第8話「騎士殿の正義はおいくらですか限界被害者としてはびた一文支払えません」
「見るなと言われて目を閉じてあげられるほど。私の一日は安くも安全でもございませんので」
私が声音の湿度を完全に抜いて紡ぎ出した返答は、ひび割れた結界の毒気で澱んだ天幕の中に、氷のように冷たく張り付いた。
無言の威圧をかけていたはずの大きな影の主――王都を抜け出して前線の地獄に立つローデリク・ヴァルガの顎が、微かに跳ね上がる。傷だらけで泥まみれのその大柄な体を動かしているのは、非情な怒りではなく、隠し持っていた瘡蓋を爪先で弾かれたような狼狽だった。
王国の最大防衛火力を担うべき大剣が、ここでは見えざる暴力の対処療法に磨り減っている。
彼ら前線にいる者は、防壁の向こうにどれほどの「不足」が生じているか肌で知っているはずだ。どこかが極端に薄くなっていることも。それにより理不尽なほころびが生み出されていることも。
しかし彼が命じているのは根本的な打開ではない。「ここで見るな。お前のような者が首を突っ込んで抱え込める現実じゃない」という一方的な隔絶である。
「あなたは」
彼の喉が低く震えた。声量は限界まで落とされ、天幕の周囲の人々には届かないように押し殺されていた。
「ここへ興味本位で救済をもたらすことが、どれほど己を傷つけることか分かっているのか。先ほどの繋がりを見ただけで気がつかないか。その異様な引力の奔流から一瞬で切り離せたなど、到底信じられる現象ではないんだ」
(そりゃどうも。数日おきに致死量の引力で生命の灯火ダイソンされてるベテラン生け贄候補ですので、切断作業くらい慣れたものなんですよねワンチャン!)
内心のドチャクソ痛快な反骨神拳とは裏腹に、私は清浄なる神殿職員のポーカーフェイスをミリ単位で死守していた。彼からすれば、私の見せた癒やしは「触れてはならない世界の崩落システムへの不用意なアクセス」以外の何物でもないのだろう。
だから止めに来た。だから「知るな」と遠ざけようとした。
けれど、それでは筋が通らない場所があるのだ。
「不思議なことをおっしゃいますのね、大将さん。その異様な繋がりがなんだと言うのですか」
私は静かに彼の言葉を拾い上げ、一歩だけ間合いを縮めた。彼が見上げざるを得ないほど高い背を丸めている今、視線の高さはほとんど等しかった。
「このような恐ろしい痛みが日常的に人々の間に散らばり、あなたが身を窶すほどその被害が押し隠されている。その巨大な崩壊の歪みから発生するものを……誰も支えず、ただ蓋をして、どこか一番遠くにいる『一人』に丸投げできたなら。問題はきれいさっぱり片付くとでも、本気で思っておいでなのですか?」
ローデリクの目の奥で、炎が激しく瞬いた。
言葉の応酬の中に忍ばせた『一人』という単語が、彼の抱え込んでいる重責に直接触れたからだ。
厚手の外套と顔半分を隠す布の下で、私は彼を見据えたままわずかにも退かなかった。誰に向かって言ってんの。アンタの想定する最悪の終着点である処刑台の上に立っていた当の被害者本人が、今この泥の中にまで追いかけてきているんだよ。
「綺麗事だ。すべてを救える絵空事など机上には存在しない」
それは絞り出された本音の破片だった。冷酷無比と謳われる武神が、己の牙を無理やりへし折って咀嚼し続けた最低最悪の模範解答。
「水門が完全に崩れてからでは国が滅びる。外縁でこれだけほころびが出ているなら、中枢はいつ破綻してもおかしくない状況だ。大惨事を待つよりも前に水漏れを防げる最後の歯止めがいるとしたら……誰かが犠牲の堰となり、その上に立ってでも見えない痛みに耐え抜くしかない」
ギリリ、と、革手袋に覆われた彼の大きな拳が白く縮んだ。
この異常な痛みに苛まれる子供たちを毎日見据えて、防波堤のごとく一人で被害を処理し続けている現場のトップだからこそ辿り着いた、暗闇の論理。
数人の小さな破滅か。多数を守るための大義か。
(マジかぁ)
私はゆっくりと息を吐いた。神聖なる脳内シナプスのすべてが、過去の最後の景色と、目の前に立つ痛々しいほどの背中を完璧に繋ぎ合わせた。
だから、あの日、お前は動けなかったんだな。
王都の大広場で、力及ばず偽物の聖女として糾弾され、私が絞首台の縄に首をかけられる瞬間。誰よりも国境で兵を動かす実行部隊でありながら、一歩も前に出ず、そして勝者の顔ではなくひたすらに死の足元を見つめ続けていた。
それは「この弱り果てた偽物を殺せば丸く収まる」という悪辣な快楽ではなく。
『自分自身ですら抱えきれなかったどうしようもない綻びを、たった一人に覆い被せ、それでようやく平穏が成立しているふりをしている国への途方もない絶望と罪悪感』だった。
最悪から全体を守るため。彼らが刷り込まれ、信じ切るほかなかった最低で完璧な言い訳である。
ああ。だとしたら。
「……随分と悲しい場所に、ご自身を縛り付けていらっしゃる」
同情する。するに決まっている。彼は私という一個人を不当に貶めようとした薄汚い小悪党ではなく、単に最悪と最凶を天秤にかけて狂い続ける秤から降りられなかっただけの迷子だ。その強さに相応しい理不尽を延々と食らわされてきたのだろう。
けれど。
「ですが大将さん。それは、貴方の傷のお話であって、私の話ではないんですよ」
「何?」
「全部救えないなら一人は捨ててよい。一人が我慢すれば十の痛みが防げる。そうやって傷の数を比較し、もっともらしい痛ましい顔をして、それでも最終的な引き金に手をかけ続けているから、貴方の目に真実が見えないんです」
静かだが重みを持たせた宣告が、彼を押し包む防壁に決定的なヒビを入れるのを見た。
「貴方はご自分の心のすり減りを誰にも言わずに丸呑みにしていることで、なにか崇高な役割を負った気でいるのでしょうけれど。――自分の口元からこぼれた痛みが他人の肩口にこびりついている事実に、ほんの僅かでも想像が及びませんでしたか?」
(ええ、私という前世処刑ルートを叩き潰された超絶被害者に対してね!! ワンチャンいい顔で「見捨てたのは私だ」的な悲哀エンジョイしてんじゃねえよ! 全部吸い取られた挙げ句に偽物判定まで喰らった私の自尊心舐めんな!)
荒ぶる脳内の聖女オーラと完全にシンクロして、私を取り巻く神聖で澄み切った気配だけが急上昇する。外から見れば無慈悲な女神のお告げである。ローデリクは私の放った矢から抜け出せず、かすかな息遣いだけを漏らして身動きを止めていた。
「仕方ない選択があるのは認めます。痛みにまみれた決断もあるのでしょう。……でもね、だからといって、『切られた一人の側』が、貴方のもっともらしい理屈なんかのために大人しく見殺しにされてやる義務なんか、これっぽっちもありませんのよ」
彼の中の大義を、頭から泥の中に叩きつける言葉だ。
可哀想だからと私が折れる道はない。同情するからと、制度という名のふかふかな裁断台へ再び寝転がってやる優しさは前回の人生に全部置いてきた。
あなたが守ろうとした理不尽な数の論理そのものが、見えざる引力の巨大な罠の中に存在し、誰かの都合で作られたシステムのエラーでしかないのだと知った以上は。
私は沈黙に落ちた最強の騎士へ一礼し、治療を施した泥塗れの寝床から静かに距離を取った。
「その大きすぎる後悔は、もうすぐ誰のものでもなく明るみに出る。お勤めご苦労様でした」
「……待て。貴様は一体」
泥を払い直して離脱を図る私に向け、彼がやっと伸ばそうとした片腕よりも早く、視界の脇から軽やかな身のこなしが介入する。
積荷の束の陰から這い出たルカだ。彼は荷運び人らしき古びた外套に深く身を沈めたまま、あからさまな乱入者として私たちの間に素早く割って入った。
「失礼するぜ大将。このご令嬢はちょいとばかり身分持ちの迷子でね。道楽の善意が終わったら即お連れするように言いつかってるもんで、このあたりで引かせてもらう」
私物を取り返すように肩を引き寄せられ、強引に天幕の出口側へ引っ張られた。その動作に乗じながら、私はルカと無言の呼吸を合わせ、早足で夜の静けさに滑り込んだ。
ローデリクは追ってこなかった。
追いかける足そのものが、彼の中の大義とともに一時的な凍結状態に置かれたのが後ろの空気から伝わってくる。大一番で自分が無意識に盲信していた「誰かが責任を一極集中で負えば助かるのだ」という言い訳を物理的にヘシ折られたショックが、どれほど彼自身の中枢を抉ったことか。
「どうだ、見立てと収穫の割にはすこぶるヤバめの空気じゃねえか。ハンナのお婆さんに雷落とされるぜ」
夜の木陰を抜け、王都へ引き返す馬車が隠されている合流地点へ走る途中、ルカが声を潜めたまま私の横で笑いを殺して聞いてきた。
「ええ。収穫は最高の最低よ。お給金以上の超過勤務感謝するわ、ルカ。ハンナの説教は……二人で連帯して被りましょう」
「お貴族様が連帯責任の概念を持ってるのは新鮮で良いね。で? 真相らしきデカい影に当たりはついたのかよ」
(バッチリですとも)
荒い呼吸の中で、私の思考はすさまじいスピードで回っている。
結界には裏側へ繋がる暴力的な吸収システムが存在している。私の中に残っていた力がそれに直結した。だから前世でも、あれだけ過剰な神殿判定と、儀式そのものの中に仕組まれたバカみたいな異常引力で吸い取られ続けた末に枯らされた。
そして騎士団長を縛り付けていた鎖は、「全員滅ぼしたくないなら末端からの水漏れには黙れ。一人の犠牲ですむ」という巨大すぎる全体主義の刷り込みだ。実務側にいて被害にいちばん心を痛める武の頂点を機能不全に追い込めるほどの強権による大義名分。
それだけの巨大な嘘と負担の隠し穴を作れる奴は限られている。
神殿の頂点と、そしてもう一つ。
(これだけの負担集中と破綻を王宮側から高見の見物して、いちばん安全なところで沈黙し続ける人間が一人いたわよねえ!)
あの大広場での決着の瞬間。一滴の涙も零さずに冷たく玉座に近しい高台に並んでいた者たちの中で。もっとも美しく、もっとも非情に見えながら――後悔なのか空虚なのかわからない、まるで大切なものを自身の指で捻り潰したかのような酷い目をした人間が。
「馬車に戻りましょう。明日から本腰よ」
泥だらけの靴を前へと踏み出し、王都への細い月を見上げる。
この異常すぎるシステムの総決算を行うには。一人の限界を犠牲の果てまで知り尽くしたあの国定ナンバーワンの無表情第一王子セオドール・アルヴェインが、なにを見て沈黙を守ってきたのかという分厚い資料の扉を開ける必要がある。
次はアンタよ、冷血無言王子殿下。その首の皮一枚の嘘ごと引きずり降ろして、全部平等に吐き出させてやりますからね!!




