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魔王が逃げて、何が悪い?  作者: 冬野ゆすら
第二章 
19/64

2-1 迷子前提かよ

 間が空きましたが、二章スタートします。

 固まった勇者を置き去りにして、二人は出奔…はせず、イーリスの屋敷に戻ることになった。用意してあった荷が駄目になったので、作り直すとイーリスが言い出したのだ。アーヴェントとしても異議はなく、二人は今、彼の屋敷の一角にある倉庫にいる。

「へぇ、狩人やってたんだ」

「ああ、弓が面白くてな」

 持ち出すものを選びながら、イーリスは過去を語る。


「昔から、一所(ひとところ)に長居するのが苦手でな。季節が変わるころには旅に出て、気に入った町にしばらく居着いて…そんな感じだったな」

 職業はその時々によって、放浪の学者であったり、狩人であったり…いろいろだった。まあ、変わり者と噂はされるが、定住する気がないのでそれでいいかと、適当なことを言って煙に巻いていたことを言う気はないらしい。


「たまたま助けた狩人に、弓を教わった。作り方と、手入れの方法と。後は、獣の見つけ方か」

 正直なところ、魔力を使えば気配は掴めるので、さほど必要ではない技能だった。しかし、微かな足跡や草の乱れ、そんなもので巣を見つけ出すこと自体は面白くて、すぐに飲み込んだ。

 その狩人は弟子でもとったつもりだったのか、山の作法も徹底的に仕込み、イーリスが自力で獲物を仕留められるようになるまで共にいて、別れてからは出会わなかったらしい。


「これが、その弓なんだ?」

「あー…いや、これは複製だ。…壊れる度に作ってたんだが、質のいい弓が出来るとは限らなくてな」

 歯切れ悪く、それでもイーリスは律儀に答えた。

 本職の狩人と趣味の域を出ない自分との差だと諦めて、複製に切り替えることにしたのは、五本以上を作り直したころのことだ。

 弦は張り替え用のものが容易く手に入るので、それでよしとした。矢については目に付いたときに購入し、不足する分だけ複製を作ることにしたので、荷を減らせた。時にはまっすぐな棒だけを入手して、自分で矢羽根をつけたりもしたが、弓以上に出来がばらつくので、それはすぐにやらなくなった。


「わたしの複製は、触感を再現するせいか普通に壊れるんだ。だから予備を必ず一本は持ち歩いてたな」

「けっこう大変だな、それ」

「荷に括り付けるだけだから別に? 大変というかまあ、山中では邪魔になることもあったな」

 そんな話をしながら、イーリスは幾つかの弓をアーヴェントに試させた。…が、弦を引き絞ることが出来ないので取り敢えず見送ることにして、短剣を渡す。戦闘用ではなくて、藪を切り払ったり獲物を捌くときに使うものとして、だが。


「……え? 俺も捌くの?」

「当たり前だ。皮付きの獣なんぞ食えると思うか?」

「そういう理由なの!?」

「そういう理由だが? ああ、捌き方なら教えるから、安心しろ」

 真顔であった。至極当然という顔であったので、それ以上の反論など出来ようはずもなく、アーヴェントは視線を逸らす。

 逸らした先には窓があり、その先には館が見えた。同じ敷地内ではあるが、けっこう離れているなと今更ながらに気づく。


「…あのさ、ホントに読まなくていいのか?」

「ああ、手紙か。今のところ関わる気はないし…別に、読まなくてもいいさ」

 それは、彼らがいた部屋に置かれていた封筒のことである。

 妖皇宮で転移させられていた部屋が戻っていて、その机に置かれていたのだ。イーリスは誰からの手紙なのかすぐにわかったようだったが、手に取ろうとはせず放置した。アヴィがそれに触れても特に何も言わなかったから、今は彼の隠しに仕舞われている。


「…どうした、落ち着かないな?」

「んー…」

 アヴィの作業は手早いが、時折落としたり、物音がするとその元を探したりと、かなり落ち着かない様子である。ちなみにその物音は、イーリスが適当に抜き取るせいでバランスを崩したなんやかやのせいである。

 どうしてと聞きはしたものの、原因など分かりきっていた。


「さっきも言ったが…勇者ならしばらくあのままだし、この屋敷の結界は他者を排除するようにしてあるから、あいつは入れないぞ?」

 あの封印を、勇者が程なく自力突破することが前提の答えである。

 イーリスとしては、あれを完全に捕らえることが出来るのは、それこそ初代か先代、要は自力で渾沌領域を行き来出来る面々くらいだと考えている。だからあれに関してだけは、最大限の危険以上に警戒しても足りないかも知れないと警戒もしていた。

 屋敷に関しては渾沌泉の魔力も流用しているし、その特性も合わせて【妖精の迷い道】も仕掛けてあるので、部屋の結界を蹴破るような気軽さでは何も出来ない。

 本格的にどうにかしようとされたら危ないかもしれないが、まあその前にレディの知るところとなり、自分との完全な決別に成りかねない行為はやめさせるだろう。むろん、勇者とレディ(かつての教え子)を一緒くたにする気はないが、制御するべきはレディなので、結果として同じことになる。

 そこまで考えに入れての「あいつは入れない」なのだが、アヴィは納得していなかった。


「勇者は大丈夫だろうけどさ…」

 その一言に、イーリスは首を傾げた。ならば何を懸念しているのかと。


「妖皇って、自分は其処にいなくても、部屋だけ転移させたりとか出来るんだろ?」

「出来るが…ああ、それを心配していたのか」

 納得したとイーリスは笑う。アヴィが眠っている間のことだったからと話したが、どうやら転移させるための条件のことを言い忘れたようだ。


「転移には、屋敷内から招く者が必要だ。その封筒に何を仕込むという手もあるが…私を敵に回すような真似はしないさ」

「…敵?」

「この場合は政敵かな」

 さらりと流した言葉のはずなのに、アヴィは固まっていた。引っかかりそうな言葉など一つしかないが、そんなに驚くことだろうかと、イーリスは彼を見る。


「妖皇に魔力で敵うわけがないんだ。まして勇者もいるし、敵対するなら政治的に…他の国を動かすのが早いだろう?」

「理屈はわかるけどさぁ!?」

 アヴィの声に勢いが戻ったところで、イーリスの荷造りは終わった。

 そこそこ大きな背負い袋には、毛布や水筒などの野宿に必要と思われる道具が詰め込んである。これはけっこうかさばるので、アヴィの分は彼に渡した。

 話に出した弓と矢筒は、すぐに取り出せるよう自分の荷の側面に。アーヴェントには先ほどの短剣を腰に履かせた。弓はまあ、相当な練習がいるようだし、必要なときに複製を作ればいいだろうと諦めた。


「…それって、他国の中枢に手出し出来るってことだよな? で、レディのそのことは知ってる?」

 荷造りを奪われて手持ち無沙汰になったアーヴェントが、改めてその意味を問う。

 時間はかかるけどな、とイーリスが頷いた。


「教えた覚えはあるし…勝手に建国を宣言されたと、未だに怒りを収めない隣国がある。そんなに難しくはないだろうな」

 まあそのころの伝手が使えるわけもないので、時間はかかるだろうが、貴族の中に入り込むことなど難しくはない。入り込んでしまえば、内側からひっかき回すだけなので、楽なものだろう。

 あっさりと認める彼の言葉に、ふと気になるところがあった。たしかに勇者の話では勝手に建国宣言をしたようだったが…何時の話だった?


「…あのさ、建国って何年くらい前の話だっけ?」

「ざっと百二十年前」

「そのころの当事者なんて生きてないだろ!?」

「だろうな。…ま、そういうものだ。代々続くっていうのは、代々の恨みを継いでいくってことでもあるのさ。…妖魔(私たち)には、わからない感覚だな」

 寿命がないに等しい上に、子を成すこともない妖魔に、代を重ねて何事かを成すという感覚はない。そういう事実があるということは認識していても、理解まではいかないと、その程度である。


「持て余した土地でさえ”奪われた”なんていう奴らだ。動かすのは難しくないさ。こと、この国相手ならな」

(どっちかってーと、他人事(ひとごと)だから客観視出来てるだけな気もするけど…先代から譲り受けた屋敷だからだよな、あれ)

 言葉にはせず、アーヴェントは内心で呟いた。つい先ほど、勇者がこの屋敷をどうこう言ったときのイーリスの瞳は、非常に冷たかった。あの目で自分が見られたときのことなど、考えたくもないほどに。あれは自分の財産を奪われるからと言うより、受け継いだものを奪おうとする勇者への怒りに思えるのだが。


「さて、終わったぞ。後はこれを隠しにでも入れて置くといい。換金するのに手頃なはずだ」

 差し出したのは、小さな袋に入った貨幣と、幾つかの宝飾品である。銀貨がほとんどで、金貨は数枚。これは勇者が国外に出るときに換金したと言っていたから、現行貨幣のはずだ。


「まあ、現行貨幣でなくても含有量次第でいくらかの値はつくだろうし、…いっそ骨董的価値がつくほうがいいか。それなら確か…」

「いやいや、これでいいから、十分だからっ! てか、別行動前提にしないで?」

 何やら話が変な方へ走りそうだったので、アーヴェントが慌てて止める。そもそも、右も左もわからない状態で持たされても、宝の持ち腐れというか買い叩かれて終わる気だけだろう。


「……あ、悪い」

 悪い、とイーリスが呟く。何しろ基本が一人旅だったから、連れがいるということで少し、浮かれているようだと自戒する。


「でもまあ、持っててくれ。町中ではぐれることもあるだろうし、邪魔にはならないだろ?」

「迷子前提かよ」

「文字が読めるようになるまではな」

 うぐ、とアーヴェントが押し黙る。確かにその通りである。手紙を隠しに入れたまま開封していないのは、単純に文字が読めないためだ。だが今までの会話で、そんなことに気づきそうなやりとりはなかったはずなのにと、アーヴェントは訝しむ。


「いや、勉強せずに文字が読めるわけがないから」

「へ?」

「当たり前だろ? 私でも地道に覚えたんだぞ?」

 彼ら妖魔は、この世界の知識を持って生まれてくる。しかしそれは言い換えると、「情報を知っている」ということであって、文字の読み書きは情報のうちに入らない。まあ要は、会話が出来ても本が読めないとか、それが文字なのはわかるけれど、読むことが出来ないとか、そういうものである。


「目的のある旅でなし、少しずつ覚えていけばいいさ」

「ま、そのつもりだけどさ。よろしく、イーリス先生」

「ああ、任されよう。他にもいろいろ教えたいこともあるしな。…さて、行こうか。歩けるか?」

「ん、平気だな」

 けっこうな大きさになった荷物だが、重量がうまく分散されているらしく、二、三歩歩いてみても、ふらつくこともない。流石に旅慣れてるなとアヴィは内心で感心していた。


「…あれ? 食糧とかなくて平気?」

「ああ、ここには置いてないしな。転移先で買えばいい」

「あー…やっぱり転移するんだ……」

「?? 歩いてたら勇者に見つかるぞ?」

 何を言い出したかと一瞬呆れたイーリスだったが、そう言えば、と思い出して苦笑した。


「空間転移以外にも距離を詰める方法はあるから、心配するな」

 アヴィを連れて外へ出た彼は、庭園へと歩いていく。それに従うアーヴェントは、周囲に咲き誇る草花を見てふと、呟いた。


「枯れるんだろうな、これ」

「ん? …ああ、花か。どうだろうな、もともとそこらに生えてたものだし、雑草取りくらいしかやってないが…そうだな、少し摘んでいくかな」

 答えたイーリスが、薬草と思しき一群に入り込み、摘み始めた。アヴィも呼ばれて言われるままに摘み取り、…両腕にいっぱいとなったところでハタと我に返る。


「あのさ、急がなくていいの?」

「急ぐさ。まあ、少し待て」

 山となった草を抱え、イーリスに誘導されるまま、四阿に足を踏み入れる。不意打ちで切り替わった空気に、アヴィは一瞬だけ息を詰まらせた。いや、正確には、呼吸が出来なかったというべきだろうか。


「なんだ、これも駄目か? 【妖精の迷い道】の応用なんだが」

「…駄目ってほどじゃ、ないけど」

 息が詰まった…ような気がしたのは、ほんの一瞬だ。空間転移のような酔いを感じたわけでもないし、おそらく理由は違うだろうとアヴィは考える。そして周囲を見渡した。


「…さっき、壁…なかったよね?」

「ああ、鍵を持って正しい手順で入ったときだけここに出る。後はそのまま、四阿でお茶会行きだ」

「…鍵?」

 そんなものを渡された覚えはないと思いめぐらして…ふと、抱えた大量の薬草を見る。


「まさか…これ?」

「正解。正確には、私が持つ薬草と同じもの。だな。量はなくていいんだが」

 実を言えば、そもそもこの庭園に人を招くことがなく、この仕掛けが生きたことはなかった。だがまあ術の研究としては面白かったので、悪くないと思っている。

 アヴィの薬草も受け取り、自分の薬草と纏めて重量を計って束にする。そしてそれを、背負い袋に括り付けた。

 まだ重量に余裕があることを確かめると、イーリスは部屋のあちこちから瓶詰めになった何かを集め出す。


「っておい、荷物増えてんぞ?」

「ああ、これはすぐに無くなるから気にするな。ここに置いてあっても無駄になるだけからな」

 それはどうやら、乾燥させた薬草らしい。それぞれに名前が書いてあるようだが、これもやはり、読むことは出来なかった。


「読めるか?」

「いや、まったく。てか、文字に見えない」

 不意に突き出されたその瓶も、文字に見えない文字が書かれている。当然、読めるはずはない。というか、ほかの瓶はまだ、文字に見えたのだが。


「…まあ、古代文字だから仕方ないか」

 どことなく寂しそうなイーリスであるが、そこに聞き捨てならない言葉が混ざっていたので、アヴィは思わず問いつめた。


「なんでわざわざ古代文字(そんなもの)使ったんだよ?」

「一応、古代の文献にあった薬草だったからな。あと、この辺りの薬も古代文化の文献から創ったから、区別がつくようにな」

 それはまあ、納得できなくもない理由であったけれど。


「そんなこともやってたのか」

「ああ。ちなみに人間が使う薬も、そこそこ把握してるから、旅先では重宝されるぞ」

「あー…納得」

 最初は単純に、集めた野草を売ったり、物々交換に使うだけだったが、旅の中で薬草や薬の使い方を教わると試したくなり、かさばらないので荷が減るという利点もあって、だんだんと作れる薬が増えていったというのが真相である。


「さて、アヴィ…アーヴェント、こっちへ」

「ン。…何、改まって?」

「いや、もう略称で呼ぶ必要もないし」

「あー…もう魔王さまじゃないんだっけ」

「一応、まだ魔王だけどな。元々が二代目との契約だ。単に筆頭を譲らされただけだし…二代目が生きてる限りは、魔王のままだ」

 そんな話は聞いていないと、アーヴェントが半眼で彼を睨む。勇者に知られたくない話だったので、先ほどは言わなかったのだがと、イーリスが苦笑した。


「もう一つ言うなら、私の名前を封じたのも二代目だ。…自分の名が思い出せないのは気持ちが悪いから、折を見て旅に出るつもりだったんだが…まあ、今ではどうでもいいかな。きっちり、話はつけたいところだが」

 アーヴェントから貰った(イーリス)の名は、すぐに馴染んだ。だからもう、その気持ち悪さはないし、名前を取り戻そうと言う気もない。だがまあ、生きているなら恨み言の一つや二つ…そして狙い通りレディが妖皇になったことを聞かせるくらいは、してもいい。世界中を旅する以上、きっと何処かで出会えるだろうから。


「さて、始めようか」

 アーヴェントが隣に来たことを確認し、イーリスは机の天板を弾いた。一瞬、波打つかのような揺れを見せた天板は、六角地図に姿を変える。


「あ、これ、あのときの?」

「ああ、同じ術だ。元に戻ってるが…ま、かまわん、これで行く」

 アヴィが弄って形状を変えたはずの地図は、元に戻っていた。ただ、そこに表される図柄は、あのときの簡易な図案のままである。どういう条件で変わるのか、気にならなくもなかったが、流石にそれで長居をするのは莫迦の所行だと諦める。


「行くぞ」

 中央に置かれた四阿らしき図を滑らせ、天板の外へ弾き出す(フリック)。周囲の景色は流れ、様子を変えた。それで止まることなく、二度、三度と繰り返し、四度目にイーリスが手を止める。既に屋敷の姿は見えず、周囲は砂漠と化していた。


「やはりこれなら平気か」

「平気って?」

輿図(よず)を使った転移術だ。酔ってないだろう?」

 あ、とアーヴェントはようやく気づく。確かに、空間を移動したはずなのに何とも無かった。


「理屈はわからんが、まあこれで酔わないなら何とでもなるな」

「俺は助かるな。興図って言うんだ、これ。どういう意味?」

「…たしか初代が、自分で興す地図だからとか言ってた気がするが、どうだったかな」

 輿図自体は、初代が使っているのを真似ただけだが、それを使った転移術はイーリスの発案である。どういうわけか、初代がやると地図任せで放浪することになっていたから、主にイーリスが転移術を発動させていたが。

 二代目は、そもそもこの術を好まなかった。自分で歩くのが楽しいのだと、そう言って。

 イーリスとしても、移動のためにこの術を使ったことはほとんどない。主に領地内の情報収集に利用してて、急行したいときに何度か使った程度だ。


「あのときも驚いたけど…どうなってんの?」

「地図と空間を同調させてるだけだが?」

「……えっとー…地図を動かすことで、空間が動く?」

「まさか。…そうだな、こういうことだ」

 こんこんと、四阿を叩く。と、頭上から同じ拍子でゴンゴンと音が響いた。


「え? …え、え??」

「要は、この四阿ごと地図の上にいるようなものだな。四阿を動かしたのと同じだけ、私たちも移動するのさ」

「それさ、めっちゃすごくない?」

「移動できるのは、せいぜいが二,三人だけどな。魔力の消費が激しいから、多用も出来ん。…ああ、いいよ、動けなくなるほどじゃない」

 顔色を変えたアーヴェントを制止し、笑う。実の処は、動けなくなるほどの魔力を消費するはずだった。しかし、簡易情報で稼働していたせいか、その様子はないことに内心で驚いている。

 それに、と周囲を見渡して、予定以上の距離を稼いだことを確信する。遠目にだが、境界標が見えていた。


「さて、ここからは歩きだ。なに、大した距離じゃないさ」

「それはいいけど、机どうするの?」

「ん? …こうするが?」

 興図を消した上で机を(はた)く。コンと音がしたと同時に机は消えた。乾いた風が周囲を吹き抜けて、そこがもう砂漠の端であると教えて消えた。


「…あれ? じゃ、もしかして、あの小屋って…イーリスが作った?」

「ああ、あれは資材だけ作って、組み上げは人間の職人に任せたんだ。あの規模のものの複製は面倒でね」

「えー…」

「本職に敵うものじゃないよ、複製なんてな」

 どうやら彼は、妖魔なら何でも出来るという誤解があるようだとイーリスは気づいていた。そう言えば、メモリアの傾向として、魔法に過剰な憧れを抱くものが多いと言われていた気がしなくもない。しかし、過大な誤解は騒動の元なので、解いておくに越したことはない。


「なあ、アヴィ。今の内容(はなし)で、どうして複製だと考えた?」

「考えたって言うか、なんか空気が違う気がしたから」

「…それだけか?」

「……だと思うけど?」

 確かに、小屋に入った瞬間に何か感じていたようだったが…果たしてこのことだったのか。事実だとすれば、かなり鋭敏な感覚を持っていることになるなと、イーリスは認識を改めた。

 もの知らずなただの友人…とは、いかなさそうだ。


「固着しているとはいえ、魔力の塊には違いない。まあ、あれを感じ取れる奴なんて滅多にいないから、気のせいかも知れないけどな」

「あ、ひでぇ。いいさ、そのうちに気のせいじゃないって証明してやる」

 ふふん、とイーリスは鼻で笑う。とりあえず、弓が複製であることに気づかなかったから、道は長いだろうなと思いながら。


「さて、行こうか…ってアヴィ、お前いつまでその格好でいる気だ?」

 え、とアヴィは自分の姿を見る。…確かに、勇者と一緒にいた頃の服のままだ。イーリスの隣にいると、あわないことこの上ない。

 改めて見ると、どこかの令嬢が旅に出たかのような服装である。

 厚めの生地で作られたガウンのような長衣(ちょうい)に、ふくらはぎを隠す丈のスカート。靴はかなり簡素な作りだが、編上靴と言っていいだろうか。中には生成(きなり)のブラウスで、育ちの良さを伺わせる。…ただ、なんというか。


「…砂漠に合わない」

「そうか? …なら、どんな服装(もの)が似合う?」

「ーー砂漠を行く民の服」

 アヴィが呟くと、イーリスの装いががらりと変わった。

 スカートは足首までのゆったりしたもので、ブラウスは長めの丈、半袖の短いシャツに。ガウンは消えて、頭ごと上半身を覆うスカーフーーチャドルに。靴だけはそのままだが、まあ町の人間が見た程度では、そこまで気が回る者は少ないだろう。


「おま……っ」

 信じられないという表情で、イーリスは額を押さえた。発動中の術を書き換えるだけでもあり得ないのに、現界させた衣服を作り替えるなど、どうやったそんなことが出来るのか、皆目見当がつかないのだ。

 ちなみに、アヴィ自身も同じように衣服を変えている。足首までの貫頭衣の色は生成、頭に被る布(カフィーヤ)も同じく生成で、靴はイーリスと同じようなものを履いていた。


「…ああ、確かに見たことはあるな」

 砂漠を越えて旅をするという隊商が、こんな服装だったような覚えがあった。ただ細部までは覚えていないから、当人が見ればどれほどの違和感があるか、見当もつかないが。


「俺もうろ覚えだけどさ。さっきの格好で砂漠を越えたっていうよりは、マシだと思う」

「…そうか」

 実はこの先に妖魔の国しかないので、この砂漠を越えてきた時点でかなり怪しいのだが…まあ、そこはなんとか丸め込めばいいかと、悩むことは放棄した。

 改めて二人は歩き出し、やがて目印となる境界標に辿り着いた。


「砂の色が違うの、わかるか?」

「砂? …何か向こう、黄色っぽい? こっちは白いのに」

「色が変わる辺りから、緩衝地帯だ。術も魔法も禁じられる。現出させたものは無事だけどな」

「? …あ、そうか」

 妖魔の身体は肉体ではなく、魔力の塊である。故に現出させたものまで消えてしまうと、存在そのものが消えることに繋がるので、初代がそんな仕掛けを施したらしい。同時に、人間が使う魔法も打ち消してしまうので、弱い魔物たちはこの砂漠まで逃げ込んでくることもある。…ちなみにその一部の魔物を、初代は愛玩動物兼通信手段として使っていた。


「まあ、どういう術にしたのかは知らんが」

 聞いても面倒なことになりそうだったことと、妖皇が代替わりしても継続するように術をかけたということだったから、藪をつつくのは止めておいた、が正確な処である。


「しばらく歩けば抜けるが、その先に警備隊がいる。交渉は私がするから、何も言うなよ。あと」

 アヴィを見上げ、その目を見据えてイーリスが告げる。


「主たる権限を持って命じる。町中では許可無く術を使うな」

「ーー受領いたしました」


 封じることが火種に繋がるかもしれないと、思わなくもなかったが…封じないことによる火種の方が厄介だとの判断である。


「ところで魔王様?」

「…なんだ?」

「アヴィに戻ってるけど、気づいてる?」

「…………」

 やっと、二人が逃げ出したぞ。

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