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小学校のとき。保健体育で、受精のしくみというものを習った。女性はからだのなかに「タマゴ」をたくさん持っているのだという。胎児のころ、つまり、まだ母親のおなかにいるころから、女の子は「タマゴ」の素を抱えているという。それを聞いたとき、唯は「うえー」と声に出してしまっていた。ほのかも、ほかの女子も、「神秘的」とか言って目を輝かせていたのに。年頃になると、毎月毎月「タマゴ」はぽんっと生まれて子宮へ向かうのだという。
なんの呪いだ。そう思わずにはいられない。こいつがかけた呪いか。と、キッチンで鍋をかき混ぜている母のきゃしゃな後ろ姿を見やる。
みちる姉ちゃんもきっと、呪いのせいでああなった。男なんかにつかまって、あんなに媚びた顔をして。恋愛中の人間はみんな、あんな顔をしているんだろうか。目をうるませて、口を半開きにして、頬を染めて。
ソファに置かれたクッションを、ぼかぼかと殴る。ひどくむしゃくしゃする。
「どうした唯」
父のゆったりした声が飛んできて殴る手を止める。父はよれたスウェットの上下を着て、頭には寝癖がついて、無精ひげがぽつぽつと伸びていた。
「おまえもついに、反抗期かー」
父の手が唯の頭を撫でようとする。「さわんなよ」と言って唯は反射的に身をかわし、逃げた。父はさびしげにため息を吐く。
「しょうがない。女の子は誰でも通る道だ。わかっていてもつらいなあ、父親ってやつは」
がっくりと肩を落としてぶつぶつとひとりごちている。
父の「女の子は誰でも」という言い草に、唯はまたまたかちんと来てしまう。思いっきりソファの足を蹴り、だけど自分の足が痛くなっただけだった。父はそんな唯を見ておなかをかかえて笑った。「笑うなよっ!」と父の腹にパンチをかまそうとしたけど、逆にその手をつかまれてしまう。
「ひさびさに相撲でもとるか?」
「だれがするかっ!」
父は、にまっと笑うと熊のように大きな手で唯の頭をぐりぐりと撫でた。
「ふふん。お父さんの勝ちー」
満面の笑みでダブルピース。唯はむくれて自分の部屋へ引っ込んだ。
お父さんってほんとうにおめでたい。なんにも、なんにも知らないで。のん気にごろごろして、お母さんのつくった料理なんて食べて。こどもと相撲なんてしてる場合じゃないのにさ。
ベッドにダイブし、枕をぎゅうっと抱きしめる。放りなげていた携帯を引き寄せ、いじり始める。
更新、されてる。唯はごくりとつばを飲んだ。毎日のようにチェックしているブログだ。見ないほうが自分のためだと思っていながらもやめられない。
タイトルは「海辺の主婦の片思い日記」。いつ見ても背すじがぞわぞわする。
書いているのは唯の母だ。一年前、偶然発見した。家族共用のパソコンの履歴が、いつも消されているのに、たまたまその時は残っていて、唯は、取り立てて深く考えず、好奇心からクリックしてしまったのだった。
母が書いているという証拠はない。書かれている人名も地名もすべて仮名。だけど、内容がもろに母の状況とかぶる。へんぴな海沿いの田舎町に中学生の娘とふたりで暮らしているとか、スーパーのパートに出ているとか。夫は単身赴任中とか、初恋を実らせてゴールインしたからほかの男とつき合ったことはない、とか。それから、年齢も。
今日の日付の記事に、目を通す。
「家族とゆっくり過ごすお正月。しあわせだけど、物足りない。あの人は今、だれと、なにをしているの?」
とだけ。みじかい文章だ。唯や父の目を盗んで、携帯から書きこんだんだろう。こんなブログなんかやって、全世界に向けて恥ずかしいポエム発信するなんて、吐きださずにはいられないなんて、信じられない。
唯は枕に顔を押し付けて、うー、と悶えた。イタいし、恥ずかしいし、サムい。
タイトル通り、母の恋は「片思い」だ。相手は、パート先のスーパーによく来る若いイケメン。名前も知らないらしい。だから、母としては、父を裏切っているわけではないし、この先だって彼とどうにかなりたいと思っているわけではない、らしい。過去記事に、何度も何度も、言い訳のように書き連ねてある。
「主婦だってときめきたい。妄想だけの恋ならいいよね? あのひとが、私がまだ女だってこと、思い出させてくれたの」
なんだよそれ、と思う。母はしょっちゅう、「女でいたい」「女を忘れたくない」と書き込んでいる。なんでそんなに「女」に執着するのかわからない。ひたすらイタい。
あたしはぜったいヤダ。一生「女」になんかなりたくない。
小学校のとき唯は、卒業文集に載せる「将来の夢」がテーマの作文に、「仙人になりたい」と書いて担任にあきれられた(もちろん書き直しさせられた)。
たとえば霞を食べて生きる仙人。無色透明の幽霊。精霊。男でも女でもないもの。
わかっている。願いはかなわない。どんなに嫌でも、からだはふっくらと丸みを帯びてきているし、タマゴは毎月生まれてる。唯の心は置いてきぼり。いや、心までもが変わっていく。
勝手にどきどきする心臓。蒼を追いかけてしまう目。声を拾ってしまう耳。熱くなる頬。
認めたくない。
まさか蒼に、好きだと言われるなんて。想定外だった。
父が赴任先の町へ帰り、みじかい冬休みが終わった。母は、父の前で秘めた心などみじんも表に出さず、あくまでふだん通りだった。父がいてうきうきする様子さえ見せていた。
「オトナって、よくわからん」
朝のホームルームを待つ教室で。ほおづえをついてひとりごちる。唯だって、ブログを見つけてしまわなければ、母の思いに気づくことなどなかっただろう。世の中には、うかつに知らないほうがいいことが、たしかにある。
「新学期早々、なにをたそがれておるのだ」
からかうような声が降ってきて顔をあげる。茅野は、にかあっと笑うと、唯の前の席の椅子を借りて座った。
いっそ茅野に打ち明けてしまおうか。母の妄想片恋日記、このひょうひょうとした友人ならば、からっと明るく笑い飛ばしてくれるような気がする。
「いや、でもなあ……」
腕組みして考えこむ唯。
「恥ずかしすぎるからなあ……」
「なーにーがー?」
「なんでもない」
ふーん、と茅野はわざとらしく黒板のほうに視線をとばした。蒼と哲也に多田がからんで、三人でじゃれあっている。
「いや、それ誤解だから。べつに関係ないから」
あわてて言い訳すると、茅野はふたたび
「なーにーがー?」
と間延びした声を出す。口の端がすこし上がって、笑いをこらえているように見える。
くっそ、茅野のやつ。人をおちょくりやがって。
唯はむくれた。バカみたいだ、自分。




