エカチェリーナの半生と気がかり
エカチェリーナが教室のドアを開けると、クラスメイトのご令嬢が気付き、ぱっと花が咲いた笑顔で挨拶をする。それを皮切りにクラスメイトの大半がエカチェリーナへ声を掛けた。
「あら、エカチェリーナ様ご機嫌よう。もうご気分は宜しいのですか?」
「ああ、季節柄、火傷跡が痒くなるぐらいだ。心配をかけたな」
「エカチェリーナ様! 先ほどの授業のノートです、どうぞお使いください」
「やあ、ジョナタいつも助かる。あの教師の講義は一度聞き逃すと追いつくのが大変だからな」
「エカチェリーナ様。今度我が家で催しがあるのですが…」
「大変興味深いがオティリー。そろそろ教師が来るのでその話は講義の後で…詳しく教えておくれよ」
実に如才ない返答。いや、彼女自身その会話を楽しみ上手い立ち回りを意識しているわけではないので、ここまで人に好かれるのは偏に天性のものと言っていいだろう。
エカチェリーナ・サフノフスカヤはルッスィースカヤ帝国の最も高貴な生まれである。黒髪で色白、端麗な容姿は美しさで名高かった母親アナスタシア皇后によく似ており、第三皇女として歓迎された生であった。
第一皇女タチアナ、第二皇女マリア、そして皇太子であり皆に愛された可愛い弟アレクセイと仲が良かった。年の離れた姉二人は、母のアナスタシアと共に看護師の資格を取り負傷兵の手当てをしていたので軍隊では天使と呼ばれていた。
弟のアレクセイは小さく、エカチェリーナは姉として守らねばと勉学に奮起したことも覚えている。小さい可愛いアレクセイは、泣き虫で、女の子のようにもじもじとはにかんでいた。そのせいで同年代の子に揶揄われていたことを知り、弟を守るためと剣術や乗馬を軍隊に混じって一緒に訓練した。
常世の春と謳われた帝国に次ぐ領土は、反対に寒冷な地だった。訓練のために外に出ればたちまち手が悴み、金属に触れれば皮膚がはっついてしまうこともあった。冬になれば強烈な雪と風で、幾度も侵略の手を阻んできた歴史がある。過去の侵略を退けたことからみても勿論軍隊の強さも折り紙付きで、エカチェリーナは逞しく成長した。
皇女相手に幾分か優しく指導してくれたが、エカチェリーナの才能に触れた中佐が直ぐにスパルタ式に方向転換したのは笑ってしまったが。中佐はお偉い人から大目玉を食らったらしい。
第三皇女が良いと言っているのに、可哀そうな中佐。
母と姉が呆れて負傷兵のおまけで手当てをしてくれたのは忘れられない。しかし、そのおかげか活発で物怖じしない社交性が身に着いた。男勝りな口調を覚えたために父が早々に軍隊に混じるなと雷を落としたものの、乗馬や剣術の腕を磨くことを忘れなかった。
そう、幸せな時間だった。
最高の環境で望まれるべくして生まれた姫は、僅か7つで故郷を追われた。
市民革命が起きたのだ。
父ニコライが皇位に就く以前から帝室は失策続きだった。祖父のアレクサンドル3世はしばしば臣下に意志を委ねることがあった。更に皇太后である祖母のアレクサンドラは病を抱えていた。その治療のために正教会から招いたのがかの僧侶グリゴリーだ。
正教会はクリスト教から派生した宗教だが、当時のルッスィースカヤ帝国の正教会はまた別物へと変化していた。神秘主義、―――まあ所謂「神と一体になる」というというやつだ―――が宗教の核になっていたので、神に救いを求め精神の安穏を齎すものではなく、いかに神に近づけるかという活動を行っていたのだ。
それまでは、皆が胡散臭がっていたペテン師集団だった。だが、グリゴリーは正当な正教会の教えを自身なりに解釈し、地域を流離っていた熱心な修行僧だった。そして各地を回り治癒を施していったことで「神の人」と称えられた。
その風の噂を聞き、アレクサンドラは藁にも縋る思いでグリゴリーへ声を掛けたのだ。誤算だったのはその藁が強かであったこと。アレクサンドラの病の原因をピタリと言い当て、発作を鎮めた。今思えば、鎮痛作用のある香草を焚き、催眠療法を実践したに過ぎなかったが、そのことで祖父たちはグリゴリーへ傾倒していった。
逐一、政治について意見を求め、日常生活の些細なことまでグリゴリーの占いに頼った。グリゴリーの策を施して、どれだけグリゴリーの、正教会の影響力を強めたことか。
民衆は無理を強いられる生活に辟易していた。元々、国土に見合った開発額を調達できていなかった。
父と母はどうにか祖父たちを退位させグリゴリーを遠ざけた。国の為に尽くし、金のある大貴族ユスポス家に助力を願いどうにか国を立ち直らせようとしたが正教会の張った根は枯れていなかった。
市民たちが剣を取る手を止めることは出来なかった。市民たちに味方したのはクリスト教の教皇だった。正当な正教会が、ルッスィースカヤ帝国内の正教会腐敗に憤怒し、クリスト教へ斃してくれるよう頼んだのだった。まあ、宗教間の争いに巻き込まれたと言えばそうだが、その種をここまで育ててきたのは帝室の無能だった。
よくもまあ、ここまですくすくと。
城に放たれた火、押しかける民衆、命はここまでだと覚悟した。せめて、弟だけはと可愛いアレクセイの手を引いて隠し通路まで家族と一緒に走った。炎は轟轟と燃え盛り、高い窓に掛かるカーテンを焦がしていた。
驚いたのは窓から覗く市街地だった。城下が燃えていたのだ。押しかける民衆の松明の火、ランプの火ではなかった。明らかに苦しみと復讐から燃えるものだった。
エカチェリーナは暫し呆然とした。民衆は帝室と正教会を憎み追うものだと、帝室が逃げればいいだけの話だと考えていたから。
後から知ったが、グリゴリー属する正教会が民衆弾圧のために武装し、街へ火をつけたそうだ。その中で、日々の生活苦から火災の混乱に乗じて盗みや殺人が多くあったと。帝室の無能は、エカテリーナは革命に伴う恐ろしさを知らなかった。
隣で蜂起した仲間が、明日の生活のためにいきなり襲ってくることがあることを知らなかった。
愛と優しさしか知らなかったのだ。
その時に火が点いた額縁が落ち、エカチェリーナの左半身を重たい肖像画が焼いた。アレクサンドル3世の肖像画だった。自身を押しつぶす炎に包まれた祖父、子々孫々に迷惑をかけ続ける無能、エカチェリーナは悔しさと怒りで咆哮を上げた。家族は痛みと混乱の悲鳴だと思っていた。
その後、フランセイスへ亡命した。サフノフスカヤ王朝は多くの国から皇妃、皇太子を迎えていたのでその伝であった。
いや、繋がりで言えば帝国の方がある。代々の帝室には帝国貴族が多く輿入れしているのだから。それでも亡命先をフランセイスにしたのは、城から脱出した直後ユーゴ・ヴァリエールの手引きでフランセイス行きの馬車に乗せられたからだ。
ユーゴ・ヴァリエールは革命の情報を掴んでいたので、秘密裏に助けに来たのだと。
その後、フランセイス国に保護された後、貴族の親類を頼り、暫し療養した後市井に降りた。何も心配することは無い。中流階級にしてはかなり裕福で、何も不自由はない。伝で、投資と商売をしただけだ。
暮らしぶりとしては、宮殿に居を構えることは出来ないが亡命前と同じような生活水準を保っているほど恵まれている。
一度、ユーゴ・ヴァリエールに尋ねたことがある。何故、助けたのかと。
「勿論、サフノフスカヤ王朝の血を絶やすわけにはいかないと思ったからですよ。貴方方の能力も実に惜しいではありませんか。既に投資や商売でここまで力をつけるなんて素晴らしいじゃありませんか」
自身より4つ上の少年はそう言った。エカチェリーナが10の時なので、確かユーゴは14だったか。革命以前、ルッスィースカヤ帝国が主催した夜会の為に連れられたユーゴとは、交流を目的としたお茶会で一度会ったきりだった。それを踏まえれば無難でありきたりな返答は仕方ないと思えた。
「そうか、改めて礼を言おう」
エカチェリーナは腑に落ちなかったが、礼の言葉を述べた。
そして、よくよくユーゴを観察することにした。
ユーゴは抜け目なかった。やり手と噂の女公爵の母に似たのだろう働きぶりだった。エカチェリーナは市井に降りたからにはそれなりの暮らしをするつもりでいた。弟のアレクセイを御旗にルッスィースカヤ帝国に返り咲くなんて思想を抱く輩を家族に近づけたくなかったのも一因だ。
この結果には納得している。民のより良い未来の為、私たちも皇位以外の別の未来を歩むべきだと割り切っていたので、フランセイスで世話になった親類から貴族が通う学園を勧められた時も頑として首を縦に振らなかった。中流の裕福な子女が通う学園でいいと思っていた。
しかし、それを阻んだのは3度目の邂逅であるユーゴ・ヴァリエールであった。
ユーゴは王立学園を勧めた。しつこいくらいに何度も。貴族の友人たちも囲ったらしく、外堀から埋められていた。気づけば入学申請の書類には己のサインがあり、学園へ提出されていた。
その頃にはエカチェリーナは、ユーゴの思惑を的確に読めていた。
エカチェリーナの最大の魅力は、皇族の血でもなければ、あふれ出る才能、端麗な容姿、カリスマ性でもない。人脈である。
他国に跨るルーツ、その親族との伝、更にそれらから得られる高名な者たち、有識者、類稀なる才能を持つ人物との伝である。それを市井に埋もれさせたくはない、他国へ流失させるなんてもっての外だ。
王国で保護して、利用しようとそういう魂胆であるのが読めた。
いいや、本当はかの宗教間での争いだって、その火種から燻ぶる煙をいち早く感じ取っていたのはユーゴ・ヴァリエールだけだった。
初めて会ったときにはそのことも視野に入れていたのかもしれない。帝室にその情報を流しクリスト教と手を組ませて革命を回避させ、恩を売ることだってできたはずだ。それをせずにいたのは、一番都合の良い形でエカチェリーナたちを利用するためである。いつまでも王国の手元に置くためのものだった。
現に、父と母は中流階級の投資家としては王侯貴族と頻繁にやり取りをしている。姉二人も、王国の有望株と結婚した。フランセイスに骨を埋めるものだと家族は思っている。
余りの身勝手さ、そしてそれを為せる腕が忌々しく、「流石、かのヴァリエール公爵のご子息だ。辣腕家でよく似ている」と吐き捨てたことがある。
あの時の、ユーゴ・ヴァリエールの形相は息を飲むほどの変わりようで、自分は獅子の尾を踏んだのだと背筋に緊張が走ったものだ。あれから、あの男を怒らせることはやめようと固く誓った。恐ろしい形相で睨みつけられたその後、ねちねちと手痛いしっぺ返しを食らったからだ。
両親にエカチェリーナのお転婆話をリークしたり、姉たちにエカチェリーナのサボタージュを告げ口したり、よりにもよって弟にエカチェリーナの失敗談を聞かせて姉の尊厳を壊そうとしたり。
エカチェリーナからしたら理不尽の極みであるが…仕方ない。己の人生ではどうにもならないことがあるのだ。市民革命然り、ユーゴ・ヴァリエールに出会ってしまった事然り。
講義終了の鐘が鳴り、またクラスメイトがエカチェリーナと話そうと席を囲む。人脈やら元皇族やらは差し引いても、彼女は人気者なのだ。変わらず人が好きなエカチェリーナだからこそ、人々はまた彼女を愛すのだろう。
クラスメイトの1人がエカチェリーナに尋ねた。
「そういえば、先ほど2年生たちが騒いでいましたわ。エカチェリーナ様のダンスが素敵だったって」
「ああ、もう噂になってしまったか。この歳にもなってお転婆話を聞かれるとは気恥ずかしい」
和やかな会話である。エカチェリーナはごく普通に「ダンスのお相手はエラ・ベルレブルクだよ。彼女の事が可愛くてね」というと、クラスメイト達は「ああ、あの」と手を打った。
「帝国の、銀の皇女の血筋の方ですね」
「療養目的の入学ですものね。お体は大丈夫なのかしら?」
口々に話題に上るのは、ベルレブルク家と銀の色合いの事ばかりである。少し、「2年生の間では悪い噂があるようだが知っているかね?」と水を向けてやると、周りは「ああ、あの悪評ね」とばかりに頷き、こう返す。
「いくらなんでも、悪意のある噂ですね」
「信憑性に欠けます。母国から離れているのに…ご心痛は如何ほどでしょう」
「2年生に注意した方がいいかしら」
エカチェリーナはその会話に頷いていた。そう、これが普通だ。2年生だけその認識がおかしいのだ。どうにも作為を感じる。
その時、一人の女生徒が「注意をするべきか」と発言した生徒へ、おずおずと忠告した。
「やめた方がいいのでは…だって、“王弟ユーゴの庇護”が公表されたのですから…」
皆が二の句を継げないでいる。そう、“王弟ユーゴの庇護”ということは、この状態をを王弟ユーゴ知らないはずがない。つまり黙認していおり、尚且つ「手出し無用」とそれとなく圧をかけているのだ。
エカチェリーナは、帝国と何らかの取引をしたのだろうと考えていた。フランセイスでの悪評が、ユーゴ・ヴァリエールが尽くすフランセイスに何を齎すのか想像もできないが。
しかし、エカチェリーナはどうにも手を貸してやりたくなった。図書室で黙々と勉学に励む、可愛い妹分。話を聞くうちにかつての祖母を見ているようだった。
祖母は家庭内では良妻賢母、子煩悩であり、子供達の身を案じ、子供達の体温を日記に記していた。勿論孫にも甘く、よく可愛がってもらったものだ。その反面、迷信深く非社交的でヒステリックな性格であったため、当時の民衆の間の評判は良くなかった。
それだけでなく無口な上に、極端に内気でいつも部屋に閉じこもり、必要最低限しか人前に現れず、他者と関わろうとしないアレクサンドラは、周囲には傲慢で冷酷かつ無関心に映ったのだ。
エラとそんな祖母が重なって見えてしまい、エカチェリーナはどうしても動かずにはいられなかった。祖母も祖父も、あれはあれで愛していたのだ。帝室に相応しくなかっただけ、ただの貴族であればそのままでも良かった。それ以上求めなかった。
だが帝室の一員であれば、相応しく振舞うべきだった。
しかし、エラは違う。素直な、内気ではあるが優しい子だ。尋ねられれば必死に頭を巡らし、言葉を選んでゆく様ははにかみ屋の弟を連想させた。それが、周囲に勘違いされて孤立していく様を見るのは辛い。かつて、祖母を理解してくれなかった昔を見ているようで苦しい。
今度は獅子の尾は踏まないようにしよう。可愛い妹分の為に。そう決心したエカチェリーナはクラスメイトに相槌を求められて、特上の笑みを見せた。




