第一章 終電が出たあと
午前一時三十分。
俺は薄暗い指令所のモニターを見つめていた。
赤い点が三つ。
黄色い点が一つ。
下り十二番線。
人身事故。
復旧見込み二時間。
指令補が短く呟いた。
俺は黙って頷き
卓上の業務手帳を開いた。
ダイヤを引き直す。
それが俺の仕事だ。
ダイヤ。
鉄道屋がそう呼ぶのは
列車の運行を時刻と位置で描いた図のことだ。
縦軸に駅。
横軸に時間。
走る列車は斜めの線になる。
一目で何時にどこを走るかが分かる。
指令員にとって命綱の図面だった。
事故が起きたら俺はこれを頭の中で書き換える。
どの列車を止めるか。
どの列車を折り返させるか。
どの列車を間引くか。
全部
脳内で完結する。
「高架さん また一人でやってるんすか」
後輩の若い指令員が背後から覗き込んだ。
「そうだな」
「もう神業っすよ。俺ならパニクって何もできないっす」
俺はマウスを動かしながら答えない。
褒められると胸の奥がざらつく。
そんな感覚は持ち合わせていないからだ。
鉄路の信号が緑に変わる。
迂回ルートが立ち上がる。
「下り十番線 折返変更 よし」
俺は指で画面を差して声に出す。
これを指差喚呼という。
指で差して
声に出して
確認する。
ただそれだけの動作だ。
これでヒューマンエラーが半分以上消える。
俺たちが日常的にやっている地味な作法だった。
早朝四時。
俺は仕事を終えて指令所を出た。
街はまだ暗い。
始発が動き出す前の駅は息を潜めている。
俺は古い踏切まで歩いた。
この踏切が昔から好きだった。
理由はない。
ただ
線路が見える。
カンカンカンと警報機が鳴り
始発の貨物が遠くを通る。
そういう景色を見ていると
俺はここにいてもいいのだと思える。
それくらい
俺は何者でもなかった。
「俺の人生に意味なんてあるのか」
口の中で呟いた。
返事はもちろんない。
三年前のことが頭をよぎる。
婚約者だった女が
別れ際に言った言葉。
「あなたって時刻表みたいな人ね。正確で退屈で誰でも代われる」
俺は何も言い返せなかった。
その通りだったからだ。
通勤客が増えてくる時刻。
改札を出たところで
俺は彼女に会った。
元婚約者。
その隣に立つのは
今の夫の乾。
大手の人事部長だと聞いている。
「あら 高架君じゃない」
彼女は気まずそうに目を伏せた。
俺は会釈だけ返した。
乾はにやりと笑った。
「お疲れさん。まだ歯車男やってるんだ」
歯車男。
そう呼ぶのが乾の口癖だった。
「替えの利く仕事って楽だよな。俺なんか毎日プレッシャーで吐きそうだぜ」
俺は何も言わない。
言い返す言葉が浮かばないのではない。
言い返す気力すら残っていなかった。
自宅のアパートに帰り
俺はテレビをつけた。
ニュースが流れている。
「都内の通勤路線で再び人身事故。利用者からは怒りの声が」
俺は溜息をついた。
死ぬ人間にも家族がいる。
ダイヤを乱された乗客にも家族がいる。
俺の仕事はその間の調整役だ。
誰からも感謝されない。
それでいい。
そう自分に言い聞かせてきた。
画面が突然砂嵐になった。
俺は眉をひそめてリモコンに手を伸ばす。
砂嵐の中に
何か図のようなものが浮かんでいた。
縦軸と横軸。
斜めに引かれた無数の線。
ダイヤ図だ。
ただし俺の見たことのない図だった。
駅名らしき文字も
書体が違う。
古い。
古すぎる。
千年は経っていそうな。
俺はテレビに近づいた。
画面が一瞬光り
視界が真っ白になった。
足元が抜けるような感覚。
俺は意識を失った。
暗闇の中で
脳裏に走馬灯のような断片が流れていった。
指令所のモニター。
赤い点
黄色い点
青い点。
俺たちはこれを毎日いじっている。
線が一本ズレる
それで誰かが結婚式に遅刻する。
線が一本通る
それで誰かが家に帰れる。
俺たちの仕事は
点と線のゲームに見えるかもしれない。
でも
点の向こうには人がいる。
線の上には人生が乗っている。
そう思って俺は仕事をしてきた。
誰にも気付かれなくても
それでいいと信じてきた。
業界には
マルヨという言葉がある。
丸の中にヨ。
鉄道用語で丸囲み文字を意味する記号。
ヨは夜の頭文字
泊まり勤務を指す業界用語だ。
俺はマルヨ専門。
ただの夜勤の歯車。
それでも
俺の引いたダイヤの上を
何百万の人生が走っていた。
早朝の踏切。
すぐ脇に立つ古い案内板。
『ご利用ありがとうございます』
そう書かれた板は
半ば塗装が剥げ
鉄錆が浮いている。
ありがとう。
その文字を見るたび
俺は奇妙な気持ちになった。
俺は今まで
誰かにありがとうと言われた記憶が薄かった。
褒められても
お礼を言われても
何故か胸に染みなかった。
たぶん俺は
自分が誰かに感謝されるに値する人間だと
本気では思っていなかった。
通勤客の中で
俺は乾に絡まれた朝のことを思い出した。
『替えの利く仕事って楽だよな。お前みたいな夜勤専門の小さい歯車はそのうちAIに置き換わるな』
何百回も浴びてきた侮蔑の言葉が
今もうっすらと胸に残っていた。
暗闇は深く
俺は流されていった。




