第七十九話 たったひとりの勇者
霧のようなほの白い闇の中、ナオトはひとりでぽつんとそこに立っていた。
宛てどころなくさ迷い歩いていると、向こうから誰かがやって来る気配がする。次第に近付いてくるその人物とあと数歩で互いに交差する、と言うところでナオトが歩みを止めると、それも同時にぴたりと止まった。白い靄の中にぼんやりと浮かぶのは、ナオトと同じ背、同じ髪の色。だが、その表情だけは良く見えない。
「――お前、誰?」
ナオトが影に問い掛けると、いつかどこかで聞いたはずの懐かしい声が頭の中に響いた。
“我は汝。崇高たる獣の王。至高にして原初の存在――。ならば問おう。汝、誰ぞ”
「オレはナオト。勇者ナオト」
“笑止。嫉妬に捕らわれ、好いた女を喰らおうとする愚か者が勇者などと。己が足下に反魔法の陣が刻まれていたことにも気付かぬ、情けない有り様よ”
「反魔法? まさか、大聖堂の祭壇に?」
“汝は反魔法の陣に魔力を吸われ、それゆえ呪いの沈黙は破られ、それに屈した”
「オレは呪いに……負けたのか?」
“呪いは汝が魂に棲み付き、今にも覆わんばかりにその虚空を拡げている。だが、汝を愛し、我を愛する存在がそれを阻んでいる”
「ゆり……」
“――ゆり。その名のなんと甘美なことよ。その血のなんと芳しく、その声のなんと優しきことか”
「何だよ。お前も、ゆりが好きなの?」
“我は汝。――そう、我はあの娘を愛している。その身体に喰らい付き、その血を啜り、その内臓を味わえば、天にも昇る心地がしよう”
「……さっき、それは愚か者のすることだって言わなかったか?」
“我は汝。矛盾する感情そのものこそが、人が人たる証”
「オレもゆりを喰いたいよ。でもそれはできない。彼女がその瞳にオレを映さなくなったら、オレの名を呼ばなくなったら、オレの世界は死ぬ」
“汝がその名を呼び、その名を呼ばれる時――。我もまた、歓喜に震えるのだ”
「お前にゆりはやらないよ」
“我は汝。汝がかの娘をその手に抱いた時、我もまた、抱いている”
「なんか気持ち悪ぃなそれ……」
“勇なき者。我を認め、真に我と合一せよ。さすれば、呪いの声が我らが心を乱すこと能わず”
「呪いを消せる?」
“生命を吸い付くす呪いの性質そのものは消せぬ”
「なんだよそれ、意味なくね?」
“生命が燃え尽きるその瞬間まで、呪いに塗り潰されることなく汝は汝で居れよう”
「誇り高き死、ね。……ガラじゃねーな」
“ならばまず、自身を失わず、我と汝を愛する者の“声”を聞け”
「ゆりの……声?」
“かの娘の甘美な魔力は告げている。『生きよ』と”
「あの子はきっと、オレじゃなくても……。他の誰に対してもそう思ってる。オレだけが特別なわけじゃない」
“然り。かの娘の魔力はその強い想いが故に、他人の傷を癒すのだ”
「……オレだけを、見て欲しいんだ……」
“まだ、気付かぬのか? かの娘が我と汝に与えた魔力には、かの娘の想いが、“声”が、何時も溢れていたではないか”
「え?」
靄の向こうの男は、無言でこちらに手を差し出した。男が大切そうに握り締めたその拳を開くと――――
眩い光の雫が一斉に飛び出し、星のようにきらきらと煌めき零れてナオトの全身に降り注いだ。
無数の、"声”と共に。
『ナオトが好き』
『ナオト、大好きよ』
『好き』
『好きよ――。太陽みたいに輝く、私のたったひとりの勇者』
「……ゆり……。ゆり……!」
“かの娘の“声”は、永き刻を流離う我が孤独を癒した。故に我はかの娘が愛しく、かの娘が欲しい。――汝も、そうであろう?”
「……ああ。そうだよ」
“なれば、何事も恐るるに足りず。我は汝。汝は我。
――――ああ、ゆり。我は……、……オレは、やっぱりきみが好き”
いつの間にか、その人物はさらさらと砂のように溶け、金色の光となってナオトの身体に吸い込まれて消えた。
ナオトは光と同化した己の身体の感触を確かめるように、拳を開いたり閉じたりしながら既に空となった白い闇に問いかけた。
「――ねえ、原初の獣。あんたはオレで、でもオレが生まれるずっと前からここにいた。あんたの、本当の名前は?」
“オレの名前……。――オレは、ナオト。我が名は……、勇者オスティウス”
そしてそれきり、その声が応えることはなかった。
「――――ゆり!」
伸ばした腕が虚しく空を切る感触に、ナオトは覚醒した。
勢いに任せて飛び起きると、そこは神殿の自室。すぐ横の白い壁には、今日までに彼自身が呪いの声に抗い掻き毟った無数の傷が刻まれている。
ふと、すぐ横に人の気配を感じて振り向くと、そちらにいたのは――――ゆり、ではなかった。
「お前、誰?」
入り口近くに椅子を置きこちらを観察していた若い神官は、ナオトに睨まれると無言のまま慌てて部屋を去っていった。
誰もいなくなった部屋で、ナオトは自分の右の掌を見る。
原初の獣を取り込み、その全てを自分のものとした彼の身体は、未だ呪いの軛の内にありながらも不思議な心地好さに満たされていた。
「ゆり。オレは、ゆりの“声”を聞いたんだ」
ナオトが好き。
大好きよ。
たったひとりの。
ナオト。
私の太陽。
好き。
好きよ――――。
あの時、数えきれない程のゆりの“声”が、星となって彼の身体に降り注いだ。そしてその時、あれほど恐ろしかったもうひとりの獣が、彼女の愛すべき彼の一部となった。
それだけでもう何も、本能も、呪いも、死すら、彼の心を翳すものは無くなった。
――無くなったのに。
コンコンコンコン
控えめに四度、扉をノックする音がした。
「ナオト殿、お目覚めですか。少しお話があるのですが――」
先程の神官にナオトの覚醒を知らされたのであろう。その扉を開いたのは、いつになく深刻な面持ちの神官長だった。




