第25話:吉野川を遡って
翌朝、食堂に降りてきた名方は、目の下にうっすらと隈を作っていた。
「名方さん、おはようございます」
美藍はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、声をかけた。
「……おはよう」
「昨夜、よく眠れましたか?」
「……聞くなよ、それ」
名方は力なく椅子に腰を下ろすと、大きなあくびを噛み殺した。
「あの爺さんたち、揃いも揃って豪快ないびきでな。しかも片方が寝返り打つたびに、布団の擦れる音まで響くもんだから……。おまけに、隣の爺さんが夜中に何度もトイレに立つし」
「あはは、想像以上でしたね」
「里奈はちゃん?」
「わたしはぐっすりでしたよ。美藍と二人、静かなもんでした」
里奈はすまし顔でそう言うと、味噌汁を口に運んだ。
「くそ、俺だけこんな目に……」
名方はぼやきながら、朝食の焼き魚に箸をつけた。
「まあまあ、名方さん。今日は美馬まで長丁場ですから、車の中で少し寝てくださいね」
「そうさせてもらう。運転は俺しかできんから、寝るわけにもいかんが……」
朝食を終え、三人が宿を発とうとすると、女将が台所から出てきて、竹の皮に包んだものを三人に差し出した。
「これ、握り飯。道中、小腹すいた時にでも食べんさい」
「わあ、ありがとうございます! いいんですか?」
「なんの、若い子が二人に、殿方が一人、こんな山ん中うろうろしよるんじゃ、ちゃんと食べな体がもたんよ」
女将は日に焼けた顔をほころばせながら、包みを美藍の手に握らせた。そして、後ろで所在なさげに立っていた名方をちらりと見て、少しおかしそうに付け加えた。
「お連れさん、昨夜あんまり眠れとらんかったみたいじゃね。しっかり食べて、運転気ぃつけてな」
「……面目ない」
名方は苦笑いを浮かべながら、頭を掻いた。
「気ぃつけて行きんさいよ」
「はい! お世話になりました!」
三人は女将に何度も礼を言い、名残惜しさを感じながら『民宿かなや』を後にした。
車は、那賀町から一度、吉野川沿いの幹線道路まで大きく迂回する形で北上を始めた。
「美馬まで、結構かかるんですね」
美藍が地図アプリを覗き込みながら言うと、名方はハンドルを握りながら頷いた。
「那賀町と美馬市じゃ、県の南と西で全然方角が違うからな。一旦、吉野川沿いまで出てから、そこを遡っていく形になる」
「里奈、山道、大丈夫?」
「平気平気。むしろ、こういう長距離移動の方が、ゆっくり話せて良かとよ」
車は緑濃い山々を縫うように進み、やがて吉野川の広々とした流れが見えてくる幹線道路へと合流した。
「うわぁ、川が大きい……! 那賀川とはまた違う雰囲気ですね」
美藍が窓に張り付くようにして、景色を眺めた。
「吉野川は四国三郎なんて呼ばれるくらい、暴れ川として有名だったんだ。それだけ流域も広いし、水運も昔から発達してた」
名方が運転しながら説明する。
「あ、それって……。この前話してた、防衛ラインの話にも繋がりますよね。神山、美馬、つるぎ町っていう」
「ああ、その通りだ。この吉野川そのものが、いわば阿波の歴史の大動脈だったわけだからな」
里奈が興味深そうに口を挟んだ。
「美藍の防衛ライン説、道中の景色見よったら、なんとなく説得力が増してくる気がするとよ。実際にこの目で地形ば見ると、また違う」
「でしょ! 地図で見るのと、実際に走ってみるのとじゃ、全然違うんだよね」
美藍は嬉しそうに頷いた。
車窓には、青々とした藍畑と、稲田が交互に広がっていく。夏の強い日差しが、吉野川の水面をきらきらと輝かせていた。
しばらく走ったところで、名方が小さくあくびを漏らした。
「……すまん、ちょっと眠気が」
「大丈夫ですか? どこかで休憩します?」
「いや、大丈夫だ。……美藍ちゃん、悪いが、何か話しかけて眠気覚まさせてくれ」
「了解です! じゃあ、また私の説、聞いてもらっていいですか?」
「おう、来い」
美藍は待ってましたとばかりに、鞄からノートを取り出した。
「魏志倭人伝の行程記事なんですけど、九州から水行二十日で土佐、そこから陸路十日で阿波に至るっていう解釈があって……」
「おいおい、また新しいのが出てきたな」
名方は苦笑しながらも、ハンドルを握る手に少し力が戻ったようだった。
車は吉野川に沿って、なおも西へ、美馬の山並みを目指して走り続けた。途中、開けた河原に車を停め、三人は女将が持たせてくれた握り飯を頬張った。
「うわ、美味しい……! 塩加減が絶妙です」
「宿のおもてなし、身に染みるね」
里奈も頬張りながら、しみじみと呟いた。
吉野川の流れる音を聞きながら、三人はしばしの休憩を取った後、再び車に乗り込み、美馬の山並みを目指して走り出した。




