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放課後は絵を描く。ひさしぶりの部活。顧問にすすめられて、県展に出す絵の構想を練りはじめた。しめきりは来年度で、まだずいぶん時間があるから、いろいろ描いてみて、ゆっくりじっくりとテーマなりモチーフなりを探すようにと顧問は言う。
唯は、描いたものを誰かに見られるのが好きじゃなかった。心のなかをのぞかれているみたいで。だから今までコンクールに作品を出すのにも抵抗があって。だけどもう三年生になるし、中学最後だし、なにより他人の評価というものを、欲しいと思うようにもなった。
やっぱり風景画かなあ、いやいや植物もいい。唯はスケッチブックを片手に外へ出た。学校の敷地内にも「とどめておきたくなる瞬間」があるかもしれない。
中庭のつつじ。銅像。テニスコートから聞こえる、ラケットがボールを跳ねかえす気持ちのいい音。吹奏楽部のロングトーンの音。グラウンドのぐるりに植えられたソメイヨシノたち。ホイッスル。かけ声。トラックを回る生徒たち。
ハードル。
蒼が走っている。
偶然、視界にとびこんできたのだ。風を切って走る蒼のすがた、ゴールを見つめるまなざし。しなやかにハードルを飛び越えて。ためらいもなく。走り抜ける。
魅入ってしまって、息をするのを忘れていた。
ゴールした蒼がふいにこちらを見て、唯に気づく。あわてて体育倉庫の影へかくれようとしたけど、遅かった。蒼が駆けてきたのだ。
「唯。なにしてんの?」
「えと。絵の、モチーフを、さがしてて……」
「ふうん」
蒼は笑う。まだ息があがっている。首すじに汗が流れている。
「今日さ、一緒に帰ろうよ」
え? と唯は目をしばたいた。
「四人で」
と、蒼は頭のうしろをかく。
「哲也と、ほのかも」
タカシマくーん、と呼ぶ声がして、「おっといけね」と蒼は肩をすくめた。
「じゃな、また。駐輪場で待ち合わせ」
「えっ? ちょ、ちょっと」
片手をあげて、蒼はもといた場所へ戻っていった。その後ろ姿を、唯は、ぼうっと見つめていた。
一緒に、帰る。
いいよね、友達なんだし。そう、心の中でつぶやいていた。
四人で帰る、とは言ったものの、ほのかと哲也は妙な気を利かせて、「商店街のほうに寄ってくから」などと言って唯たちをふたりにした。いつもこうだ。文句を言おうとしたけど、ほのかが哲也を好きだと言ったことを思い出して、やめる。
ほのかまでも恋愛なんてものにうつつを抜かすなんて。唯は歯噛みした。お母さんといい、みちる姉ちゃんといい。
哲也くん待って、と言ってもたもたとスタンドを起こすほのか。
ふーん、と思う。まじで好きなんだ。
「さびしい?」
蒼が、ぽつりとつぶやいた。
「え?」
「ほのか。最近、唯より哲也になついてる」
「う、うん。……少し」
なついてるって、犬じゃあるまいし。そう返そうとしたけど、うまくしゃべれない。
そのまま、ふたりは駐輪場を出た。
のろのろと自転車をこいで、陸上部の生徒たちに追い抜かれて。通りすがりに、「蒼ばいばーい」「高島、またなー」と、声をかけられて、そのたびに蒼は「おうー」と答える。
にやにやと意味深に笑っているものもいたし、あからさまに口笛を吹いていくものもいた。
そのたびに、唯はいちいち、いたたまれない気持ちになっていたけど、蒼はすずしい顔をしている。
なんでそんなに平気な顔してんの。ぜったい誤解されてるよ、あたしたち。そう言おうとして、やめた。また、蒼がへんなことを言い出すかもしれないから。せっかく、約束通り普通にしてくれているのに。
国道を渡るとひと気も明かりも減り、いよいよふたりきりになった。うすい闇のなか、空気は冷凍庫の中のようにつめたくて、手袋をしていてもハンドルをにぎる手はしびれている。緑の、タータンチェックのマフラーが風になびく。片手で器用に巻きつけ直す。
「蒼」
「なに?」
「蒼って。走るとき、何考えてんの」
気になっていた。今日、走っているすがたを見てから、ずっと。
「なんにも考えてない」
蒼はこたえた。なんにも、と唯はくりかえす。
あの瞬間。蒼がハードルを飛び越える瞬間を。とどめておきたかった。
「唯は、何考えてんの」
「え?」
「絵、描いてるとき」
「うーん……、いろんなこと。この構図いまいちだなとか、いい色が出ないなとか、ぐるぐる考えながら描くよ」
「そっか。難しいんだな」
「うん。なんにも考えずに描いたら、理想のゴールにたどり着けないから」
あくまであたしの場合ね、とつけ加える。
「おれと逆だな」
蒼はつぶやく。
「おれの場合、考えたら終わりだもん。足が止まっちまう」
あくまでおれの場合な、とつけ足した。唯は笑った。
やがて唯の家に着き、門の前でふたりは別れた。
じゃな、と片手をあげて自転車をこいでいく蒼のうしろすがたを、見つめる。
大きくなった背中、学ランの黒が闇に溶けて遠くなるまで。夏、熱中症になりかけた唯をおぶってくれたときのことを思い出して、また心臓が早鐘を打ち始める。
結局、あのときも、蒼の「友達だろ」の言葉にあまえて、自分を許してしまった。いっしょにいたいと思う自分を、許してしまった。
胸がくるしくて、ただいま、も言わずにドアを開ける。とたんに、クリームシチューのにおいにくるまれる。
水玉模様のエプロンで手をぬぐいながら、母が玄関まで出迎えにきた。
「おかえり」
「……ん」
「ね。蒼くんでしょ? 一緒に帰ってきたの」
母は唯の腕に手を添えて、顔をのぞきこんだ。その目はきらきらと輝き、からかうような色をうかべている。
「たまたま一緒になっただけ」
「ふーん。たまたまかあー。ふうーん」
なにやら母は機嫌がいい。にやにやと笑いながら、
「いいなあー。若いっていいなあー」
などと言う。
「うざい」
唯はつめたく言い捨てた。母はきょとんと目をまるくする。何が起こったかわからないといった様子だ。
「う・ざ・い」
今度はちゃんとわかるように、大きくゆっくりと発音してやった。
怒るでも泣くでもない、母は、ただただ呆然としている。いらいらして、そのまま階段を駆け上がり、部屋にこもった。ごはんを食べる気も失せた。
いつからか、母のことばがカンに障るようになってきた。
さっきのがはじめてじゃない。
「いつ来てもいいように」と、生理用品のはいったポーチを渡された六年生の秋。
まあたらしい制服に身を包んだ姿をまじまじと眺めて「スカート、いいじゃない」と言われた、入学式の朝。
湯上りにTシャツいちまいで涼んでいたら「そろそろ、ちゃんとしたの、つけなきゃね」とほほ笑まれた、中一の初夏。
「血が出た」と告げたら、「おめでとう。大人の女性の仲間入りだね」と笑って、なぜだかケーキを買ってくれた中二の春。
母のことばはいつも、唯に怒りと絶望をもたらす。初潮も、胸がふくらむのもたんなる自然現象だし、お母さんのせいじゃないと理性で自分を保っていたけど、さっきは許せなかった。踏みにじられた気がした。
蒼との友情は、母が思うようないやらしいものじゃないし、一年後も十年後も二十年後も変わらずにつづくもの。そう、哲也と蒼のように。
だけど残念ながらおたがいの感情の色が変わり始めてしまったから。すこしでもバランスが崩れたら、ぱりぱりと砕けてしまう。だから、大切に丁寧に、これ以上変わってしまわないように、気を張っているのに。
ベッドに伏せて。ふとんを頭からかぶって泣いた。くやしくて、くやしくて。だけどいったい、自分が何にたいして抗っているのか、わからない。ぐるぐると感情と思考が渦を巻いて、がんじがらめで動けない。
なんにも考えずに、ただ、走り抜けられたなら。そのとき見えるのは、どんな風景なんだろう。唯はすこし、蒼のことが、うらやましくなった。




