第七十八話 原初派
月夜の晩、アラスターはひとり真っ暗な執務室の窓辺に佇んでいた。既にレインウェルを含めた殆どの団員達は帰途につき、少数の夜勤の者だけが交代で街を巡回している。
アラスターの手には一枚の白い封筒が握られていた。差出人は、ゆり。
“素敵な花束をありがとうございます。私のいた世界には、青い薔薇はありませんでした。枯らしてしまうのは惜しいので、一部はポプリにしようと思います”
そう丁寧な文字で書かれたメッセージカードと、青い薔薇の花弁が数片、添えられていた。
実はこの世界でも、自然の中には青い薔薇は存在しない。白い薔薇に株の頃から魔力を含む特殊な水を与え続けることで人工的に青く色付かせるという、貴重な薔薇だった。
元はとある魔道研究員が、もらった薔薇を面倒がってそのまま研究室の霊薬の瓶に差しっぱなしにしていたことから発見されたものである。
そのため、この薔薇は発見者の瞳の色と同じだという理由から、栽培家の間ではそのままその発見者の名を冠されていた。――即ち、「ユークレース」と。
いつかゆりにその逸話を面白可笑しく聞かせてやろうと思うアラスターだったが、そもそもこの青い薔薇を選び贈ったのは、それが理由ではない。
ゆりに、似ていると思ったのだ。魔力を含んだ清浄な水でしか咲かせることのできない、雑じり気のない生き様。その姿は凛とした美しさに溢れ、見る者を魅了せずにはいられない。不可能を可能にする、唯一無二の存在。
アラスターは封筒から摘まみ上げた青い花弁にそっと口付け――――
次の瞬間、抜剣すると誰もいないはずの窓の外にそれを突き出した。
「誰だ!?」
青い花弁がはらはらと床に落ちる中、月に照らされ窓の外から執務室へと身を滑り込ませたのは、白いローブの男。
「『閃光』の、」
それは、教会の暗殺者――。『閃光』のエメだった。
「何の用だ、俺を殺しに来たのか?」
「そういう命令は、受けてない」
エメはそう言うと、その場に白いローブを脱ぎ捨てた。ずしり、と見た目以上に重たい音がして、それは床に落ちる。うねるような金の髪に、青白い肌。冷艶という言葉を体現したかのような美しさが月明かりの下に晒された。
アラスターは警戒を緩めず、剣の切っ先をエメに向ける。
「暗殺者が素顔を晒すなど、ろくな理由が浮かばん」
「話が、ある」
「……ゆりのことか」
「それも、ある」
そこまで言われて、アラスターは漸く剣を下ろした。この男は目的を達するためには手段を選ばないだろうが、ゆりのことに関しては信用が置ける。ローブを脱いだのは、武器を隠してはいないというアピールなのだろうと。
「アンタ達も、教会のゴタゴタは、把握……してるな?」
「ああ。北の村の事件のことも、調べさせてもらった」
ゆりの告発の後、アラスター達は密に北の村へ赴きゆりの言葉の真偽を調査した。荒れ果てた村の墓地を暴き――埋葬されている遺体の数が、明らかに評議会の把握している人口と合わないことを確認した。これにより、ゆりの“密告”は俄に真実味を帯びた。つまり、村人二百人は全員アンデッドに変貌したのだと。
原因と目的は不明。さりとて些か雑とも言えるこの隠蔽に、恐らく教会は一枚岩ではないのだろうということだけがアラスター達に伝わった。
「黒幕は、『原初派』だ」
「……!」
さらりと述べたエメのその言葉に、アラスターの胃はカッと熱くなった。
――原初派。
それは、豊穣の女神サーイーを唯一絶対の神とする女神教において異端とされる派閥。
オスティウスが勇者として人に変ずる前の姿――原初の獣こそを至高の存在とする宗派である。
この原初派には、アラスターも過去に少なからぬ因縁があった。
アラスターが物心ついたばかりの頃、アーチボルト家の馬車が襲われた。賊はアラスターを拐おうとし――生命の危機を感じた幼いアラスターは、自我を失くして原初の獣に変貌し、賊を食い殺した。その時一緒にいた、実の兄と共に。
結局ただの身代金目的の誘拐だったと断じられたのだが、その背後に「原初派」がいたのではないかという疑念は今も払拭できずにいる。
「原初派の狙いは……。勇者か」
「だろう、な。何年も前から、水面下で動いていた」
恐らく、ナオトが神剣を引き抜き、勇者として迎えられた頃から。
「大聖堂の件も、関わりがあるのか」
「教団外部の者が、大聖堂に細工をすることは、不可能だ」
つまりは、内部の――原初派の仕業である。
「素性は割れているのか」
「おおよそ、把握している。次に動く前に、全て、終わらせたい」
その言葉に、アラスターは眉を跳ね上げた。
「その動きが……近々あるということか?」
「…………。アイツらの目的は、神獣人の勇者を、完全に獣にすること」
「自我を奪うのか」
「それは既に、何度も実行、されている。……その度に、邪魔が入っているが」
麻薬で前後不覚にし、理性を奪おうとした。
消えない傷を負わせて、痛みで我を失わせようとした。
そして今は、呪いで生命そのものを揺さぶっている。
だがそれは全て一人の人物の手により防がれ、未だ成されてはいなかった。
――――それは、ゆり。
アラスターは震えた。
次に狙われるのは、ゆり自身だという予測が容易に立てられたからだ。
「オレはこの件で、一度、トゥ=タトゥへ……行かなければならない」
「ゆりの守りは、どうする」
「ユリが、神殿にいる限りは――目が、ある。女神の戒律も。問題は、外だ」
女神教では人同士の争い、殺生は禁じられている。神殿の中でそれを行うことは、異端の原初派と言えども忌避するだろう。
エメは無言で、アラスターに何かを投げて寄越す。アラスターが反射的にそれを掴み取ると……それは、黒い石が嵌め込まれた、革紐のようなものだった。
「これは?」
「手綱、だ。――『自由の鎖』の」
「…………! まさか、ゆりにこれを?」
「そうだ」
事も無げに答えたエメの言葉に、アラスターは顔をしかめた。
昔――まだここが王国で、奴隷制が認められていた頃。見えない鎖で奴隷を縛る魔道具が存在していた。生活の全てを主の監視下に置き、他者がその身を脅かすことも、また自ら命を絶つことすら許さないその鎖。現在では違法だがその技術は未だに失われておらず、アラスターも大規模な人身売買組織の摘発を行った際、それを目にしたことがあった。
ゆりは屈託のない笑顔をしながら、この男にこんな倒錯的な鎖を付けることを許している。この鎖がなんたる物か知ってか知らずか――。
だが少なくとも、ゆりが目の前の物騒な男に全幅の信頼を寄せていることだけは疑いようがなかった。
アラスターの内に僅かに嫉妬の感情が芽生える。しかし、本当に原初派が動くとしたら背に腹は代えられない。
「貴様は――ゆりを、囮に使うつもりか」
アラスターが吐き捨てるように言い放つ。するとその瞬間、エメの全身からとてつもない殺気が迸り、渦巻く風となった。
「おとり? ……ユリを汚す者は、全員殺す。原初派も、勇者も、アンタも、例外なく」
アラスターが殺気を臆することなく正面から受け止めると、びりびりとした気配は潜められ、ただ氷のように美しい男がそこに立っていた。
「だが少なくともアンタは、ユリの意思に反してユリを傷つけることは、しない。信用している」
「……それは、名誉なことだ。勇者は随分と信用を失くしているようだが」
「馬鹿猫はユリに守られるだけで、何も返しはしない。傷付けて、奪うことしか考えない。――この件が終われば、オレがアイツを殺す」
その言葉には確かな殺気が込められ、それが決して冗談ではないことを告げていた。
だが、神獣人であるアラスターは知っていた。ゆりの身が、未だ清いままだということは。
そして、あらゆる傷を癒すゆりの口付けを受けたことがある者ならば知っているだろう。ゆりの甘美な身体の味を知ってなお、それを手に入れようとしないのは――並大抵の意思ではないと。鋼の自制心を持つと自負するアラスターでさえあの時一瞬、正体を失くしたのだから。
勇者は勇者なりに誠実にゆりに接している――。
アラスターはそう思ったが、だからといって庇う気は起こらなかった。
「アーチボルト卿。ユリを、少しだけ、預ける。だが、教会からは、出すなよ。報酬は――手柄だ」
手柄――。つまり、この事件の幕引きに関して、評議会側にその権利を譲るということだろう。
アラスターは預けられた“手綱”を握り締めると、エメに背を向けた。
「俺が、報酬のためにゆりを守るとでも? 俺は俺の意思で、ゆりを誰にも傷付けさせはしない。――それから言わせてもらうが、ゆりはお前の所有物ではない」
「阻む者は全員、殺すだけ」
エメは白いローブを拾い上げると、窓枠に手を掛けた。そうしてばさりとその白い衣を翻し纏うと、あっという間に夜の闇に消えてしまった。




