく針を動かし続けている。すごい。
しばらく悪戦苦闘していると、
「お茶にしましょう」
と提案があった。
「刺しているうちに、思っていたのと違うものになってきて……上手くできませんね」
弱音をこぼす僕を、夫人はじっと見る。
あきれられたかと心配になってきた頃、夫人は言った。
「色々な人の刺繍を見ると、イメージが固まりやすいかもしれません。参考になれば」
そう言って、夫人は侍女に箱を持ってこさせた。
中には刺繍されたハンカチが並んで入っていた。
「刺繍は、その人の性格が出ます」
夫人は淡々と語った。
「旦那様は……好きな部分だけはとても丁寧です。けれど、それ以外は……少々大胆です」
「ああ、確かに……」
見れば、ヴァイオレット家の家紋が刺されていた。
宝石に添えられたスミレと、それを囲む飾り模様。
そのうち、スミレだけは緻密だが、他はスカスカでガタガタだ。
「エレナは……ここまで元気にさせるのは才能ですね」
こちらはすべてが大きなストロークで、思いつくままに刺したようだ。
「リリアーナは……不器用ですが、丁寧に最後まで刺します。ただ、なぜか思いがけない所を間違えます」
リリアーナの作品は、上質なハンカチの端に、彼女のイニシャルを刺繍したものだった。上品な金糸で丁寧にLが刺されている。周囲のレリーフが少しだけ非対称だが、それがかえって可愛らしい。
「リリアーナの刺繍……素敵ですね」
「初めてで、指を何度も刺しながら、頑張っていました。だからこそ、刺し終わって……最後の最後でミスに気がついて、魂が抜けたような顔をしていました。これ以降は、針を見るのも嫌なようです」
リリアーナの刺繍は、これしかないらしい。それを夫人は大事に保管していた。
正直に言えば――
かなり羨ましかった。
「欲しいですか?」
「あ、いや! リリアーナが夫人に差し上げたものですから!大変、欲しいですが、我慢します!
見ていたら欲しくなるので、目をつむっているうちに片付けてくださ……いえ、やっぱりもう少しだけ見せてください」
「ふふ、正直ですね」
空気が、少しだけ和らいだ。
僕は恐る恐る尋ねる。
「……僕の刺繍はどうでしょうか?」
夫人は、僕の手元を静かに見つめた。
「殿下は、真面目で、一針一針に気持ちがこもっていますね。目がそろっているし、緻密です」
「でも、思うようにいかなくて……」
「慣れていないだけです。慣れれば、思うように刺せますよ」
そして、ほんのわずかに微笑む。
「……我が家で一番、素質があります」
夫人はそう言うと、すぐに顔を背けた。耳の付け根がわずかに赤い。
「我が家」――
彼女は今、確かにそう言った。
僕はずっと呼びたかった言葉を口にした。
「ありがとうございます……お義母様」
夫人は、ゆっくりと僕を見た。
その眼差しは鋭さは影を潜め、穏やかな瞳で僕をじっと見つめている。
「……はい」
短い返事。
けれど、それは僕がこの家の一員として認められた、何よりの証だった。
◇
「アウレリオ様……これ、よかったら受け取ってください。お母様が『欲しがっていた』って」
リリアーナがためらいがちに渡してきたのは、夫人に見せてもらったリリアーナの刺繍だった。
「どうして……」
「これはもともとアウレリオ様に差し上げたくて作ったんです。婚約した後に贈り物をしたくて……」
「え? だってこれ、Lって……」
普通、贈り物は相手のイニシャルを入れるのではないだろうか。
「言わないでください! ご覧の通り、ただならぬ失敗作です!うっかり自分のイニシャルにしてしまって……!もう、渡すに渡せなくて、夜な夜な枕を濡らしていたんですから!」
リリアーナは顔を覆って悶絶する。
まさか、僕のために刺繍に挑戦してくれていたとは思わなかった。
「嬉しいよ。ふふっ」
「笑っているじゃないですか!」
「嬉しすぎて、つい……それに、僕の愛称はレオだから、そのLだと思えば完璧だよ」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
「ねえ、リリアーナ。もしよければ、これからは僕のこともそのイニシャルで……『レオ』と呼んでくれないかな」
唐突な自分のお願いに、心臓が少し速く跳ねる。
「レオ様……ですか?」
リリアーナは一瞬きょとんとした後、花が咲くような笑顔を見せた。
「はい、レオ様。ふふ、なんだか少し照れくさいですね」
僕の婚約者が可愛すぎる。
「私の愛称ならリリーですね」
「うん、リリー」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
言葉にできない程の幸せな時間だ。
「子供の頃のリリーが頑張ってくれたから、こうして愛称で呼び合うきっかけができた。これは家宝として金庫に保管して、観賞用には、国一番の絵師に大きい絵を描いてもらって玄関ホールに……」
「やめてください!見る度に、あの時の絶望と、針で手を刺した痛みがよみがえりそう……!あ、そういえば、アウレリオ様、手は無事ですか?」
慌てて手を取り、指を一本一本確かめる。
こういう所も愛しくてたまらない。
僕の指の無事を確かめてほっとした彼女に、刺していたハンカチを差し出す。
「リリアーナ、よければ僕のももらってくれる? 君を思って刺したんだ」
四つ折りのつハンカチを、リリアーナは嬉しそうに両手で受け取る。
「わあ、ありがとうござ……重っ!」
「その……刺し始めたら止まらなくなって、気がついたらこんなことに。もうハンカチとは呼べないかもしれないんだけど……」
全面に隙間なく刺繍が入ったそれを、リリアーナは大事そうに抱え、くすくすと笑った。
僕もリリアーナに笑い返す。
僕たちの未来も、きっとこんなふうに少しずつ縫い重なっていく。




