第二話
「ほう、間違いなく左鬼の面じゃ。『惨鬼物語』の面をこの目で見られるとは。長生きはするものじゃな」
分厚い眼鏡をかけた白髪の老人は、興味深く面を観察していた。天の国の学舎、『天鏡院』の学者・涼秋である。
風利はその隣で五回目のあくびを噛み殺していた。普段、あまり書物を読む習慣がないので、どこを見渡しても、『二十八物語』に関するものしかない書物に囲まれた涼秋の研究室は、非常に息苦しかった。老人の独り言が終わる気配はない。涼秋の声には興奮と熱意が孕んでいる。昨晩の天御門では、考えられない反応だ。
『二十八物語』とは、五国に伝わる二十八の伝承をまとめた物語集で、未だ多くの謎に包まれている。いつ書かれたのかもわかっていなければ、作者も不明。
各話の登場人物を模して作られた面は、装着したものに強力な力を得られる代わりに人格を奪い物語の『演じ手』と支配する。
五つの御門はこの面を恐れ危険視していた。
長年幾つもの面の回収に尽力していたが、『惨鬼物語』の面を見つけたのは初めてのことだった。
「しかし、いつ見ても草北の作る面は違うのう。一枚一枚、丁寧に作られておる」
涼秋がぼやく。草北とは面の『作り手』の男のことだ。
「そんな危険なものを、あの男は時間をかけて二十八物語に登場する人物分だけ作ったと言うのですか」
「さよう。奴の性格がよく分かるわい。几帳面で妥協を一切許さない。『演じ手』の人選にもこだわり抜いておったからのう。奴が選んだ『演じ手』はこの上なく厄介じゃった」
「ですが今回は違った」
「そうじゃ。この左鬼の面は器に適合しなかったから、こうも綺麗に外すことができたのじゃろう。もし面と器が噛み合っていたとしたら、無事ではすまんよ」
風利は静かに頷く。
「未回収の面はあと十帖分でしたよね?」
「ああ、どの話に出てくる面も、この上なく厄介な力を持つ者ばかりじゃ。『惨鬼物語』に関しても、右鬼左鬼など目ではない鬼が数体おる。もしこれに適合する『演じ手』が現れたら、多くの犠牲者が出ることになるだろう。十六年前のように」
十六年前と聞くと、風利の拳には自然と力がこもった。
天の国の歴史に深く残る惨劇。『二十八物語』の面をつけた者たち、二十八物語衆の襲撃を受け、三つの里が滅んだ。一つは風利の一族の里で、もう一つは疾風の里だった。身寄りを失った二人は、天御門に身を寄せることを余儀なくされた。
国を守るために作られた組織に属する以上、風利はいつ死んでもおかしくない立場にいる。
里の復興はまだ目処が立っていないし、復活する希望も薄い。何もかもが燃えてしまったのだ。跡地には、草木一本生えない状態で、言葉を探すのであれば地が死んでいるのだ。
「もうあのような惨劇は繰り返させません。残りの面も全て回収します」
「探す当てはあるのか?草北が死んで、行方が不明になっていた面の行方を」
草北は十六年前に死んだ。追い詰められたところを、自ら喉を掻き切って死んだのだ。情報を聞き出す前に死なれたので、残りの面の行方は知らずじまいだった。奴が誰に渡したのか、どこに隠したのか、使える手は使って調査したが手掛かり一つ掴めていない状態だった。年に数回、どこからか面を入手した『演じ手』が現れ、その面を回収することはあるが、自我を失った者から情報を聞き出すことはできない。
それゆえ、今回のような大きい手がかりを掴めたというのは、大きな進展だった。
「はい。なんでも、その面を主人に渡したのは、斑一族の商団という情報が手に入りました。そこを洗います」
「斑一族とな?」
涼秋は初めて顔を上げた。
「何か心当たりが?」
「いや、弟子の一人から聞いた話じゃ。近頃、人攫いが多発しておると。それも色々な国で」
「それも斑一族が関係していると?」
「さよう。面の所持者が商団を使って人を集めておるとは考えられんか?面の『演じ手』にふさわしい器を探すために」
「可能性は大いにあり得ます。すぐに報告を!」
「まあ、待つんじゃ」
呼び止められて、風利は嫌な予感がした。
「お主はこの面についての報告をする義務があるんじゃろう?まあ座れ」
風利は渋々、椅子に腰を下ろす。
「惨鬼物語を知っておるな?原本を読んだことは?」
「・・・ありません」
正直に答えた。もしここで読んだと答えたら、後々になってぼろが出るので面倒だった。
「そうかそうか。では、まずはその話からせんとは。もし『演じ手』と遭遇した場合、登場人物たちの力は知っておいた方がいいじゃろう。そしてそれを天御門内で共有するがよい。どれ今茶を持って来させよう」
そう言って涼秋が手を叩くと、黒子を被った人物が盆を持って現れる。これは本格的に長くなりそうだと、うんざりしていると、目の前に茶と茶菓子が出される。
「どうも」
「いえ」
返ってきたのは短い一言だった。しかし、確かに聞き覚えのある声に風利は面食らう。
「貴女・・・」
風利が呼び止める前に、黒子はそそくさと行ってしまった。
「おや?羽龍とは知り合いなのかね?」
「いえ、知り合いというわけでは」
「そうかい。では、早速じゃが・・・」
涼秋は羽龍と風利の関係については、さほど興味はなさそうだった。机には鬼の絵が描かれた巻物が広げられる。
「まずは『惨鬼物語』について一からわかりやすく手短に正確に教えてやろう」
風利は空を仰いだ。話は手短では済まされなかった。
涼秋の話が終わる頃には、日が沈んでいた。今日は叔母の墓参りにも行こうと思っていたのに。今からだと、本家へ戻るのは真夜中になる。
長時間座っていたので腰も痛んだ。聞いた話は何一つとして、頭に残っていない。聞いた話は報告せよと、上から言われているができる気がしなかった。
もうここへは近づきたくない、そう思いながら出口へと向かって長い廊下を歩いていると、曲がり角から巻物を大量に抱えた黒子が現れた。顔は見えないが、先ほど涼秋の研究室で見たのと同じ黒子だということはわかった。
「また会ったな、羽龍殿」
「これはこれは風利殿」
羽龍は巻物を抱えたまま会釈する。背中には大きな木箱を抱えており大荷物だった。
「それらは、書庫へ持っていくものか?」
「はい」
「手伝おう。巻物をこちらへ」
「お客人にそんなことをさせるわけにはまいりません」
「昨晩、助けていただいたことに比べると些細なことだ。さあ、こちらへ」
半強引に巻物を奪い取ったのは、あくまで口実作りに過ぎなかった。この娘には聞きたいことがあった。
「まさかここの研究生だったとは思いもよらなかった。涼秋氏のところで『二十八物語』の研究をしているのか?」
「ええ、そのためにここを選びました。先生には、色々とお世話になっています」
羽龍は答える。口調は穏やかだが、一定の距離を保っていることはわかった。
「昨晩、回収した左鬼の面だが、涼秋氏は随分とお喜びだった。貴女が手に入れたものだということは、知っておられるのか?」
「いいえ、知りませんし興味も持たれないでしょう。先生はご自身の研究しか見えていませんから。しばらくは『惨鬼物語』に関する調べごとで、研究室から出てこないでしょうね」
「あれだけ詳しいのに、まだ調べることがあるのか?」
「無限にありますとも。謎多き文献を調べ、新しく発見したことや解釈をまとめることが私たちの仕事です。寿命がいくら長くても足りません」
黒子の下で羽龍が微笑んだことがわかった。表情は見えない。それでも笑ったとわかる。しかし、素顔となれば話は別だ。
黒子は天鏡院で学者の補佐をする者の装束であり、自ら外さない限り素顔を見せることはない。ゆえに風利は羽龍が自ら黒子を外すまでは素顔を見ることはできないわけだが、その道のりは遠そうだ。
「・・・風利殿は『二十八物語』の中でどの話がお好きですか?」
初めて羽龍の方から話してきた。
「すべて読んだことがないから、気に入った話があるわけではないのだが。『黒蝶物語』だけは印象に残っている。叔母上が好きな話でよく話を聞かせてくれた」
「『黒蝶伝説』、いい話ですよね。私もお気に入りです」
花の国、花宴の里の里長、黒蝶の伝承だ。自身が次代の黒蝶となる娘を産むまで何度も生まれ変わる黒蝶の話を、叔母美雲は嬉々と話していた。確か二百年ぶりに黒蝶が代替わりしたとも言っていた。現在はその新しい黒蝶が花宴を守っているそうだが、他国他里のことなど風利にとっては興味のないことだった。
「『惨鬼物語』に関しては今日初めて全容を知った。多くの鬼が出てくる話だが、あれに登場する響一族の里も月の国に存在したと聞いた時は驚かされた」
「原本に目を通さないとわからないことがありますからね」
羽龍はそう答えると、ふと立ち止まる。
「あ、書庫はこりらです」
危うく通り過ぎそうになったとことを羽龍に呼び止められる。
「おっと、すまない」
「いえ。こちらへ」
風利は羽龍に続いて書庫へと足を踏み入れる。薄暗い書庫には書棚が等間隔で並んでおり書物や巻物が隙間なく陳列されていた。
羽龍は風利が抱える巻物を一本、また一本と慣れた手つきで抜き取り棚へと戻していく。
「ここにあるものはすべて『二十八物語』に関する書物なのか?」
「ええ、ですからよく出入りするんです。見事なものですよね。ここまで文献が揃った鏡院はそうありません」
最後の一本を羽龍は戻し終える。
「ありがとうございました風利殿。おかげで早く片付きました」
「その箱はここではないのか?」
巻物はしまい終えたが、羽龍は大きな木箱は背負ったままだった。
「これは私物ですので」
「そうか。ならいいんだ」
「いえ、お気遣い感謝します。それと風利殿。衣服に埃が・・・」
そう言って羽龍の指が風利の肩に触れる。思い出したのは、昨夜羽龍から手当を受けた時のことだった。蘇った記憶は風利に違和感を与えた。反射的に黒子の腕を掴む。
「風利殿・・・・?」
「お前、昨夜の娘ではないな?」
「・・・鋭いな」
返ってきたのは低い男の声だった。風利の腕を握る力が強まる。
「何者だ?」
風利が尋ねると、黒子は体を少しだけよじらせる。すると、背負っている木箱の右側面が開き中から腕が飛び出してくる。その手には小さな小刀が握られており風利の頬を掠める。思わず黒子の腕を話すと、距離を取られた。
黒子は背負っていた木箱を胸元へ抱え直す。留め具が外れ、蓋がゆっくりと開く。中には上等な着物を着た女の腹話術人形が収められていた。
『驚かせて申し訳ない。何せ羽龍さんから身代わりを頼まれていたもので』
喋ったのは中の人形の方だった。幼い少女の声だ。
黒子が自身の頭巾を外す。女のような顔立ちをした青年だった。
『私は朱音。後ろの操者は京児と申します』
「人形遣い。百糸一族の者か」
『ええ』
朱音が答える。
「なぜこのようなことを?いや、いつからだ?」
『昼間、涼秋先生の研究室でお会いしたのは本物の羽龍さんですよ。入れ替わったのはその後。もし出会い声をかけてきたら、自分の代わりにあしらって欲しいと頼まれまして』
「・・・警戒されていたのか」
『何かと秘密の多いお方なもので』
口ぶりから京児と羽龍の上下関係を悟る。
「確か百糸一族は花宴に仕えていたか」
『さようで』
「ではあの娘が・・・」
朱音の指がそっと口元に運ばれる。
『お察しの通りです』
呆然としている風利をよそに京児は木箱を背負い直す。彼の背後では木箱が閉まる音がした。
『行きましょう。出口までは僕がお送りしましょう』
声は朱音のままで京児は話す。風利は大人しく従うことにした。
『どうして僕が偽物だとわかったんです?他人の声真似には自信があったんですけどね。君に見破られることは予想外でした』
「指が違った」
『指?』
「ああ、昨晩、羽龍殿は手当をしてくれた。その時の感覚と異なったから、別人だと思ったんだ。そちらから私に触れてこなければ最後まで騙されていただろう」
本物の指はもっと柔らかかった。そんなことは死んでも口には出さないが。
『今後の参考にします。傷の方は大丈夫です?』
「大したことはない。すぐに治る」
そう言いながら風利は袖で血を拭う。
『ああ、そう雑に触ると跡が残りますよ』
元はと言えばお前がつけた傷だろうと言いたくなったのを堪えていると、木箱の蓋が開き、手拭いが差し出される。
「・・・助かる」
ここで突っぱねるのも大人気ないので、手拭いは受け取った。そして数歩進んだところで風利は立ち止まる。木箱へ戻る腕は人形のものではなく、人間の腕だったからだ。
「・・・は?」
『どうしました?』
「・・・今の腕、人間のものだったな?」
京児は意味ありげに笑う。木箱の蓋がゆっくりと開く。人形が入っていたはずの箱から艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌をした少女が現れる。
「私が本物の羽龍です」
羽龍はにこりと笑う。雰囲気は大人びているのに、顔立ちは幼かった。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ございません。少し様子を伺っていました」
羽龍の指が肩に触れる。それは確かに昨晩と同じものだった。
「今回は本物でしょう?」
「・・・そのようだな。私を警戒していると聞きましたが、なぜ出てきたのです?」
「そうですね。替え玉を見破ったあなたに興味が湧いたからでしょうか。風利殿で二人目です」
「一人目は疾風か?」
「いえ、渡月さんです。あの人には通用しませんでした」
風利は納得した。渡月を騙すのは容易なことではない。
「なるほど。警戒されていると聞いた時は落胆したが、わざわざ素顔を見せてくれたということは、次は最初から本物と話せると思っていいか?」
「ええ、次からは頭巾を外します」
「では、『二十八物語』で気になることがあった時は、貴女をお尋ねしよう」
「いつでもどうぞ」
羽龍は小さく笑うと一礼する。
二人に見送られながら、風利は天鏡院を後にする。これから美雲の墓参りだ。
日はすでに沈んでいたが、不思議と足取りは軽かった。
京児




