1世界は神によってリセットされました
「ハァハァ……! やった……やったぞ!」
悪魔は人と同じく神に翻弄される存在だとヨルビノシュは知った。
神は人がいなくとも存在し、ただただ天の上から支配する残虐な奴らである。
対して悪魔は人の欲望から生まれ、人と同じく神に命運を握られているのだ。
人を支配するのではなく、欲望を満たし、正当な取引による代価を受け取っているに過ぎない。
悪魔の歴史は人の歴史と言ってもいい。
神なんかよりもよほど親友のような関係になる。
だからといって実際には親友にもなりたくないような脆弱で、欲望に満ちているのが人間だ。
悪魔の方がよほど崇高だとヨルビノシュは思う。
「時の神……やつから奪ってやった! 人間どもの抵抗も……無駄じゃなかったな」
悪魔ヨルビノシュは悪魔たちの世界へ向かって走っていた。
手には天使の血に塗れた小さな懐中時計が握られている。
「これで……あいつらに一泡吹かせてやる!」
気づいた時にはもう、世界はリセットに向けて転落を始めていた。
モンスターが現れ、悪魔は荒れた世界を喜んだ。
ただ喜んでなどいられなかった。
人が滅び、悪魔が滅び、世界が滅ぶ。
早くしなければ、魔界すら神に侵略されてしまう、とヨルビノシュは焦りを抱えて走る。
「くだらないことを考えるよな……!」
世界がリセットされると神の格もリセットされる。
しかし全てがなくなるわけじゃなくて、少しだけ残されて次の世界に持ち越せる。
こうして神は世界のリセマラで自分の格を上げてきたのであった。
「なっ……!」
どこか薄暗さの拭えぬ世界に浮かぶような美しき白い古城が見えてきた。
悪魔に似つかわしくないような真白の古城は魔界においても異質な存在であった。
三大悪魔が一人、クイーンの居城が攻撃されている。
「クソ天使どもが! 何してやがる!」
城を攻撃しているのは清純さでも見せつけるような真っ白な翼を生やした天使であった。
ヨルビノシュは灰色がかった肌に青筋を立て、草も生えない真っ黒な地面を陥没するほどに強く蹴って走り出す。
一歩ごとに加速して、姿がブレるほどの背を向ける天使に一瞬で近づく。
「死ね、クソが!」
天使の頭を鷲掴みにして、捩じ切る。
血が噴き出し、天使の体が力なく倒れる。
人と同じく赤い血だが、人のものはどこか魅力的に感じられる一方で、天使の血は血であるのに汚れを感じない嫌な液体だった。
神の使いたる天使たちは自分たちだってリセットされる存在なのに、ただ神に従い、自分たちが正しいと戦う。
哀れな奴らであるとヨルビノシュは思う。
悪魔として人の欲望に応え、そして自身の欲望として強さを求めてきた。
たかが天使など敵ではない。
そのまま天使の頭を握り潰す。
「どけぇ!」
汚れた天使の血を振り払ったヨルビノシュは魔力で黒い剣を作り出し天使を切り裂いて前に進む。
白き古城の中では悪魔と天使が戦い、悪魔も天使もなく折り重なるように倒れるひどい有様であった。
天使の死体を踏み越えて走る。
間に合ってくれ、と心の中で願う。
「邪魔をするな!」
天使がヨルビノシュに襲いかかってきた。
懐中時計を握りしめたまま、牙を剥き出すように感情を表に出して剣を振るう。
天使の槍が脇腹をかすめて黒い血が流れても、気にすることもなく相手を斬り伏せる。
「クイーン!」
白き古城の最上階にヨルビノシュが飛び込む。
「そんな……」
羽がちぎられたり、頭がなくなったりして倒れる大天使の死体が転がっている。
そして奥には大きな玉座がある。
白き古城を悪魔にしたような美しき白い女性が、玉座にもたれかかって座っている。
その胸には剣が突き刺さっていた。
たかだか剣一本。
それすらも、引き抜くことができないような状態だった。
白き女性に付き添う青い肌をした悪魔の女性アタラシュレオナが、泣きそうな顔をしてヨルビノシュの方を振り向く。
普段はほとんど無表情な悪魔なのに、額にある三つめの目まで今は泣きそうになっていた。
もう数百年も一緒にいるけれど、ヨルビノシュも初めて見る顔だった。
そして、ヨルビノシュ自身も自分の顔が感情に左右されて勝手に歪んでいることを感じていた。
「何があった……」
いつもなら目を細めるような微笑みで迎えてくれるクイーンが、今はヨルビノシュのことも見ずにただ玉座の上で目を閉じている。
死んでいるのかもしれない。
頭の中を浮かんだ考えにヨルビノシュは自分を殴りたくなった。
「分からない……急にあいつらが攻めてきて、クイーン様は私たちを守ろうと戦って……」
アタラシュレオナも片腕がない。
クイーンが認めるほどの悪魔であるアタラシュレオナは、ヨルだって力を知っている。
小さく呟くような声は、わずかに震えていた。
「クイーン! 目を開けろ! 奴らから時間を奪ってきた!」
死ぬはずがないという思いとそれに反するクソみたいな考えがぶつかり合う。
悪魔として生まれ、こんな気持ちになったのは初めてだった。
クイーンはヨルビノシュにとって母親のような悪魔であった。
『放っておけばすぐに死んでしまいそうだ。どうだ? 私の世話をするのなら守ってやってもよいぞ』
力が弱かったヨルビノシュにそんな言葉を投げかけて、拾ってくれたのがクイーンだった。
今思えば、怠惰の悪魔と評してもいいほどの自分の世話係が欲しかったのかもしれない、と思うこともある。
ただそれでも救われたことに変わりはない。
「ヨル……ビノシュ…………」
「クイーン!」
ヨルビノシュが玉座の前で膝をつき手を握ると、クイーンはうっすらと目を開けた。
いつも冷たい手だが、今はもっと冷たく感じる。
「時間を戻そう! 対価を用意する時間はないけど、俺の力を捧げる! これがあれば……」
「いいの……」
「何が……いいだ!」
クイーンはそっとヨルビノシュの手に自分の手を重ねる。
何百年も変わらぬ美貌、長きにわたりクイーンとして君臨してきた悪魔の最後がこんなものなのかとヨルビノシュは首を振る。
「……これはあなたが使いなさい。私を代償に」
「そんなバカなことを……」
「この世界は……もうすぐリセットされてしまう。私たちは消える……神の傲慢に巻き込まれて、何もかもが一から始められ、繰り返す」
「だから終わらせよう! みんなで……」
「時を戻す代償を今から用意する時間はない……私の力ならお前たちを戻すこともできるだろう」
「……それなら俺が犠牲になる。クイーン、それにアタラシュレオナ、お前たちが過去に戻ればいい」
人が何かを犠牲にする気持ちを理解することができなかった。
他人のために自分を差し出す人間が時にいた。
なぜそんなことをするのか、不思議だったものだが、今のヨルビノシュにはその気持ちの少しは理解ができる。
他人あるいは他の悪魔がどうなろうとかまわない。
そう思って生きてきたが、何かを失う怖さを今初めて知った。
悪魔らしくない感情だと自覚はしていた。
「私じゃダメ……私の力の限界は分かり切っている。もう百年も同じままだから。でもあなたなら……私を超えられる」
クイーンはヨルビノシュの頬を撫でた。
滅多にないが、クイーンは褒める時にそんなふうに頬を撫でることがあった。
百年に一度だってあるかないかのことだが、今はそんなことしてほしくはない。
「使えそうだと思ったからなのにね。不思議」
クイーンの目から涙が流れる。
神は、悪魔を泣かせた。
これが、世界を支配するもののやることなのか。
そんな思いに堪え切れぬ怒りが湧いてくる。
「アタラシュレオナ……ヨルビノシュを支えなさい。そして……この馬鹿げたリセットを止めるのよ」
「……はい」
「まだ悪魔の生き残りがいたぞ! 神の名の下に悪魔を滅ぼすのだ!」
天使が最上階に傾れ込んでくる。
もはや白き古城に残る悪魔は他にいないようだった。
「早く……行きなさい。戻ったらあなたのことを忘れているかもしれないけれど、私もきっと……力になる」
「……分かった」
ヨルビノシュは立ち上がる。
懐中時計の鎖を握りしめ、天使たちに見せつけるように突き出す。
「これ以上、クイーンの玉座に近づくんじゃない」
闇を移したように光を宿さないヨルが手を向けると、飛びかかった天使がバラバラに破裂する。
「何をするつもりだ!」
「神の下僕どもが、よく見ておけ!」
懐中時計の針がゆっくりと逆に回り始める。
「全てをなかった初めからやり直す? そんなことさせるかよ! これは終わりじゃない。始まりだ!」
世界を救うことになんてヨルビノシュには興味ない。
だがリセットされると全てが無くなることになる。
ヨルが積み重ねてきたものも、クイーンの業績も、アタラシュレオナと共に過ごした日々も。
そしてこの世界さえも全て。
神の好きにさせて、消えてやるつもりはない。
「あれは……止めるんだ!」
「見てろ……神ども! 自分の欲のために世界をオモチャにするクソを俺がぶっ殺してやる」
神を殺し、止めるという不遜な叫びに天使が顔を歪める。
それはヨルビノシュの決意であり、宣戦布告であった。
「こいつは……俺のもんだ」
ヨルビノシュは上を向き、口を大きく開ける。
懐中時計を持ち上げ、口の上でパッと手を離す。
飛び込んできた懐中時計を歯で挟み、顎の力を強めていく。
「なに……」
驚く天使たちの顔を楽しみながらヨルビノシュは懐中時計を二つに噛みちぎった。
神の味がある。
それだけに留まらず、咀嚼を続ける。
ガラスが砕け、口いっぱいに金属のクソ不味さが広がっていく。
時間を喰らってやった。
今すぐ目の前の天使を殺してやりたいという感情ごと噛み砕かれた懐中時計はヨルビノシュの喉を流れていく。
「バァッ!」
ヨルビノシュが口を開け舌を出す。
そこに懐中時計はなかった。
次の瞬間、世界が、歪んだ。
「いくぞ、アタラシュレオナ!」
ヨルビノシュはアタラシュレオナに向かって手を伸ばす。
「…………いってくる」
アタラシュレオナはほんの少しのためらいを見せ、クイーンに触れた。
「行きなさい……きっとあなたたちなら」
思いを振り切るようにクイーンから手を離し、アタラシュレオナは歪んでいく世界の中、ヨルビノシュの手を取った。
目を閉じたクイーンの呼吸が止まった。
体が砂のように崩れて消えていき、ヨルビノシュの体の中で時計が時を逆に刻む音が不思議と鳴り響く。
「神は覚えていないだろうな! だが俺は忘れない! お前らは俺が殺す! 時よ、戻れ!」
ヨルビノシュは体に熱さを感じた。
世界がさらに歪んで、ヨルビノシュの意識は真っ白く塗りつぶされていったのだった。




