第61話
法廷は、一瞬にして地獄絵図と化した。
吹き飛ばされた私の網膜へ焼きついたのは、現実とは思えないほど恐ろしく、そして残酷な光景だった。
原告席と被告席。
勝利を確信してふんぞり返っていた坂巻と、絶望の中でへたり込んでいた堂島。
二人が座っていた椅子の座面――その内部から、指向性を持った数千度のオレンジ色の業火が、臀部から頭上へ向かって一直線に噴き上がったのだ。
悲鳴を上げる時間すらなかった。
坂巻と堂島の身体は、太陽のような超高温の爆炎に一瞬で飲み込まれ、肉も、骨も、血液も、形を失うほど激しく焼き尽くされていった。
二人の座っていた場所には、真っ黒なすり鉢状のクレーターと化した椅子の残骸と、焦げたスーツの切れ端だけが残っていた。
坂巻も、堂島も。
つい数秒前まで、この法廷で互いを裁き、憎み合っていた二人の人間が、そこから消えていた。
「あ……ああ……ッ」
私は床へ這いつくばったまま、目の前で起きた光景を理解できず、全身を震わせていた。
金属探知機も、X線検査も、何の意味もなかったのだ。
(……すり替えられていたのか!)
ようやく、恐るべき可能性が脳裏へ閃いた。
犯人が沈黙していた、この二ヶ月間。
それは逃亡でも、平和の訪れでもなかった。無能な警察が犯人の影すら踏めずに右往左往している間、犯人はただ悠然と準備を進めていたのだ。
この二ヶ月のどこかで、犯人は裁判所へ出入りする業者のシステムへハッキングを仕掛けるか、あるいは自ら清掃業者などに扮し、この法廷の『原告席』と『被告席』に置かれている椅子そのものを、爆発装置を内蔵した特注品へ物理的にすり替えていた。
椅子を丸ごとすり替えるのはリスクが高くとも、座面の布地を剥がしてクッションの中身のウレタンを抜き取り、薄型の爆薬を仕込むだけなら業者の手荷物で容易に偽装できる。
だからこそ、今日、爆弾を持ち込む必要などなかった。
犯人はただ、この第一回口頭弁論の開廷の瞬間、二人の人間が法廷という絶対安全圏を疑うことなく、自らの意思で『死の特等席』へ深く腰を下ろすのを、暗闇の中で静かに待ち続けていただけなのだ。
ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!
突然、法廷内に設置されたスピーカーというスピーカーから、耳を劈くようなけたたましい警告音が一斉に鳴り響いた。
凄まじい熱波と黒煙が法廷内に充満し、スプリンクラーが作動して大量の水を降らせる中、壁に設置された証拠提示用の大型モニターが強制的に切り替わった。
映し出されたのは、見覚えのある毒々しい黒と赤の画面だった。
【大罪・色欲の終焉】
【大罪・怠惰の終焉】
「な、なんだこれは!?」
「助けてくれぇぇッ!」
パニックに陥った傍聴人たちが、水浸しになった床を這いながら出口へ殺到していく。
その阿鼻叫喚の中で、スピーカーから流れていたノイズが止み、あの理知的で、悪魔のように冷酷な男の声が法廷全体へ響き渡った。
『――ごきげんよう、法の番人たる皆様。そして……いつも最前列で私のショーを楽しんでくれる、真下刑事、ならびに久我幹事長』
「犯人……ッ!」
私はずぶ濡れになりながらも久我を背後へ庇い、天井に設置されたカメラを鋭く睨みつけた。
『二ヶ月ぶりだな。無能な警察組織が私に勝利したと大嘘をつき、お前たちが平和ボケの夢に浸っていたこの期間……私は心底退屈していたよ』
犯人の声が、法廷を満たす重苦しい空気をさらに凍りつかせていく。
『警察は私の影すら踏めず、ただ保身のために虚勢を張るばかりだった。私が何もしなくても、お前たち大衆は勝手に特等席へふんぞり返り、警察の嘘を信じ込み、安全な檻の中から別の人間へ石を投げて喜んでいた。実に滑稽で、分かりやすい生き物だ』
スピーカーから流れる嘲笑は、警察の無能さと大衆の愚かさを徹底的に抉り出していた。
『さて、本日の判決を下そう。お前たちの法律などという生ぬるい言葉遊びで、あの二匹の醜悪な怪物を裁くことなど到底不可能だ。彼らが一体どれほどの命を食い物にし、その血肉の上でふんぞり返ってきたのか。私がここで、全国民へ向けて教えてあげよう』
モニターの画面が切り替わり、堂島慎太郎の顔写真が、どす黒い炎のエフェクトと共に大きく映し出された。
『まずは、大罪「色欲」の罪人、堂島慎太郎』
犯人は淡々と、しかし深い軽蔑を込めて語り始めた。
『この男は、民衆の代弁者を気取り、社会の悪を鋭く糾弾する「正義の顔」を被っていた。だが、その裏側はあまりにも醜悪な捕食者だ』
モニターの端では、堂島の裏の顔を告発する無数の音声データや、被害女性たちの悲痛なメッセージ履歴が滝のようにスクロールしていく。
『堂島のもとには連日、権力者による隠蔽や理不尽に苦しみ、行き場を失った立場の弱い女性たちが、最後の希望を求めて縋りついてきた。だが堂島は、防音扉で閉ざされた密室の編集長室で彼女たちの震える肩を抱き寄せ、「私が君の悲痛な声を世の中に届けてやろう」と囁いた』
犯人の声が、さらに冷たさを増した。
『そして、自らの圧倒的な権力を利用して彼女たちを次々と蹂躙し続けてきた。逆らえば、その人生を切り貼りしてメディアで抹殺すると脅し、己の支配欲と情欲を満たすための玩具として飼い殺しにした。これぞまさに、裁かれるべき「色欲」の極みだろう』
続いて画面が切り替わり、不敵な笑みを浮かべる坂巻宗秀の顔写真が映し出された。
『そして、もう一人。大罪「怠惰」の罪人、坂巻宗秀』
『ヤメ検の大物弁護士であり、久我派閥の猟犬。彼は絶望の淵にいる者たちへ「法的救済」をちらつかせて近づき、相手の足元を見て着手金という甘い汁を吸い尽くす。だが……いざ自分が権力と真っ向から戦うべき局面になると、厄介事には一切関わろうとせず、徹底して逃げ回る』
法という名の暴力を盾にした、卑劣な精神的拷問の手口が、スピーカーから次々と語られていく。
『坂巻は、高級なレザーチェアに深く腰掛けたまま、「これが現実だ、受け入れろ」「波風を立てても無駄だ」ともっともらしい理屈を並べ、相手の気力を削ぎ落とし、一方的な泣き寝入りを強要し続けた』
犯人の声に、鋭い嘲りが混じった。
『他者の悲鳴を右から左へ受け流し、己の安楽と地位を守るためなら平気で人を絶望の底へ突き落とす。法という剣を手にしながら、それを振るうことすら放棄した究極の事なかれ主義。これこそが、取り返しのつかない「怠惰」なのだ』
モニターに、堂島と坂巻の写真が並んで映し出される。
『……彼ら二人は、法とメディアという、この国で最も神聖で傲慢な「特等席」に座りながら、弱者を見殺しにし続けてきた。だからこそ、裁判という茶番が始まる前に、その特等席ごと消し去ってやったのだ』
画面が再び切り替わった。
今度は、法廷内で起きている惨劇そのものが生配信され、その横をリアルタイムのコメントが怒涛の勢いで流れ始めた。
『堂島、最低のクズじゃねえか!』
『坂巻もヤバすぎる。弁護士のくせに依頼人を裏切ってたのか!』
『警察の制圧発表はやっぱり嘘だったのか!? まんまと騙された!』
『警察無能すぎだろ! 二ヶ月間も何やってたんだよ! ふざけるな!』
コメント欄の空気が、恐怖から怒りへと一気に反転していった。警察への底知れぬ不信と、犯人に対する異常な熱狂が入り混じる。
『……さあ、目覚めの時間だ』




