第60話
だが、現実として何一つ爆弾事件は起きていない。
明日は裁判の最初の日。しかも場所は、金属探知機とX線検査が完備された東京地方裁判所の法廷だ。 日本で最も安全な密室の一つと言っていい。テロリストが物理的な攻撃を仕掛ける隙など、どこにも存在しない。
私は、久我幹事長の身辺警護という本来の任務に集中しようと、自分自身へ言い聞かせた。
* * *
翌日、午後一時。 東京都千代田区霞が関、東京地方裁判所。
裁判所正面玄関前には何重もの規制線が張られ、その外側には、傍聴券の抽選を求める数百人の一般人が長蛇の列を作っている。
さらに、その周囲を各局のテレビカメラと報道陣が、獲物へ群がるハイエナのように取り囲んでいた。
『――現在、東京地裁前です! 日本中を震撼させたフェイクニュース事件。堂島慎太郎元キャスターの裁判、いよいよ本日、第1回口頭弁論が開かれます! 世間を欺いた代償はどれほどのものになるのか、注目が集まっています!』
リポーターの甲高い声が飛び交う中、私はマイバッハから降りると、久我幹事長の周囲へ油断なく視線を走らせた。
この数百人の群衆の中に、久我を狙う暴漢が潜んでいる可能性は否定できない。
だが、人々は皆マスクをつけ、スマートフォンへ視線を落としており、あからさまな殺気を放つ者は見当たらない。
私たちは久我幹事長の特権を使い、一般の抽選列を横目に、関係者用の入口から裁判所内部へ入った。
入口には空港並みの厳重な金属探知機ゲートと、手荷物用のX線検査装置が設置されていた。
久我であろうと例外ではない。 私たちも厳しいチェックを受け、ゲートを通過した。
(……これだけ厳重なセキュリティだ。法廷内へ刃物や爆弾を持ち込むことなど、物理的に不可能だ)
警戒すべきなのは、法廷内で起きる突発的なパニックや、傍聴席から誰かが飛び出してくるような直接的襲撃だけだろう。 私はそうリスクを限定し、久我の斜め後ろを歩きながら、広大で無機質な廊下を進んだ。
向かう先は、重大事件で使用されることの多い、地裁でも最大級の『第103号法廷』。 重厚な木製扉を開けて中へ入ると、すでに傍聴席の半分以上がマスコミ関係者で埋め尽くされ、異様な熱気とざわめきが渦巻いていた。
法廷正面の一段高い場所には、三人の裁判官が座る法壇。
その手前のフロアを挟むようにして、向かって左側には『原告席』、右側には『被告席』が配置されている。 それぞれの席には、実用的な布張りのクッションが備えられた、無機質で機能的な椅子が並べられていた。
私と久我は、傍聴席最前列の隅へ陣取った。
久我は腕を組み、これから始まる見世物を楽しむような冷酷な笑みを浮かべている。
私はその斜め後ろに立ち、法廷内にいるすべての人間の挙動へ鋭く視線を配り続けた。
開廷五分前。
法廷横の扉が開き、まず原告側――久我派閥のお抱え弁護士である坂巻宗秀が、数名の若手弁護士を従えて悠然と姿を現した。
本来、民事訴訟の第一回口頭弁論に原告本人が出廷する義務はない。現職の副大臣である佐々木が、わざわざマスコミのハイエナどもが群がる裁判所へ姿を現すはずもなく、法的手続きのすべてを代理人であるこの男へ一任して欠席しているのは、現実の裁判としてもごく自然なことだった。
冷たく光る銀縁眼鏡。 その姿には、自らが仕掛けた完璧な包囲網で獲物を仕留めにかかる猟犬のような余裕があった。
坂巻は傍聴席の久我に気づくと、恭しく一礼し、余裕の笑みを浮かべたまま原告席の椅子の横に立った。
続いて、反対側の扉が開いた。 その瞬間、法廷内の空気が変わった。 嘲笑と悪意が入り混じった、どす黒いざわめきが広がっていく。 現れたのは、被告――堂島慎太郎だった。
(……あれが、堂島か)
私は思わず目を疑った。
民事訴訟では被告本人も欠席するのが通常だが、今の彼には代理人を務めてくれるまともな弁護士すら一人も残っていないのだろう。 かつて夕方のニュースで、国民へ堂々と正義を説いていたカリスマキャスターの面影など、もはや微塵も残っていなかった。
高級だったはずのスーツはよれ、白髪交じりの髪も光沢を失い、荒れ放題になっている。
何より異様なのは、その目だった。 焦点が定まっていない。
傍聴席から注がれる無数の視線に怯えるように肩を震わせ、びくびくと足を進めている。
二ヶ月間に及ぶ徹底的なネットリンチと、逃げ場のない法的追及。 かつての英雄は、完全に精神を破壊された抜け殻へと成り果てていた。
堂島は周囲から浴びせられる無数の悪意から逃れるように被告席まで辿り着き、力なくうなだれた。
午後一時三十分。 法廷奥の扉が開き、三人の裁判官が入廷した。
「起立!」
書記官の号令に合わせ、法廷内の全員が立ち上がり、一礼する。
「開廷します。着席してください」
中央の裁判長が低く、重々しい声で告げた。 その言葉に従い、法廷内の全員が再び腰を下ろす。
原告席の坂巻は、これから始まる完全勝利のショーに薄い笑みを浮かべて深く腰を下ろし、被告席の堂島は、逃げ場のない絶望に押し潰されるように椅子の背もたれへ重く身体を預けた。
二人が、それぞれの『特等席』へ全体重を完全に預けた、そのコンマ数秒後。
地響きのような轟音が、法廷全体を揺るがした。
「うおおおおおおッ!?」
「きゃあああああああッ!!」
鼓膜を突き破るような爆発音と同時に、凄まじい衝撃波が法廷内を駆け抜けた。
傍聴席のマスコミや一般人が、爆風に薙ぎ払われ、ドミノ倒しのように次々と床へ倒れ込んでいく。
「幹事長! 伏せてください!!」
私は反射的に久我へ覆い被さり、その身体を床へ押し倒して、爆風から庇った。




