甘い香り
「キクっち、お菓子食べる?」
「ああ、ありがとう」
翌日の昼休み。昨日一緒にパンケーキ屋へ行ったギャルの一人、春宮なぎさに話しかけられていた。
彼女は前の席に座り、膝の上に載せた通学用の鞄からチョコレートを纏ったクッキーを複数枚取り出し、個別に梱包された一つを手渡してくれた。
春宮とは同じ子供食堂へ通っていたことが判明して、親近感でも持たれたのか、こうして昼食を終えた俺に話しかけてきた。
「昨日は楽しかったね、キクっちカラオケが初めてって言ってたわりには沢山歌えてたじゃん」
「兄ちゃんから教えてもらった曲だけどね。音楽は普段聴かないから」
「あ、私と一緒だ。私もママやお姉ちゃんから借りたCDくらいしか聴かないんだよねえ」
「春宮ってお姉さんがいるのか?」
「うん、七つ上で今は派遣やってるよ。キクっちのお兄さんは何歳なん?」
「同じだ、兄ちゃんも七つ上だから春宮のお姉さんとは同い年だな」
「そうなんだ、偶然だねえ」
そう言いつつ椅子に座る小柄な彼女は、手に持つお菓子をぱくつきながら脚を前後にパタパタとさせている。まるで小動物でも見ているかのようだ。
そして雑談をする最中に、相談を陽代美に持ち掛けている柳さんのほうを見れば昨日と同じく読書をしている。教室内は人も多い、それに今は目の前に春宮もいる。話しかけるとすればやはり放課後だろう。
そんなことを考えていると、昨日と同じく漂ってくる甘い香り。
俺は今朝、新たに学習した。ギャルとは危険な存在であると。
「なあ、春宮って香水とかつけてるのか?」
「うん、ジルスチュアートのホワイトつかってるよ」
「じ、じゅるじゅるあーと?」
「ジル、スチュ、アートっ。どう聞き間違えたらじゅるじゅるなんて聴こえるのっ」
春宮から叱られつつも警戒は怠らない。
今朝、新聞配達を終えて自宅に帰れば母が洗濯機を回していた。その時『ちょっと平太、制服のシャツから色んな香水の匂いがするんだけど。まさか、いかがわしい店に行ったりしていないでしょうね』と、誤解を生んでしまった。
当然いかがわしい店になど行っていない。思いあたるといえば、カラオケ屋で『ちょっと前通るねえ』と言いながら、俺の肩や膝を触ってきた彼女たちだ。
互いの身体を擦り付けあった訳ではない。しかし、カラオケ屋とゲーセンのプリクラという限られた空間に長時間一緒にいたせいか、彼女たちの匂いが制服に染み付いたのではないだろうか。
母には『たぶん父ちゃんの服から匂いがついたんじゃない』と適当に誤魔化したつもりが、朝から菊地家では、父と母によるバトルが勃発した。
父には悪いことをした。今度欲しがっていた釣り竿でも父の日に贈ろう。
そんなことを考えていると、春宮は訝しむようにこちらの様子を窺がってくる。
「キクっち、もしかして香水の匂い嫌いなの?」
「いや、そうじゃなくて……春宮から漂ってくる香りは甘い香りがして、いいと思うぞ」
「そ、そう? そしたらキクっち、腕出して」
言われた通り右腕を前に差し出すと、春宮は鞄から透明の液体が入った小瓶を取り出し俺の腕へと吹きかけた。
これは? と問うと、彼女が使っている香水らしく、吹きかけられた手首に鼻を近づける。
「うっ……凄い匂いだな」
「ダメダメっ、こうやって手首同士を擦って馴染ませるの」
春宮の動きを真似して手首についた液体を馴染ませる。すると濃厚だった香りが一変して優しい甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ああ、これならいい香りだ。でも春宮から香る匂いとは少し違うな」
「それはそうだよ、香水って時間が経てば匂いが変わってくるから」
「なるほどな、髪にも香水をつけているのか?」
「ううん、髪にはつけてないよ。どうして?」
「春宮の結った髪から桃っぽい香りがしてたから。なにかつけてるのかなと」
「多分朝つけたヘアオイルの匂いかな。それにしてもキクっちって匂いフェチなん? よく気づくよね」
そうかもしれない。
初めて行く場所や、人が通ったあとを無自覚に嗅いだりしている。
前に座る春宮の側頭部にあるサイドテールも先程から気にはなっていた。みょんみょんと揺れる大盛りに盛られた彼女の髪からは、香水とはまた違った別の香りがする。
「そんなに気になるなら、匂い……嗅いでみる?」
「いいのか?」
「う、うん……別に、いいけど」
そうして春宮は自身のサイドテールを気恥ずかしそうに俺の前へと傾けてくる。
興味はある。女子の髪の匂いを嗅ぐ機会なんてそうそうにない。教室内を見渡してもこちらを見ている人物はいない。今が好機だ。
春宮のサイドテールを一束、手ですくい鼻に近づける。
すると、甘いようでいて、胸いっぱいに吸い込みたくなるような清々しい香りがして、鼻から通ってきた香りが口内を支配する。
「ありがとう春宮、いい香りだな。凄く女子っぽい」
「女子っぽいって、なんか今の変態っぽいよ?」
「変態ではない、ただの匂いフェチだ」
俺の反論も彼女の耳には届かないようで、怪訝な表情を浮かべる春宮は頬を膨らませる。
しかし、改めて思うのはギャルの不思議性。身体や髪に様々な香りを漂わせて、何がしたいのだろうか。
いい機会だ。春宮はギャル五人衆の中でも話しやすい人物でもある。
「どうして女子は香水とか使って色んな香りを身につけたりするんだ?」
「それは人によるだろうけど、私は自分の好きな匂いが近くにあったら幸せな気分になるからかな? それに自信にもなるし」
「自信?」
「うん、私ってばチビじゃん? 子供っぽく見られること多いいんよね。だから身につけたりする物はせめて女っぽくしておきたいなと思ってさ」
「女の自信ってことか」
「そんな感じですな」
そして予鈴が鳴り教室の扉が勢いよく開かれる。
「おるぁっ、席つけえ。アタシの授業が始まる前に遊んでるヤツは脳天カチ割んぞっ」
「うわっ、ひなちゃん来るのはやっ。じゃね、キクっち」
「ああ、お菓子ありがとう」
バタバタと席に戻る春宮を見送り、次の授業の準備に取り掛かる。
この時間帯はいつも眠くなるのだが、春宮と話した影響か今日は頭がさえている。
たまには昼休みに話をするのも悪くない。そう思いながら午後の授業が開始された。
そして放課後になり教室を出る。
今日はバイトもあるため学校に残っていられる時間も少ない。しかし、焦ってはいけない。
向かう先は文化系の部室がある特別棟。文芸部に所属している女生徒を待つ。すると五分もしないうちに目的の人物が現れる。
「菊地くん? どうしてここに?」
「柳さんと話がしたくて、時間貰えるかな。岡部くんのことで」
「ッ――。どうして、菊地くんが」
「同じクラスの陽代美から頼まれた。二人から話を訊いてもらえないかって」
「……わかった。少し待ってて」
そう言うと彼女は手に持っていた鍵で文化部の扉を開き荷物を置いて廊下に戻ってきた。
長い黒髪に縁なしの眼鏡、化粧をしているか判断はできないが、それでも美人な部類だろう。体格は細身で制服は着崩していない、クラスどころか守邦高校全体で見ても珍しい人物だ。
「場所を変えていい? ここだと他の部員が来るから」
「うん、わかった」
「ありがとう」
彼女が歩き出し、後につづく。
向かった先は特別棟廊下の一番端、廃部になったと思われる部活の備品が置かれた場所。その中には陸上で使われるスターティングブロックに埃が被っていた。
ここなら誰も来ないだろう、振り返った柳さんと向かい合い、再確認の意味を込めて質問をする。
「まず最初に、柳さんは岡部くんからの依頼を保留にしているってことでいいんだよね?」
「うん……」
「岡部くんのことが嫌いってわけでもない?」
「うん、別に彼のことをそんな風に思ったことはないよ」
まずは一安心。柳さんは岡部くんを嫌ってモデルの件を避けているわけではない。
そして、問題は彼女が依頼を断っていないところにある。その理由をどうやって探ろうかと考えていると、柳さんは制服のポケットから携帯端末を取り出した。
「菊地くんは岡部くんがSNSをやってるのは知ってる?」
「え、ああ。昨日そんなこと言ってたね。それが?」
「これを、見て欲しいの」
柳さんが俺の隣に立ち、端末の画面を見せてくる。そんな時、ふわりと優しい香りがした。
ギャルとは違い主張しない自然な香りに感心しながら、彼女が差し出した画面に視線を落とす。
その画面には『オカベ―ロン』と記されたアカウントが表示されている。
「これが、岡部くんのアカウント? どうして柳さんが知ってるの?」
「去年の文化祭で偶然知ったの、彼が漫画研究部で書いた同人誌の表紙がこのアカウントでアップされていたから。岡部くんって凄いんだよ、高校生でイラストを描いてて、フォロワーが五万人もいるの」
「へえ……そうなんだ。SNSのことはあまり詳しくないけど、柳さんは岡部くんがイラストを描いていたことは知っていたってこと?」
「うん、本人には言ってないけど。私、昔から彼のフォロワーなの。だから最初に気づいたときは本当に驚いた……これが去年、彼が描いた漫画の表紙だよ」
彼女は指でスライドさせていた画面を止める。そこには舞踏会で使われそうな仮面をつけ、片手に拳銃を携えた全身黒づくめの少年が映し出されていた。
「凄い、これを、岡部くんが描いたの?」
「そう、他にも沢山あるよ」
それから彼女は一つ一つの画像を、まるで大切な宝物を披露するかのように見せてくれた。
剣を携えた少女、手から炎を出す青年、将棋盤を睨む初老の男。そのどれもが圧倒される迫力があったり、引き込まれる華麗さがあるように思える。
一通り画像を見せてくれた柳さんに礼を言い、再び彼女は先程の立ち位置に戻る。
「つまり柳さんは昔から岡部くんのファンだった、ってことでいいのかな?」
「……そうだね、だから最初に彼からモデルを依頼されたときは嬉しかった。でも、困るよ。可愛い子なんて同じクラスにも沢山いるから」
「可愛いって、そんな――」
「だってそうじゃない、私みたいな地味で冴えない人より可愛い子がモデルをした方がきっと彼も喜ぶでしょ? だから陽代美さんにモデルの代役を頼んだの。でも、岡部くんは貴女に依頼をしたのだからちゃんと答えてあげてって言われて、それで、どうしたらいいかわからなくなって……」
ようやく見えてきた、今回の問題点。
俯いて懺悔をするように話す彼女はなにも悪くない。恐らく、モデルを依頼した彼が肝心な情報を伝え忘れていただけの話だ。
頭の中で解決案を構築していく中、もう一度確認だけしておこう。
「柳さん、少しの間そこから動かないでもらえる?」
「え? うん、わかった」
彼女を中心として、五十センチほど離れてくるりと彼女の周りを一周する。
やっぱり、なにも匂わない。
強いて言うならシャンプーか柔軟剤の香りくらいだが、そのどちらも強い匂いとはいえない。
元の位置に戻った俺を不思議そうに眺める文学少女。
あとは二人の問題だ。岡部くんが柳さんを口説けるかは、彼の頑張り次第だろう。
そして目の前にいる彼女に最終確認を行う。
「柳さん。香水って使ったことある?」




